時里二郎『石目』(書肆山田、2013年10月30日発行)
「わたし」ということばは誰もがつかう。しかし、私は、今回の時里二郎『石目』の「わたし」になぜかこころがふるえた。「わたし」の現われ方がいままでとは違う感じがする。虚構か現実かわからない、その「わからなさ」こそが現実なのだというような、入り組んだことばの構造が時里の詩の特徴だと思うが、その「わからなさ」を抽象ではなく、「具体」としてつかんでいる「わたし」の「肉体」が見えた気がした。
巻頭の「ハーテビーストの縫合線」に肉体が出てくるからだろうか。「頭蓋骨」が出てくるからだろうか。ハーテビーストの縫合線というのは頭蓋骨のつなぎ目の線らしいが、私はそれを知らないので(いまはじめて知ったので)、それが「ほんとう」か「うそ(虚構)」かわからないので、そのこと(もの?)自体にから時里の「肉体」を感じたわけではない。
細長い
頭部の標本を正面から見つめていると、いつの間にかその縫合線を、注
意深くたどっている。
内省的になるのは、それが他ならぬ脳をつつむ容器だからか。川の源
流を遡行していくように、わたしをどこへ導こうとしているのだろうか。
「注意深くたどっている」が「導こうとしている」ということばにかわる。そのとき主語は「わたし」から「縫合線」にかわっている。
「わたしは」注意深くたどっている
「縫合線」はわたしをどこへ導こうとしているのだろうか。
そして、その「主語」の断絶(切断/転換)のあいだ(接続)に、
川の源流を遡行していくように、
という一文があるのだが、この「主語」は?
「わたしは」川の源流を遡行していく、というのであれば、「わたし」を導くのは、川を遡行する「わたし」ということになるが、導くの「主語」は「縫合線」のはずである。だから、この部分は、
「わたしは」注意深くたどっている
「縫合線」は川の源流を遡行していくように、
「縫合線」はわたしをどこへ導こうとしているのだろうか。
という具合になるのだが、うーん、何か変。論理きてではない。詩なのだから論理的でなくてもいいのだけれど、時里の「論理的ではない」は実は巧妙な論理(省略の多い論理)であって、それは私の「論理」に従えば(私がかってに論理を補ってことばを追いかけるならば)、
「わたしは」注意深くたどっている
(そのとき、縫合線の方では/一方、縫合線の方では)
「縫合線」は川の源流を遡行していくように、
「縫合線」はわたしをどこへ導こうとしている
のだろうか。(と「わたしは」一方で疑っている)
という具合になる。「そのとき(ある一瞬)」、「わたし」が存在すると同時に、「一方」がある。「わたし」とは別なものが存在し、それが「もうひとりのわたし」のように動いている。そしてそのとき「わたし」と「もうひとりのわたし(もう一方のわたし)」は区別されない。切断されない。それは接続というよりも、交互に入れ替わる。
この入れ替わりが、動詞として、つまり肉体の動きそのものとして、今回の詩集にはとても明瞭な形で描かれている。時里のことばが「肉体」として見えるようになっている。--これは、ようやく私が時里のことばの運動になれてきた(その動きが見えるようになってきた)ということなのかもしれないけれど。時里自身はかわっていないのかもしれないけれど、そういうことを強く感じた。
時里の「肉体」に触りながら、時里のことばに触れている、という感じがするのである。ほんとうは時里のことばに触れながら、時里の「肉体」に触れている、と書くべきなのかもしれないが、何か、逆に感じる--それくらい書かれていることが「動詞」をとおして生々しく伝わってくる。
で、この詩--途中で「頭蓋骨」から離れる一瞬がある。そこに、なんといえばいいのか、時里の、この詩を書かなければならない「理由」のようなものが噴出してきていて、いやあ、どぎまぎする。それまで服を着て動いている時里を見ていたのに、突然、裸を見せられる感じがする。で、それに誘われてしまう。
えっ、私はここで時里とセックスをしてしまうのか、
と瞬間的に、どきっとしてしまうのである。
「頭蓋骨」につながる「博物学」--それに興味をもった理由を語る部分。「わたし」は卵の標本が好きだった。その卵を「わたし」は死んだ卵だと思っていた。ところが、
学芸員が、鳥の卵を指さして、これは本当の鳥の卵で、中は空っぽなん
だよと教えてくれた。(略)
私は軽いめまいを覚えた。死んだ卵、孵らない卵だとはもちろんわか
っていたが、卵の中は死ではなかった。死は取り除かれていた。生も死
もない。何もない、空っぽなのだ。
「わたし(私--と、このときだけ漢字で書かれているのだが)」の意識が書かれているのだが、
卵の中は死ではなかった。死は取り除かれていた
あ、これと、すごいなあ。すごい「裸」だなあ、と私はみとれてしまう。「死」を時里(と、思わず書いてしまう)は、卵の中身(もの)として感じていたのか。触ることができる、あるいは見ることができるものと感じていたのか。たとえば、腐ってどろどろの、蛆虫がわいた粘液のようなものと感じていたのだろうか。具体的に何を感じていたかわからないが、「もの」と感じていたのか。そして、その「もの」が「取り除かれた」のが標本の卵がと気づいたのか。死は取り除かれる「もの」として時里の無意識に存在していたのか……。
世の中には(世界には)、「もの」と「こと」があるが、時里は死を「もの」と感じていたのか。
世界に存在する何かは「もの」である、と感じるからこそ(?)、
わたしはその空っぽの容器に、いつ
とは知れず自分の世界を重ねるようになった。自分をその中に納めると
自分が空っぽになれると思った。なぜだかわからない。自分が嫌だとか、
つらいことがあって、自分というものから逃げたかったとか、そんなこ
とではない。わけもなくその卵という空の美しい容器にわたしというも
のを移したいと思った。
わたしという「もの」を移したい、という具合にことばが動いて行ってしまう。「死」が「もの」であるように、「わたし」も「もの」。「死」と「わたし」が「もの」ならば、それは交換が可能である--というのは、ちょっと乱暴な物々交換だが、もしそういうことが可能なら、「わたし」は「もの=死」になって卵から取り除かれ、空っぽの卵の殻という美しいフォルムになれる。
そして、それが可能なら。
卵のなかは空っぽなのだから、次々に「わたし」は「わたし以外のもの」を「死」として卵のなかに閉じ込め、美しい殻の形だけを提出できる、ということかもしれない。そういうことを時里のことばの肉体(思想)はしてみたいと欲望しているのかもしれない。
かもしれない、と書いたけれど。
いや、これはかもしれないではなくて、生々しい欲望なのだ。時里の「本能」なのだ。「無意識」なのだ。それが夢精のように、激しい射精のように、ここに噴出してきている。
なんだかどぎまぎして、うまく言えないが、「正直な肉体」がここにある、と私は感じた。
この部分の最後の2行は、とても興味深い。
けれども、そのこととわたしが骨格標本擬しになったととは、あま
り関係がない。
「あまり」関係がない--と「あまり」という余分なことばでなにやら濁しているのだが、もし関係がないなら、そんなことは書く必要がないだろう。「縫合線」のことだけを書けばいいだろう。
でも、そんな具合にはいかない。
書かずにはいられない。それは無意識の本能である。無意識の欲望、嘘をつくことができない本当の欲望(本能)である。
ひとはみんな、こういう「無意識の欲望(本能)」を隠すように生きている。この詩の最後は、そういうことをなぞっている。「関係がない」ということで、自分を隠すのだが、その最後の連(部分)は、「川の源流」と重なる具合に閉じられているので、まあ、そういうことであると指摘するだけにしよう。
あ、あまりの剥き出しの本能にびっくりして、私は「論理」を見失っているかもしれない。書きはじめたとき、こういうことを書きたいなあと思っていたことと、ずれたところにきてしまったかもしれない。
でも、私は、こういうとき、それを「修正」しない。整え直さない。
時里の「卵の標本」の部分がそうであるように、途中で脱線(?)するとしたら、それは偶然に見えても本当は必然(本能)なのだから。脱線した部分の何かにこそ、書かなければならないことがあるはずなのだから。
とはいいながら、補足すると。
私は「存在」は「もの」ではなく「こと」だと思っている。「こと」というのは動詞が必ずともなう。動いてはじもと「こと」が起きる。
その「こと」(最初に触れた「たどる」「遡行する」「導く」など)は、時里の場合、どこかで「死」という「もの」と交錯する。「死」を「こと」ではなく「もの」と感じて、「肉体」が動く。そうすると、その動きのなかに「死」が反映する。「死」は「もの」ではなく「こと」なので、単純な反応ではなく、複雑な、どうなるかわからないことが起きはじめる。
そのどうなるかわからない激動をことばの肉体でていねいに追う--そういう形で時里の詩は展開する。
論理を飛躍させて(はしょって)書いてしまうと、そんなことを私は感じた。
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