監督 リドリー・スコット 出演 マイケル・ファスベンダー、ペネロペ・クルス、キャメロン・ディアス、ハビエル・バルデム、ブラッド・ピット、ブルーノ・ガンツ
ひどく豪華なキャスティングである。主役の4人以外にもブルーノ・ガンツなんかも出てくる。こんなに登場人物が目立ってしまうと映画にならないぞ、と思ってしまう。そして実際にマイケル・ファスベンダーとペネロペ・クルスのセックスシーンではじまり、それにつづいてペネロペに浮気された格好のハビエル・バルデム(あ、虚構と現実をごっちゃにしている?)とキャメロン・ディアスが山猫(?)をつかってウサギ狩りをしているシーンへと飛躍すると--なんだ、これは、と思ってしまう。それぞれに、それなりに濃密な映像であるだけに、こんなことをしていては映像が瞬間瞬間に目の前にあるだけで、ほかは何もない映画になってしまうぞと心配になってしまう。
そして、実際に、そのとおりになる。どのシーンもしっかりと映像になっている。余分な説明はなく、映像の情報量だけで迫ってくる。これは製作者の意図でもあるらしく、映画の上映の前に「スペイン語のシーンがあるけれど、製作者の意図により、字幕なしの部分がある」と予告される。映像を見て、それでストーリーを判断すればいい。映像だけで映画は成り立つのだ--では、しかし、ないんだね。これは一種のいいわけというか、レトリックというか、嘘っぱち。
私は、途中で、「えっ」と叫んで座席から飛び上がりそうになった。そして、その瞬間に、この映画が「実感」できた。
麻薬組織に狙われて、ハビエル・バルデムが逃げる。そのとき追手のリーダーが「殺すな」というのだけれど、手下が殺してしまう。それも頭を銃弾が貫く。手足を撃って、逃げられないようにして、さらに拷問をくわえてハビエル・バルデムから「情報」を引き出す--というのが追手の目的なのだから、ここで殺してしまったら何にもならないだろう。何やってるの、この映画……。
ではなくて、これがこの映画の真骨頂。
「ストーリー」というのは世界の見え方を整理したものだが、その世界の見え方というのは、一人一人が完全に違う。特に、悪の道に踏み込んでしまった人間には、いままでの世界というのは存在しない。悪事をすれば、つかまって、とっちめられて、謝罪し(うまくいけば生き延びて……)というのはありえない。(そういうことが、映画のなかで何度か台詞として語られる。--マイケル・ファスベンダーが助けを求めていった人間に、そういうことを、詩をまじえて聞かされる。)
私たち(まあ、主役の、はじめて悪に手をそめたマイケル・ファスベンダーのような人間)には想像がつかないけれど、そこはストーリーを超越した世界なのである。悪事をする人間にとって、世界は自分ひとり。自分のやりたいことに役だたない人間なんか、どうだっていい。どころの騒ぎではなくて、それは「別世界」なのだ。
「別世界」だからこそ、ブラッド・ピットだって、映画の最初に語られる首を締めつけるワイヤの道具で、ロンドンの街中で頸動脈を切断されて死んで行く。ペネロペ・クルスは壊れたマネキンのようにごみ捨て場に捨てられる。--非情に見えるかもしれないが、そこには情など最初からないのだ。
ほほう。
いやあ、そういう意味では、ブラッド・ピットがロンドンを逃げるシーンなど、なかなかいいんだなあ。緊張している。でも、あまりうろうろしない。目立つからね。動きを小さくしながら、それでも警戒する感じ、ぴりぴり感が伝わってくる映像がなかなかいい。マイケル・ファスベンダーの逃亡の、最初のホテルのシーンなんかも。ペネロペ・クルスが駐車場でつかまる短いシーンも。あ、これは危険、逃げなきゃ……という気づいて行動がはじまるタイミング、その変化が、これが映画という感じでいいなあ。
でもねえ。
まあ、苦情は、ひとつだけなんだけれど。
私の苦情というのは、先に少し書いたのだけれど、悪の道に踏み込んだ人間には世界が違ったものになる、ということがことばで語られること。いままでの世界はもう絶対に取り戻せない。踏み込んだ別世界で手に入れるものがどんなに称賛を浴びるものであったとしても、人がうらやむものであったとしても、そのことで悪が「救済」されるわけではない。--この比喩として語られるのが、妻を失った詩人がすばらしい詩を書いた、その詩が称賛されるけれど、詩人はそれによって救済されるわけではない云々とういうような台詞による説明。
これはこれで「説得力」があるのだけれど。ことばで語ってしまえば、それは「映画」ではなく「小説」の世界。肝心要の「哲学」がことば(小説スタイル)で語られたのでは、映画が台無し。
この部分は、映画にはならない。どうしたって小説でしかない。ことばを読んで、ことばで納得するしかない。そうすると、その瞬間、映像のもっているそれまでの情報がすべてことばで洗い流されてしまうことになる。
これは映画ファンとしてはつらい。いやだなあ。
せっかく、下水処理のタンクをつかってドラッグを運び、ついでに裏切り者(?)の死体を死んだ後も糞まみれにしつづけるというような、一般人にはわからない「ストーリー」を映像化しているのだから、悪と一般の境目、そこを踏み出すことではじまる「哲学」もきちんと映像にしないとね。
マイケル・ファスベンダーがメキシコかどこかの貧民街のアパートで暮らすしかないという結末、キャメロン・ディアスが大金を手にして上海に逃走するという結末の対比では、途中の長々しい「悪の法則」の「哲学」がうるさいだけ。
私は読んでいないが、「哲学」が好きなら「小説」を読んだ方がいい。映画が好きなら、台詞のシーンは居眠りをしていた方がいい。
ことばで語る「情報」を少なく感じさせるために豪華キャストをつかう、瞬間瞬間の映像の情報量を増やすなどという「眼くらまし作戦」は嫌いだなあ。バイク展示場でバイクの車体の高さを測るなんて、おいおい、そんな目立つことはせずに、どこか街角に止まっているバイクで調べろよ、あるいは、怪しまれないようにバイクを買って、持ち帰ってから測れよ、それくらいの金は「経費」だろう、とちゃちゃを入れなくなってしまうじゃないか。嘘っぽくて、いやでしょ? 観客をばかにした映像情報でしょ?
(2013年11月20日、天神東宝5)
ひどく豪華なキャスティングである。主役の4人以外にもブルーノ・ガンツなんかも出てくる。こんなに登場人物が目立ってしまうと映画にならないぞ、と思ってしまう。そして実際にマイケル・ファスベンダーとペネロペ・クルスのセックスシーンではじまり、それにつづいてペネロペに浮気された格好のハビエル・バルデム(あ、虚構と現実をごっちゃにしている?)とキャメロン・ディアスが山猫(?)をつかってウサギ狩りをしているシーンへと飛躍すると--なんだ、これは、と思ってしまう。それぞれに、それなりに濃密な映像であるだけに、こんなことをしていては映像が瞬間瞬間に目の前にあるだけで、ほかは何もない映画になってしまうぞと心配になってしまう。
そして、実際に、そのとおりになる。どのシーンもしっかりと映像になっている。余分な説明はなく、映像の情報量だけで迫ってくる。これは製作者の意図でもあるらしく、映画の上映の前に「スペイン語のシーンがあるけれど、製作者の意図により、字幕なしの部分がある」と予告される。映像を見て、それでストーリーを判断すればいい。映像だけで映画は成り立つのだ--では、しかし、ないんだね。これは一種のいいわけというか、レトリックというか、嘘っぱち。
私は、途中で、「えっ」と叫んで座席から飛び上がりそうになった。そして、その瞬間に、この映画が「実感」できた。
麻薬組織に狙われて、ハビエル・バルデムが逃げる。そのとき追手のリーダーが「殺すな」というのだけれど、手下が殺してしまう。それも頭を銃弾が貫く。手足を撃って、逃げられないようにして、さらに拷問をくわえてハビエル・バルデムから「情報」を引き出す--というのが追手の目的なのだから、ここで殺してしまったら何にもならないだろう。何やってるの、この映画……。
ではなくて、これがこの映画の真骨頂。
「ストーリー」というのは世界の見え方を整理したものだが、その世界の見え方というのは、一人一人が完全に違う。特に、悪の道に踏み込んでしまった人間には、いままでの世界というのは存在しない。悪事をすれば、つかまって、とっちめられて、謝罪し(うまくいけば生き延びて……)というのはありえない。(そういうことが、映画のなかで何度か台詞として語られる。--マイケル・ファスベンダーが助けを求めていった人間に、そういうことを、詩をまじえて聞かされる。)
私たち(まあ、主役の、はじめて悪に手をそめたマイケル・ファスベンダーのような人間)には想像がつかないけれど、そこはストーリーを超越した世界なのである。悪事をする人間にとって、世界は自分ひとり。自分のやりたいことに役だたない人間なんか、どうだっていい。どころの騒ぎではなくて、それは「別世界」なのだ。
「別世界」だからこそ、ブラッド・ピットだって、映画の最初に語られる首を締めつけるワイヤの道具で、ロンドンの街中で頸動脈を切断されて死んで行く。ペネロペ・クルスは壊れたマネキンのようにごみ捨て場に捨てられる。--非情に見えるかもしれないが、そこには情など最初からないのだ。
ほほう。
いやあ、そういう意味では、ブラッド・ピットがロンドンを逃げるシーンなど、なかなかいいんだなあ。緊張している。でも、あまりうろうろしない。目立つからね。動きを小さくしながら、それでも警戒する感じ、ぴりぴり感が伝わってくる映像がなかなかいい。マイケル・ファスベンダーの逃亡の、最初のホテルのシーンなんかも。ペネロペ・クルスが駐車場でつかまる短いシーンも。あ、これは危険、逃げなきゃ……という気づいて行動がはじまるタイミング、その変化が、これが映画という感じでいいなあ。
でもねえ。
まあ、苦情は、ひとつだけなんだけれど。
私の苦情というのは、先に少し書いたのだけれど、悪の道に踏み込んだ人間には世界が違ったものになる、ということがことばで語られること。いままでの世界はもう絶対に取り戻せない。踏み込んだ別世界で手に入れるものがどんなに称賛を浴びるものであったとしても、人がうらやむものであったとしても、そのことで悪が「救済」されるわけではない。--この比喩として語られるのが、妻を失った詩人がすばらしい詩を書いた、その詩が称賛されるけれど、詩人はそれによって救済されるわけではない云々とういうような台詞による説明。
これはこれで「説得力」があるのだけれど。ことばで語ってしまえば、それは「映画」ではなく「小説」の世界。肝心要の「哲学」がことば(小説スタイル)で語られたのでは、映画が台無し。
この部分は、映画にはならない。どうしたって小説でしかない。ことばを読んで、ことばで納得するしかない。そうすると、その瞬間、映像のもっているそれまでの情報がすべてことばで洗い流されてしまうことになる。
これは映画ファンとしてはつらい。いやだなあ。
せっかく、下水処理のタンクをつかってドラッグを運び、ついでに裏切り者(?)の死体を死んだ後も糞まみれにしつづけるというような、一般人にはわからない「ストーリー」を映像化しているのだから、悪と一般の境目、そこを踏み出すことではじまる「哲学」もきちんと映像にしないとね。
マイケル・ファスベンダーがメキシコかどこかの貧民街のアパートで暮らすしかないという結末、キャメロン・ディアスが大金を手にして上海に逃走するという結末の対比では、途中の長々しい「悪の法則」の「哲学」がうるさいだけ。
私は読んでいないが、「哲学」が好きなら「小説」を読んだ方がいい。映画が好きなら、台詞のシーンは居眠りをしていた方がいい。
ことばで語る「情報」を少なく感じさせるために豪華キャストをつかう、瞬間瞬間の映像の情報量を増やすなどという「眼くらまし作戦」は嫌いだなあ。バイク展示場でバイクの車体の高さを測るなんて、おいおい、そんな目立つことはせずに、どこか街角に止まっているバイクで調べろよ、あるいは、怪しまれないようにバイクを買って、持ち帰ってから測れよ、それくらいの金は「経費」だろう、とちゃちゃを入れなくなってしまうじゃないか。嘘っぽくて、いやでしょ? 観客をばかにした映像情報でしょ?
(2013年11月20日、天神東宝5)
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