詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大橋愛由等「むじか」

2013-11-19 12:24:51 | 詩(雑誌・同人誌)
大橋愛由等「むじか」(「エクリ Oct」1 、2013年11月発行)

 「エクリ Oct」1 には大橋愛由等、高谷和幸ら4人の作品が発表されているが、一つのルールをもっている。一つの断章が 140字以内で書かれている。ツイッターで書かれたのかどうか知らないが、ツイッターの投稿ルールにのっとっている。そのせいか全員の作品が似通った傾向にある。 140字を一文として、そのなかで文脈がねじれる、ゆらぐという感じなのである。 140字のなかで複数の文章(複数の句点「。」)をもっているのは高谷の書いているものだけであり、他の人は 140字が一文なのである。--うーん、これではおもしろくない、というのが私の第一印象である。ことばの粘着力というのは、長い文章なら出てくるというものではないだろう。初期の中上健次は短文を積み重ねて、そこに若い精液のような粘着力をあふれさせた。そういうものがあってもいいし、短い文章でことばのことばの空間が多い文体もあっていいのではないか。そういう不満を、まず、書いておく。

 大橋愛由等「むじか」の作品は4人の作品のなかではいちばん印象に残った。それは最初に読んだからかもしれない。大橋の文を読んだ後、他の3人のことばを読むと、あ、また 140字で一文か……と思ってしまうのである。
 でも、ほんとうは、違うのである。たしかに大橋の作品は他の 3人の作品と比べるとおもしろい。しかも、それを証明(?)するのに、他の作品を引用しなくてもいいのである。

1★廃墟となったその家にはシャガールの複製画とイディッシュ語のメモが遺されていて誰かに読んでもらうために置かれたのかもしれないしそうでもないかもしれないと思いなすうちに夏の夕方は暮れてゆき”Beimir bist shone ”かどこからともなく聴こえてきそうでそうでなさそうで

2★少女がこもる部屋からはビリー・ホリデーとコルトレーンの”Speak low ”が交互に流れてきて「絶望は友達」という名前のブルーブラック色のインクで手紙を書き続けていて午前4時ちょうどに投函しなきゃ効果はないのと云うのだがこの街の郵便ポストは深夜になると眠ってしまい<口>を閉じるのだということは知らない少女

 1の断章が完結していないのである。しかも、その末尾は2の断章につながっていない--のか、つながっているのかよくわからない。「1★」「2★」という個性的な区切りを考慮するならつながっていないと考えるのが自然かもしれないが、飾り(?)を無視して綱いてしまうと、前の文章とのつながり具合がそれほど不自然ではないのである。つながると同時に何かが重複して世界がふくらんでいく。多層構造になっていく。
 これは、どういうことだろう。
 ことばは「意味」を追いかけていないのである。「意味」などどうでもよくて、ただことばがどこまでつながるか--ということを確かめているのだ。というよりも、世界はどこまでも「ひとつ」であるということを確かめているというべきか。
 「つながる」という関係性(運動)だけが「意味」なのであって、つながったもの同士は「意味」ではなく、「意味」を浮き彫りにする「もの」なのだ。
 いま、私は無意識に「もの」ということばをつかったのだが、何かと何かが「つながる」とき、「何か」とは「もの」であり、「つながる」は「こと」である。世界には「意味」はないが、「こと」はある。
140字のなかにある「こと」は、そのまま 280字、 420字とつづいていって、そのまま「こと」でありつづけていいのである。
 でも、それでは、なぜ「1★」「2★」というような区切りを入れたのか。断章を強調する形にしたのか。それは「断章」であると強調した方が、これはつづいていますよ、と主張するとき「衝撃」が大きくなるからである。そういう衝撃を呼び込むために、大橋は「わざと」「1★」「2★」という区切りを挿入するのだ。(ツイッターの書き込みが 140字に限定されることを逆手にとって、区切りを飛び越えていくのである。)
 方法論として、大橋ははっきり「持続」というものを意識している。その意識の強さの分だけ、他の3人よりも浮き立って見える。
 でも、こういう「わざと(方法論)」だけを指摘して、それが感想になってしまうというのはなんだかさびしいなあ。詩を読んだ喜びがない。私の読み方は間違っているのだろう。

 ちょっと違うことを書いてみようかな。

 こういう長い文体、うねる文体では、たぶんことばの響き、リズムが重要なのだと思う。大橋のことばには、響き・リズムが複数ある。それも 140字のなかで複数ある。「1★」でいえば、「シャガール/複製画/イディッシュ」という子音の強いことばがある一方で、「かもしれないしそうでもないかもしれない/聴こえてきそうでそうでなさそうで」という母音がだらだらした感じの繰り返しの音がある。「思いなすうちに夕方は暮れてゆき」という肉体を刺戟する音のうねりもある。これでは、ちょっと「ムジカ(ミュージック)」に身を任せる感じにはなれないんだけれどなあ。--私はなれないんだけれどなあ。
 こういうことも、「わざと(方法論)」だけが印象に残る原因かもしれない。
 あ、違うことを書くつもりだったが、同じことを書いてしまったか。

 高谷和幸を読んでみる。「八つの方位からの声の無性格さについて」。

言葉が語る。十月の海がいくつもの息をしているように、言葉が語る、その
イマージュを海底に沈んだ石に来らしめ、従聴するかぎりにおいて、「言
葉が語る」を聞かない権利でしか聴かないようにと、その聴方法のみをたよ
たりに-言葉が語る-。その傷痕の声を抱きすくめんと、「石が言葉を語
る」ことがありえるだろうか?

 「言葉が語る」と「言葉が語る」。このとき最初の「言葉」は語っているのか。「語る」ということを別の言葉が語るのか。「言葉が語るのを聴かない」ということを「聴か ない」--とは「聴く」ことである。という具合に要約すると、いや、それは違うと誰かがいうだろう。ことばは「便宜上」のことしかあらわせないから、いつでも「違う」という異議は入り込む。それは「八つの方位」つまりあらゆる角度(視点のある位置)から聴こえてくるが、どんなに「違う」という「位置」が違っても「違う」という異議においては「ひとつ」。つまり、個別性がない。普遍である。いいかえると「無性格」である。
 と言っていいのかどうか。--と書いてしまうと、高谷の文体からも句点「。」は消えてしまうなあ。どこまでも「切断」なくつづいていくなあ。高谷の「。」は大橋の「1★」のようなものなのだ。
 あ、また同じことを書いてしまう……。

 4人が同じ形式で書いているのではなかったら、きっと違った感想になった。4人一緒だから面白いと思う人がいるかもしれないが、私には逆に作用したみたいだ。


群赤(ぐんしゃく)の街―句集
大橋 愛由等
富岡出版
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西脇順三郎の一行(2)

2013-11-19 00:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(2)

 「カプリの牧人」

我がシヽリヤのパイプは秋の音がする。

 なぜ「シシリヤ」なのか。わからないけれど、その「清音」のつながり、シの繰り返しが「我が」の「が」の音によっていっそう透明なものになる。同じ濁音でも「ぼくの」では違うなあ。「私の」でも違う。何か「間のび」してしまう。「我が」は音が短く、すばやい。そのすばやさが「シシリヤ」を加速させる。
 ところで、「パイプの音」というのはどういうものなのか。私は煙草(パイプ)を吸わないので知らない。
 知らないので、よけいに抽象的な、透明な「音」を聞いてしまう。「シシリヤ」のように子音と母音が最小限で構成された「サ行」の音を思い浮かべる。
西脇順三郎詩集 (現代詩文庫 第 2期16)
西脇 順三郎
思潮社
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