詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中秀人『夜の、ガンジス』

2013-11-27 12:27:29 | 詩集
田中秀人『夜の、ガンジス』(南日本新聞開発センター、2013年11月06日発行)

 田中秀人『夜の、ガンジス』は静かな詩集である。「現代詩」特有の「わざと」がない。「泣きむしの窓」は小学校の先生の思い出を書いている。

先生はいつでも泣いてばかりでしたね
「ワタナベさんだけ修学旅行に行けない」と
校庭のせんだんの木が切り倒された、と
いつもただ泣かれるばかりでした
数式や年号はすっかりわすれてしまったが
私たちは
そんな先生の泣き顔だけは覚えています
先生が伝えたかったことが
今になってわかるのような気がします
海の見える小学校の
遠い海鳴りが聞こえてきます

 「覚えています」が美しい。
 「覚える」にはいろいろな「意味」がある。「覚える」のいちばんの強みは「つかえる」ということである。
 英語を「頭」で覚える。覚えた英語がつかえるようになる。
 自転車に乗る、泳ぎを覚える。その肉体で「覚えた」ことは一生つかえる。再び自転車に乗るとき、何年かぶりで泳ぐとき、最初はぎごちないが、それでも間違わずに自転車に乗り、泳ぐことができる。「肉体」は「覚えた」ことを忘れない。
 では、田中の書いている「覚えている」はどうだろうか。
 先生が泣いてばかりいた--というのは「頭」で覚えているのだろうか。「肉体」で覚えているのだろうか。どうも、違う。「こころ」でおぼえているのかもしれないが、うーん、あやふやだ。
 そして、この「覚えている」は、つかえるのかなあ。何かの役に立つのかなあ。これもよくわからない。同窓会で級友と会ったとき、先生は泣いてばかりいたねという具合に一緒に思い出すときに、つかえる? それって、つかえるって言う?
 何か変だね。
 でも、それにつづけて、

先生が伝えたかったことが
今になってわかるのような気がします

 これを読むと、そこに「わかる」と書いてあるのだけれど、「あ、覚えている」ということと「わかる」は何か関係しているのだなあと感じる。
 何が「わかる」のか--それを全部ことばで説明することはむずかしい。めんどうくさい。というより、たぶん、ことばを経由しないで、直接わかる。
 それは、たぶん「先生が伝えたかったこと」ではない。先生は、別に伝えたいとは思っていなかっただろう。ただ、ワタナベさんだけが修学旅行に行けないということが悲しかった。せんだんの木が切られたことが悲しかった。その「悲しみ」が「わかる」のである。--それは言い換えると「先生の悲しみ」を「覚えている」、「先生の悲しみを思い出す」ということかもしれない。
 それがもし何かに役だつ(つかえる)としたら。
 それは他人の悲しみを「わかる」というときにつかえるのかもしれない。
 いや、他人の、ではなく、自分の悲しみを「わかる」ときにこそつかえるのかもしれない。
 自分の、なんと名づけていいかわからない何か。涙がふいにこれぼてくる、その瞬間。「ああ、これが悲しみなんだ」と「わかる」。
 悲しみというのはほんらいひとりひとりのものであるけれど、人は、それを「わかる」ときがある。ワタナベさんが修学旅行に行けないと、先生が泣いていた--その悲しみが、いまになって「わかる」。「覚えていた」から「わかる」。そういうときがある。そういうときを積み重ねて人間が生きているということが「わかる」。
 この「わかる」は、しかし、とても時間のかかるものなのだ。
 「ゆずり葉」という作品。若い葉が生まれてくると、古い葉が散っていく。それが「ゆずり葉」と説明したあと、先生はつづける。

皆さんが生まれてきたとき
お父さんとお母さんは
この子が健やかに育ってほしい、と
強く心に思われたことでしょう
あなたがたの小さな手にそえた手に
力をこめられたことでしょう
その遠い声が聞こえませんか
いいですか、皆さん、ゆっくりと
その日のことを思い出していってくださいね
わかりましたか

ハイ、と大きな声で
タケイシくんが返事をして
みんな目を閉じたまま
クスクス笑いだしてしまった

 こどもには「わからない」。「覚えている」ことがあまりにも少なくて「思い出す」ことがないのだ。
 ここから「覚えている」「思い出す」「わかる」になるまでに、ひとは、自分を生きなければならない。--というようなことを特に強調して田中が書いているわけではないが、そういうことを感じる。
 先生の思い出を書いた作品ではないが、「大きな木」のなかの(母の木)という作品も美しい。

大きな木の下で
誰かに呼ばれている
ひそかな風の声で
山鳩には山鳩に見合った枝
山雀(やまがら)には山雀に見合った枝
ただ黙ってさしのべた枝で
山鳩は山鳩なりの重さ
山雀は山雀なりの重さ
黙って枝に来て
黙ってまた飛び立っていく
枝が少し揺れて
空がまた少し高くなった

 この詩の最後に「わかる」を補うと、田中に直接触れることができる。「空がまた少し高くなったのがわかる」という具合に「わかる」を補うと、田中が何を覚えているのか、何を思い出しているのか、それが容易に想像できる。いや、想像なんかしないで、田中に直接触れることができる。


詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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西脇順三郎の一行(10)

2013-11-27 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(10)

 「失楽園/世界開闢説」

ゴールデンバットをすいつゝ

 西脇の詩にはことばがグロテスクなくらいあふれている。そして多くの場合、そのことばは「もの」そのものの手触りとして、そこに「ある」。その「ある」が強すぎて、そのためにグロテスクな感じがする。
 詩の2行目「一個のタリポットの樹が音響を発することなく成長してゐる」には「ある」ということばはつかわれていないが、「タリポットの樹」が「ある」、そこに「音響」が「ない」という形で「ある」。そして「成長」が「ある」。この「ある」の特徴は、それ自体に人間が関与しないことである。人間の存在を無視して、それは「ある」。
 これに対して「ゴールデンバットをすいつゝ」は違う。そこには「吸う」という動詞がしっかり関係している。そのために「もの」の「ある」ということのグロテスクさが緩和されている。そして、その結果と言っていいのかどうかよくわからないが(その結果、と私は言いたいのだが……)、「ゴールデンバット」が「もの(たばこ)」であることから自由になって、「音楽」になっている。
 言い換えると。
 この一行は「意味」としては「たばこをすいつつ」ということであって、その「意味」を伝えるだけなら「たばこ」「ハイライト」「セブンスター」「マルボーロ」でもいいはずなのだが、詩は意味ではないので、ここでは「ゴールデンバット」でなくてはならないのだ。
 「ゴールデンバット」という派手な音だけが、他のグロテスクな「もの」の「ある」に対抗しうるのだ。「ある」という動詞に頼らずに、別な形でしっかりと存在する。それは--うまくいえないが「ある」ではなく「なる」なのだ。
 「ゴールデンバット」という「もの(たばこ)」が、「ゴールデンバット」という「音楽」に「なる」。そういうことが、ここでは起きている。
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