詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

千人のオフィーリア(41-60)

2013-11-01 10:47:32 | 連詩「千人のオフィーリア」

                                 41 橋本 正秀
オフィーリアー
オフィーリアーー

風のゆらぎにゆすぶられ
波動そのもの
宙のただなかに

                                  42 山下晴代
千個の星が流れるエルシノア
「生きるべきか、死すべきか」
「あなたにはマンネンロウ、あなたにはヘンルーダ。私を忘れないように」
城の回廊で、見失ったのは、父の霊? それとも……。

                                   43 市堀玉宗
がうがうと空が流るゝ花藻かな

                                   44 谷内修三
どの川も空を映して流れていくというのはほんとうか。
川は違っても星と月は同じ姿で映るというのはほんとうか。
北から南へ、南から西へ、あるいは東へ、
あらゆる方角に空は動くのに川は海へしか動かないというのはさびしい。
さびしいという名の水よ、逆流せよ、
笑いざわめく都市の地下水道を逆流せよ、
マンホールの蓋を崩壊したツインタワーの空に掲げよ、
合流せよ、合流せよ、合流せよ、
タイタニックを切断した氷山のなかに眠る水よ、
福島第一のプールで汚染する水の苦悩よ、

                                   45 金子忠政
苦悩の水は言葉、
言葉に引きづられて
しんたいじゅうを巡り巡ったから
酒場を出ると
道ばたに傷だらけの
青リンゴ、
オフィーリア!

                                    46 田島安江
青リンゴはつかの間のかなしみ
傷ついたひとは
言葉を信じない
音楽も聞こえない
川の流れに沿って
どこまでも流されていく
冬へとむかう
さすらいのオフィーリア

                                     47 山下晴代
「よいこらさ、ラムがひと瓶と」
アウシュヴィッツには千個の髑髏。

                                     48 橋本 正秀
噴出、噴出
流れ流される骸骨の群れ
その流され軋み発せられる音声
に耳を傾けるものはいない

                                     49 市堀玉宗
林檎熟れ処女懐胎の恨みあり

                                     50 谷内修三
「ちいさないのちが胎内でかたちをなすにつれて
思いもしなかった大自然の風景が
わたしの中に生じてわたしを驚かせた」
と書いたのは新川和江だ。
「青麦の畑が広がり 雲雀が舞いあがった
海へ行こう 海へ行こう
川は歌いながら いそいそ野原を流れていった」
光源氏は、手のひらをけってくる小さな足を
宇宙を歩いたときのように思い出したが
女には内緒で、つづきのことばを読む。
「ほとりでのどかに草を食む ホルスタインの群れ
太陽 月 星 天体の秩序ある運行
地球を丸ごと孕んだような充実感が
日々 わたしのおなかをせりあげていった」
     (括弧内は新川和江「今、わたしの揺り椅子を…」)

                                      51 橋本 正秀
摂理?そうだ摂理なのだ
謀略?そうなの謀略なの
節操?そう節操なんか
暴力?そう暴力なら
自然?そう自然なんだし
暴走?そう暴走なりと

オフィーリアの思念とオフィーリアの生とオフィーリアの新たな小宇宙は
そう今日も今この今も
大宇宙を喰らっている

                                    52    坂多瑩子
母を身籠ったと気がついたとき
母はあたしの腹のなかで笑いころげていた
やっと気がついたのかい
オフィーリア
おまえが息子や娘を生んでいるとき私はお前を食べていたのさ
子どもたちはゲンキかい

                                       53 市堀玉宗
捨てられて花野に目覚めたるごとし


                                        54  山下晴代
花野に目覚めたオフィーリアは『世界』編集部へ直行して言った。
「『福島第一』という言葉はやめてください」
 二〇一三年一〇月号を刷り終わったばかりの編集者は答えた。
「なんです? それ? そういう言葉はもう使ってません」
「え? そうなんですの?」
「そうです」
「では、なんて?」
苦笑いしながら編集者は『世界一〇月号』の一冊を差し出した。そこには
「イチエフ」と大きく書かれていた──。

千個の「イチエフ」が降ってきて花野を埋めた。

                                        55 谷内修三
花野から枯野へ
かけてゆくのは沙翁か
去来が恋しい芭蕉か
夢は病んで
誰が枕辺に

                                         56 市堀玉宗
添ひ寝して木枯しとなるおんなかな

                                         57 田島安江
木枯らしを追って
南から北へ
氷まで溶かすほどの愛があるのか
地の果てまでも追ってきて
わたしのオフィーリア

                                        58 金子忠政
血潮、
という名の
紅葉
木枯らし
吹きすさび
冬木立つ、
その真上
宵の明星と
惹き合う
三日月に
頬切られて

                                        59 市堀玉宗
花束のごとく白鳥来たりけり

                                         60 谷内修三
そのとき
裏側の港では千羽の鴎が汚い声でさわいでいる
そのとき
裏側の沖から帰って来る漁船には男たちの汗の匂いが大漁だ
そのとき
裏側の市場で飛び交う女房たちの声はみだらに
そのとき
裏側の寝床であばれる魚の噂をする
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時里二郎『石目』

2013-11-01 10:19:18 | 詩集
時里二郎『石目』(書肆山田、2013年10月30日発行)

 「わたし」ということばは誰もがつかう。しかし、私は、今回の時里二郎『石目』の「わたし」になぜかこころがふるえた。「わたし」の現われ方がいままでとは違う感じがする。虚構か現実かわからない、その「わからなさ」こそが現実なのだというような、入り組んだことばの構造が時里の詩の特徴だと思うが、その「わからなさ」を抽象ではなく、「具体」としてつかんでいる「わたし」の「肉体」が見えた気がした。
 巻頭の「ハーテビーストの縫合線」に肉体が出てくるからだろうか。「頭蓋骨」が出てくるからだろうか。ハーテビーストの縫合線というのは頭蓋骨のつなぎ目の線らしいが、私はそれを知らないので(いまはじめて知ったので)、それが「ほんとう」か「うそ(虚構)」かわからないので、そのこと(もの?)自体にから時里の「肉体」を感じたわけではない。

                             細長い
頭部の標本を正面から見つめていると、いつの間にかその縫合線を、注
意深くたどっている。
 内省的になるのは、それが他ならぬ脳をつつむ容器だからか。川の源
流を遡行していくように、わたしをどこへ導こうとしているのだろうか。

 「注意深くたどっている」が「導こうとしている」ということばにかわる。そのとき主語は「わたし」から「縫合線」にかわっている。

「わたしは」注意深くたどっている
「縫合線」はわたしをどこへ導こうとしているのだろうか。

 そして、その「主語」の断絶(切断/転換)のあいだ(接続)に、

川の源流を遡行していくように、

 という一文があるのだが、この「主語」は?
 「わたしは」川の源流を遡行していく、というのであれば、「わたし」を導くのは、川を遡行する「わたし」ということになるが、導くの「主語」は「縫合線」のはずである。だから、この部分は、

「わたしは」注意深くたどっている
「縫合線」は川の源流を遡行していくように、
「縫合線」はわたしをどこへ導こうとしているのだろうか。

 という具合になるのだが、うーん、何か変。論理きてではない。詩なのだから論理的でなくてもいいのだけれど、時里の「論理的ではない」は実は巧妙な論理(省略の多い論理)であって、それは私の「論理」に従えば(私がかってに論理を補ってことばを追いかけるならば)、

「わたしは」注意深くたどっている
(そのとき、縫合線の方では/一方、縫合線の方では)
「縫合線」は川の源流を遡行していくように、
「縫合線」はわたしをどこへ導こうとしている
のだろうか。(と「わたしは」一方で疑っている)

 という具合になる。「そのとき(ある一瞬)」、「わたし」が存在すると同時に、「一方」がある。「わたし」とは別なものが存在し、それが「もうひとりのわたし」のように動いている。そしてそのとき「わたし」と「もうひとりのわたし(もう一方のわたし)」は区別されない。切断されない。それは接続というよりも、交互に入れ替わる。
 この入れ替わりが、動詞として、つまり肉体の動きそのものとして、今回の詩集にはとても明瞭な形で描かれている。時里のことばが「肉体」として見えるようになっている。--これは、ようやく私が時里のことばの運動になれてきた(その動きが見えるようになってきた)ということなのかもしれないけれど。時里自身はかわっていないのかもしれないけれど、そういうことを強く感じた。
 時里の「肉体」に触りながら、時里のことばに触れている、という感じがするのである。ほんとうは時里のことばに触れながら、時里の「肉体」に触れている、と書くべきなのかもしれないが、何か、逆に感じる--それくらい書かれていることが「動詞」をとおして生々しく伝わってくる。

 で、この詩--途中で「頭蓋骨」から離れる一瞬がある。そこに、なんといえばいいのか、時里の、この詩を書かなければならない「理由」のようなものが噴出してきていて、いやあ、どぎまぎする。それまで服を着て動いている時里を見ていたのに、突然、裸を見せられる感じがする。で、それに誘われてしまう。
 えっ、私はここで時里とセックスをしてしまうのか、
 と瞬間的に、どきっとしてしまうのである。
 「頭蓋骨」につながる「博物学」--それに興味をもった理由を語る部分。「わたし」は卵の標本が好きだった。その卵を「わたし」は死んだ卵だと思っていた。ところが、

学芸員が、鳥の卵を指さして、これは本当の鳥の卵で、中は空っぽなん
だよと教えてくれた。(略)
 私は軽いめまいを覚えた。死んだ卵、孵らない卵だとはもちろんわか
っていたが、卵の中は死ではなかった。死は取り除かれていた。生も死
もない。何もない、空っぽなのだ。

 「わたし(私--と、このときだけ漢字で書かれているのだが)」の意識が書かれているのだが、

卵の中は死ではなかった。死は取り除かれていた

 あ、これと、すごいなあ。すごい「裸」だなあ、と私はみとれてしまう。「死」を時里(と、思わず書いてしまう)は、卵の中身(もの)として感じていたのか。触ることができる、あるいは見ることができるものと感じていたのか。たとえば、腐ってどろどろの、蛆虫がわいた粘液のようなものと感じていたのだろうか。具体的に何を感じていたかわからないが、「もの」と感じていたのか。そして、その「もの」が「取り除かれた」のが標本の卵がと気づいたのか。死は取り除かれる「もの」として時里の無意識に存在していたのか……。
 世の中には(世界には)、「もの」と「こと」があるが、時里は死を「もの」と感じていたのか。
 世界に存在する何かは「もの」である、と感じるからこそ(?)、

                わたしはその空っぽの容器に、いつ
とは知れず自分の世界を重ねるようになった。自分をその中に納めると
自分が空っぽになれると思った。なぜだかわからない。自分が嫌だとか、
つらいことがあって、自分というものから逃げたかったとか、そんなこ
とではない。わけもなくその卵という空の美しい容器にわたしというも
のを移したいと思った。

 わたしという「もの」を移したい、という具合にことばが動いて行ってしまう。「死」が「もの」であるように、「わたし」も「もの」。「死」と「わたし」が「もの」ならば、それは交換が可能である--というのは、ちょっと乱暴な物々交換だが、もしそういうことが可能なら、「わたし」は「もの=死」になって卵から取り除かれ、空っぽの卵の殻という美しいフォルムになれる。
 そして、それが可能なら。
 卵のなかは空っぽなのだから、次々に「わたし」は「わたし以外のもの」を「死」として卵のなかに閉じ込め、美しい殻の形だけを提出できる、ということかもしれない。そういうことを時里のことばの肉体(思想)はしてみたいと欲望しているのかもしれない。
 かもしれない、と書いたけれど。
 いや、これはかもしれないではなくて、生々しい欲望なのだ。時里の「本能」なのだ。「無意識」なのだ。それが夢精のように、激しい射精のように、ここに噴出してきている。
 なんだかどぎまぎして、うまく言えないが、「正直な肉体」がここにある、と私は感じた。

 この部分の最後の2行は、とても興味深い。

 けれども、そのこととわたしが骨格標本擬しになったととは、あま
り関係がない。

 「あまり」関係がない--と「あまり」という余分なことばでなにやら濁しているのだが、もし関係がないなら、そんなことは書く必要がないだろう。「縫合線」のことだけを書けばいいだろう。
 でも、そんな具合にはいかない。
 書かずにはいられない。それは無意識の本能である。無意識の欲望、嘘をつくことができない本当の欲望(本能)である。
 ひとはみんな、こういう「無意識の欲望(本能)」を隠すように生きている。この詩の最後は、そういうことをなぞっている。「関係がない」ということで、自分を隠すのだが、その最後の連(部分)は、「川の源流」と重なる具合に閉じられているので、まあ、そういうことであると指摘するだけにしよう。

 あ、あまりの剥き出しの本能にびっくりして、私は「論理」を見失っているかもしれない。書きはじめたとき、こういうことを書きたいなあと思っていたことと、ずれたところにきてしまったかもしれない。
 でも、私は、こういうとき、それを「修正」しない。整え直さない。
 時里の「卵の標本」の部分がそうであるように、途中で脱線(?)するとしたら、それは偶然に見えても本当は必然(本能)なのだから。脱線した部分の何かにこそ、書かなければならないことがあるはずなのだから。
 とはいいながら、補足すると。
 私は「存在」は「もの」ではなく「こと」だと思っている。「こと」というのは動詞が必ずともなう。動いてはじもと「こと」が起きる。
 その「こと」(最初に触れた「たどる」「遡行する」「導く」など)は、時里の場合、どこかで「死」という「もの」と交錯する。「死」を「こと」ではなく「もの」と感じて、「肉体」が動く。そうすると、その動きのなかに「死」が反映する。「死」は「もの」ではなく「こと」なので、単純な反応ではなく、複雑な、どうなるかわからないことが起きはじめる。
 そのどうなるかわからない激動をことばの肉体でていねいに追う--そういう形で時里の詩は展開する。
 論理を飛躍させて(はしょって)書いてしまうと、そんなことを私は感じた。



石目
時里二郎
書肆山田
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