粕谷栄市『瑞兆』(思潮社、2013年10月31日発行)
粕谷栄市『瑞兆』は、どこから書きはじめようか。現実と幻が出会い、入れ違い、どっちがどっちへ動いていくのかわからないので、いつも迷う。でも、この迷うこと、わからてくなることが「この世のことわり」(14ページ、「桃の花」)なんだろうなあ--と書いてしまうと、変に「わかった」気持ちになるから困る。
わかりたくない。
粕谷栄市の書いてることは「わかりたくない」、いや「わかってはならない」、ということを私は書きたいのかもしれない。
「桃の花」というのは概略(?)を書くと、道端に爺と婆が手を取り合って笑っている。それは石に刻まれた姿なのだが、その向こうの桃畑では男女がむつみあっている。石に刻まれたふたりは、むつみあうふたりの将来の姿なのか。あるいは、そのふたりは石にきざまれたふたりの見ている夢なのか。どっちであっても、どこかに手を取り合ってわらっている石の爺と婆がいるとき、石にきざまれたふたりから離れたところで男女がむつみあって、同じことをくりかえしている。--そういうことが「この世のことわり」であって、 それは「春になると、桃の花が咲く」のと「同じ」「ことわり」なのだ。
あ、引用の仕方を間違えたかな?
この部分は、次のようになっている。爺と婆は、
「ことわり」ということばを私は日常的につかわないので、そこに引っぱられてしまったが……。
「ことわり」というのは「理由」であり、さらに一歩進んで、「理由」を超えた「道理」ということかな? それは「決まっている」ことなのだけれど、それを「決める」のは「誰か」ではなく、自然にそうなること。一種の「必然」のことだろうなあ。男と女が出会い、そこからセックスがはじまる。これは「必然」。そうやって睦まじくなった男女がいっしょに暮らしていっしょに年をとっていくのも必然。ふたりから生まれたこどももやがて誰かと出会い、むつみあい……というのも必然。それが男女の道理であり、この世のことわり。自然の姿。
まあ、そういうことなのだろうけれど、こういう「ことわり(道理/必然/自然)」を追いかけているとき、見落としてしまうことばがある。
簡単に(?)挿入されている「同じ」こそが、粕谷のキーワードだ。誰もが「同じ」ことをする。「同じ」ことに幸福を感じる。むつみあい、不思議な喜びを感じる。それは「同じ」。子供が産まれ、年をとっていく。やがて死んで行く。それも「同じ」。「必然」とは「同じ」であり、「ことわり」は「同じ」である。
なのだけれど。
ゆっくり読み返そう。爺と婆の石の彫り物がある。それは昔彫られたときのままである。それは、「春になると、桃の花が咲くのと同じ」。
「石の爺と婆が立っている」と「桃の花が咲く」が「同じ」。--これ、変だよね。何が「同じ」? 何を挿入すれば、「同じ」になる? 何を省略すれば「同じ」になる?
春になると桃の花が咲くのは自然の摂理、必然。
男女が年をとれば爺と婆になるのは自然の摂理、必然。
だけでは、変だねえ。人間は一生がある。時間に区切りがある。(まあ、桜にだって、区切りがあるだろうけれど。)
で、人間の方は、きっとこどもに摂理、自然を引き継いで行く。
年月のなかで、花も人間も同じことを繰り返す。人間は、自分のやったことをこどもに引き継いでいく。それは、逆に言えば、いま生きているのはだれかのやったことを人ついでいるから。そして「同じ」ことをする。
「同じこと」が繰り返され、それが摂理、自然になる。
そして、その「同じ」を繰り返すこと、繰り返しながらそれを必然(自然/普遍)にかえてしまうという運動は、「人間」と「桜」の区別をなくしてしまう。「同じ」を繰り返し、必然/自然/普遍/ことわりに到達するという運動に人間と桜の違いはない。それが「同じ」なのだ。
うーん、堂々巡りをしてしまうなあ。
ちょっとはしょって言いなおすと、「同じ」が「違う」ものを結びつける。どんな違うものも「同じ」でつながっている。--この、奇妙な「矛盾」のなかに、粕谷の「必然/自然/普遍」という「思想(肉体)」がある。
「違う」ものが「同じ」というのは矛盾だけれど--この矛盾(あるいは「違い」)を、粕谷は「幻」と呼んでいる。そして、その「幻」こそが真実であるという。「幻が真実である」というのも「流通言語」では矛盾になるのだけれど。
矛盾をとおしてしかとらえることのできないもの--それが詩だからね。
粕谷の詩は、そういう意味では、いつも「同じ」ことを書いている。題材をかえても、そこで動いていることばは「同じ」ことろをまわりつづける。他には動いていけない。それが粕谷の思想だから。
ちょっと違う書き方で「同じ」をもう一度取り上げてみよう。「同じ」がキーワードであることを書いておこう。
「無題」という作品。
「同じ(ように)」ということばが出てくる。「同じ」はなくても「意味」は通じる。けれど、粕谷は書かずにはいられなかった。ただし、一回だけ。「同じ」は粕谷の意識のなかでは、そこいらじゅうにあふれている。「同じように」は、どこへ挿入しても「意味」はかわらない。
うなだれて坐っている男のとなりに、「同じように」うなだれて、もうひとりの男が坐っている。そのとなりにも、「同じように」うなだれて坐っている男がいて、そのとなりに、また、「同じように」うなだれて坐っている男がいる。
「うなだれて坐っている男」ではなく、「同じ(ように)」をこそ、粕谷は書きたいのだ。伝えたいのだ。でも「同じように」では抽象的なので、それを「うなだれて坐っている男」と言い換えて繰り返すのである。「うなだれて坐っている男」は、石にきざまれた爺と婆、手を取り合って笑う爺と婆と同じように、「同じ」を言うための「方便」なのである。
で(と私は、ここで、いつものように飛躍する)。
なぜ「同じ」を違う題材で繰り返すのか。それが粕谷の思想だから、根本だから--と言うだけではあいまいすぎるので、補足する。
「同じ」を繰り返すことが「わかる」につながるからである。ただしわかるのは、「同じ」であることが「わかる」。「同じ」ではない部分は、「まちがい」であり、「幻」なのだ。幻(まちがい)の奥に「同じ」があって、それが世界を支えている。
「うなだれて坐ってる」というのは何かの間違い、幻。爺と婆になり手をつないでわらっているのも間違い。幻。爺、婆というのも間違い。幻。粕谷は爺ではなく婆であっても同じように、今度は爺を探して交わるだけである。男女の区別はない。そういう区別は「まちがい」「幻」。
「ほんとう」は繰り返される「同じ」だけ、「同じ」を繰り返すことだけが「ほんとう」なのだ。それを「わかる」。何か(もの)が「同じ」かではなく、「同じ」という「こと」があるだけなのだ--それが「わかる」。
これ粕谷は「骨身にしみて」と書いている。その「わかる」を「肉体」で覚える、ということだと私は読み替えている。
*
「同じ」に関するいい加減なメモ(思いつき)。
私は詩を読みながら、詩のなかにある「矛盾」を探す。そこに「思想(肉体)」の何かが隠されていると思うからである。今回書いたことで言うと、桜と人間が「同じ」というのは「矛盾」である。あるいは、論理が飛躍していると言うべきか。
その「矛盾」を追い詰めていくと、何かわけがわからなくなるし、書けば書くほど堂々巡りになるのだが、「同じ」ということばが粕谷にとって重要であることがわかる。粕谷は「同じ」ということばがなければ、きっと詩が書けない。
で、こういうことばを私はキーワードと呼んでいるのだが、これは一種のiPS細胞なのだ。「同じ」ということばは粕谷にとっては、そのほかのあらゆることばになりうる可能性をもったことばなのである。「同じ」から出発して、あるときは爺、婆になり、あるときはうなだれる男になる。詩集に登場するほかのすべての「もの」も「同じ」によって動いている。「同じ」ということばは、詩集の随所に挿入することができる。そして「同じ(ように)」ということばを挿入すれば、粕谷の詩は、きっと「わかる」。骨身にしみてくる。
私は詩のなかにあらわれた「矛盾」を止揚して「結論」へ向かうのではなく、その「矛盾」を解きほぐして、矛盾が生まれる前の状態、細胞が細胞になる前の、iPS細胞のようなものへまで解きほぐしていって、そのiPS細胞が、他のことばにかわる瞬間、その動きをみたいのである。
ことばもiPS細胞をもっている。ことばは「肉体」なのである。iPS細胞(思想/肉体)を感じ取ることができる詩が私は好きである。
粕谷栄市『瑞兆』は、どこから書きはじめようか。現実と幻が出会い、入れ違い、どっちがどっちへ動いていくのかわからないので、いつも迷う。でも、この迷うこと、わからてくなることが「この世のことわり」(14ページ、「桃の花」)なんだろうなあ--と書いてしまうと、変に「わかった」気持ちになるから困る。
わかりたくない。
粕谷栄市の書いてることは「わかりたくない」、いや「わかってはならない」、ということを私は書きたいのかもしれない。
「桃の花」というのは概略(?)を書くと、道端に爺と婆が手を取り合って笑っている。それは石に刻まれた姿なのだが、その向こうの桃畑では男女がむつみあっている。石に刻まれたふたりは、むつみあうふたりの将来の姿なのか。あるいは、そのふたりは石にきざまれたふたりの見ている夢なのか。どっちであっても、どこかに手を取り合ってわらっている石の爺と婆がいるとき、石にきざまれたふたりから離れたところで男女がむつみあって、同じことをくりかえしている。--そういうことが「この世のことわり」であって、 それは「春になると、桃の花が咲く」のと「同じ」「ことわり」なのだ。
あ、引用の仕方を間違えたかな?
この部分は、次のようになっている。爺と婆は、
遠い昔、小さな石に彫り込まれたときの姿で、ひっそ
りとそこに立っている。それは、多分、春になると、桃
の花が咲くのと同じこの世のことわりからのことだろう。
「ことわり」ということばを私は日常的につかわないので、そこに引っぱられてしまったが……。
「ことわり」というのは「理由」であり、さらに一歩進んで、「理由」を超えた「道理」ということかな? それは「決まっている」ことなのだけれど、それを「決める」のは「誰か」ではなく、自然にそうなること。一種の「必然」のことだろうなあ。男と女が出会い、そこからセックスがはじまる。これは「必然」。そうやって睦まじくなった男女がいっしょに暮らしていっしょに年をとっていくのも必然。ふたりから生まれたこどももやがて誰かと出会い、むつみあい……というのも必然。それが男女の道理であり、この世のことわり。自然の姿。
まあ、そういうことなのだろうけれど、こういう「ことわり(道理/必然/自然)」を追いかけているとき、見落としてしまうことばがある。
同じ
簡単に(?)挿入されている「同じ」こそが、粕谷のキーワードだ。誰もが「同じ」ことをする。「同じ」ことに幸福を感じる。むつみあい、不思議な喜びを感じる。それは「同じ」。子供が産まれ、年をとっていく。やがて死んで行く。それも「同じ」。「必然」とは「同じ」であり、「ことわり」は「同じ」である。
なのだけれど。
ゆっくり読み返そう。爺と婆の石の彫り物がある。それは昔彫られたときのままである。それは、「春になると、桃の花が咲くのと同じ」。
「石の爺と婆が立っている」と「桃の花が咲く」が「同じ」。--これ、変だよね。何が「同じ」? 何を挿入すれば、「同じ」になる? 何を省略すれば「同じ」になる?
春になると桃の花が咲くのは自然の摂理、必然。
男女が年をとれば爺と婆になるのは自然の摂理、必然。
だけでは、変だねえ。人間は一生がある。時間に区切りがある。(まあ、桜にだって、区切りがあるだろうけれど。)
で、人間の方は、きっとこどもに摂理、自然を引き継いで行く。
年月のなかで、花も人間も同じことを繰り返す。人間は、自分のやったことをこどもに引き継いでいく。それは、逆に言えば、いま生きているのはだれかのやったことを人ついでいるから。そして「同じ」ことをする。
「同じこと」が繰り返され、それが摂理、自然になる。
そして、その「同じ」を繰り返すこと、繰り返しながらそれを必然(自然/普遍)にかえてしまうという運動は、「人間」と「桜」の区別をなくしてしまう。「同じ」を繰り返し、必然/自然/普遍/ことわりに到達するという運動に人間と桜の違いはない。それが「同じ」なのだ。
うーん、堂々巡りをしてしまうなあ。
ちょっとはしょって言いなおすと、「同じ」が「違う」ものを結びつける。どんな違うものも「同じ」でつながっている。--この、奇妙な「矛盾」のなかに、粕谷の「必然/自然/普遍」という「思想(肉体)」がある。
「違う」ものが「同じ」というのは矛盾だけれど--この矛盾(あるいは「違い」)を、粕谷は「幻」と呼んでいる。そして、その「幻」こそが真実であるという。「幻が真実である」というのも「流通言語」では矛盾になるのだけれど。
矛盾をとおしてしかとらえることのできないもの--それが詩だからね。
粕谷の詩は、そういう意味では、いつも「同じ」ことを書いている。題材をかえても、そこで動いていることばは「同じ」ことろをまわりつづける。他には動いていけない。それが粕谷の思想だから。
ちょっと違う書き方で「同じ」をもう一度取り上げてみよう。「同じ」がキーワードであることを書いておこう。
「無題」という作品。
うなだれて坐っている男のとなりに、うなだれて、も
うひとりの男が坐っている。そのとなりにも、うなだれ
て坐っている男がいて、そのとなりに、また、うなだれ
て坐っている男がいる。
気が付くと、そのとなりにも、そのとなりにも、同じ
ように、うなだれて坐っている男がいる。そこには、数
限りなく、うなだれて坐っている男がいるのだ。
「同じ(ように)」ということばが出てくる。「同じ」はなくても「意味」は通じる。けれど、粕谷は書かずにはいられなかった。ただし、一回だけ。「同じ」は粕谷の意識のなかでは、そこいらじゅうにあふれている。「同じように」は、どこへ挿入しても「意味」はかわらない。
うなだれて坐っている男のとなりに、「同じように」うなだれて、もうひとりの男が坐っている。そのとなりにも、「同じように」うなだれて坐っている男がいて、そのとなりに、また、「同じように」うなだれて坐っている男がいる。
「うなだれて坐っている男」ではなく、「同じ(ように)」をこそ、粕谷は書きたいのだ。伝えたいのだ。でも「同じように」では抽象的なので、それを「うなだれて坐っている男」と言い換えて繰り返すのである。「うなだれて坐っている男」は、石にきざまれた爺と婆、手を取り合って笑う爺と婆と同じように、「同じ」を言うための「方便」なのである。
で(と私は、ここで、いつものように飛躍する)。
なぜ「同じ」を違う題材で繰り返すのか。それが粕谷の思想だから、根本だから--と言うだけではあいまいすぎるので、補足する。
つまり、人間は、生きていると、いつか、うなだれて
坐っているしかないことが、骨身にしみてわかる。もち
ろん、何かのまちがいでおこった幻のできごとだ。
「同じ」を繰り返すことが「わかる」につながるからである。ただしわかるのは、「同じ」であることが「わかる」。「同じ」ではない部分は、「まちがい」であり、「幻」なのだ。幻(まちがい)の奥に「同じ」があって、それが世界を支えている。
「うなだれて坐ってる」というのは何かの間違い、幻。爺と婆になり手をつないでわらっているのも間違い。幻。爺、婆というのも間違い。幻。粕谷は爺ではなく婆であっても同じように、今度は爺を探して交わるだけである。男女の区別はない。そういう区別は「まちがい」「幻」。
「ほんとう」は繰り返される「同じ」だけ、「同じ」を繰り返すことだけが「ほんとう」なのだ。それを「わかる」。何か(もの)が「同じ」かではなく、「同じ」という「こと」があるだけなのだ--それが「わかる」。
これ粕谷は「骨身にしみて」と書いている。その「わかる」を「肉体」で覚える、ということだと私は読み替えている。
*
「同じ」に関するいい加減なメモ(思いつき)。
私は詩を読みながら、詩のなかにある「矛盾」を探す。そこに「思想(肉体)」の何かが隠されていると思うからである。今回書いたことで言うと、桜と人間が「同じ」というのは「矛盾」である。あるいは、論理が飛躍していると言うべきか。
その「矛盾」を追い詰めていくと、何かわけがわからなくなるし、書けば書くほど堂々巡りになるのだが、「同じ」ということばが粕谷にとって重要であることがわかる。粕谷は「同じ」ということばがなければ、きっと詩が書けない。
で、こういうことばを私はキーワードと呼んでいるのだが、これは一種のiPS細胞なのだ。「同じ」ということばは粕谷にとっては、そのほかのあらゆることばになりうる可能性をもったことばなのである。「同じ」から出発して、あるときは爺、婆になり、あるときはうなだれる男になる。詩集に登場するほかのすべての「もの」も「同じ」によって動いている。「同じ」ということばは、詩集の随所に挿入することができる。そして「同じ(ように)」ということばを挿入すれば、粕谷の詩は、きっと「わかる」。骨身にしみてくる。
私は詩のなかにあらわれた「矛盾」を止揚して「結論」へ向かうのではなく、その「矛盾」を解きほぐして、矛盾が生まれる前の状態、細胞が細胞になる前の、iPS細胞のようなものへまで解きほぐしていって、そのiPS細胞が、他のことばにかわる瞬間、その動きをみたいのである。
ことばもiPS細胞をもっている。ことばは「肉体」なのである。iPS細胞(思想/肉体)を感じ取ることができる詩が私は好きである。
続・粕谷栄市詩集 (現代詩文庫) | |
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