詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リドリー・スコット監督「悪の法則」(★★★)

2013-11-20 22:48:24 | 詩集
監督 リドリー・スコット 出演 マイケル・ファスベンダー、ペネロペ・クルス、キャメロン・ディアス、ハビエル・バルデム、ブラッド・ピット、ブルーノ・ガンツ



 ひどく豪華なキャスティングである。主役の4人以外にもブルーノ・ガンツなんかも出てくる。こんなに登場人物が目立ってしまうと映画にならないぞ、と思ってしまう。そして実際にマイケル・ファスベンダーとペネロペ・クルスのセックスシーンではじまり、それにつづいてペネロペに浮気された格好のハビエル・バルデム(あ、虚構と現実をごっちゃにしている?)とキャメロン・ディアスが山猫(?)をつかってウサギ狩りをしているシーンへと飛躍すると--なんだ、これは、と思ってしまう。それぞれに、それなりに濃密な映像であるだけに、こんなことをしていては映像が瞬間瞬間に目の前にあるだけで、ほかは何もない映画になってしまうぞと心配になってしまう。
 そして、実際に、そのとおりになる。どのシーンもしっかりと映像になっている。余分な説明はなく、映像の情報量だけで迫ってくる。これは製作者の意図でもあるらしく、映画の上映の前に「スペイン語のシーンがあるけれど、製作者の意図により、字幕なしの部分がある」と予告される。映像を見て、それでストーリーを判断すればいい。映像だけで映画は成り立つのだ--では、しかし、ないんだね。これは一種のいいわけというか、レトリックというか、嘘っぱち。
 私は、途中で、「えっ」と叫んで座席から飛び上がりそうになった。そして、その瞬間に、この映画が「実感」できた。
 麻薬組織に狙われて、ハビエル・バルデムが逃げる。そのとき追手のリーダーが「殺すな」というのだけれど、手下が殺してしまう。それも頭を銃弾が貫く。手足を撃って、逃げられないようにして、さらに拷問をくわえてハビエル・バルデムから「情報」を引き出す--というのが追手の目的なのだから、ここで殺してしまったら何にもならないだろう。何やってるの、この映画……。
 ではなくて、これがこの映画の真骨頂。
 「ストーリー」というのは世界の見え方を整理したものだが、その世界の見え方というのは、一人一人が完全に違う。特に、悪の道に踏み込んでしまった人間には、いままでの世界というのは存在しない。悪事をすれば、つかまって、とっちめられて、謝罪し(うまくいけば生き延びて……)というのはありえない。(そういうことが、映画のなかで何度か台詞として語られる。--マイケル・ファスベンダーが助けを求めていった人間に、そういうことを、詩をまじえて聞かされる。)
 私たち(まあ、主役の、はじめて悪に手をそめたマイケル・ファスベンダーのような人間)には想像がつかないけれど、そこはストーリーを超越した世界なのである。悪事をする人間にとって、世界は自分ひとり。自分のやりたいことに役だたない人間なんか、どうだっていい。どころの騒ぎではなくて、それは「別世界」なのだ。
 「別世界」だからこそ、ブラッド・ピットだって、映画の最初に語られる首を締めつけるワイヤの道具で、ロンドンの街中で頸動脈を切断されて死んで行く。ペネロペ・クルスは壊れたマネキンのようにごみ捨て場に捨てられる。--非情に見えるかもしれないが、そこには情など最初からないのだ。
 ほほう。
 いやあ、そういう意味では、ブラッド・ピットがロンドンを逃げるシーンなど、なかなかいいんだなあ。緊張している。でも、あまりうろうろしない。目立つからね。動きを小さくしながら、それでも警戒する感じ、ぴりぴり感が伝わってくる映像がなかなかいい。マイケル・ファスベンダーの逃亡の、最初のホテルのシーンなんかも。ペネロペ・クルスが駐車場でつかまる短いシーンも。あ、これは危険、逃げなきゃ……という気づいて行動がはじまるタイミング、その変化が、これが映画という感じでいいなあ。

 でもねえ。

 まあ、苦情は、ひとつだけなんだけれど。
 私の苦情というのは、先に少し書いたのだけれど、悪の道に踏み込んだ人間には世界が違ったものになる、ということがことばで語られること。いままでの世界はもう絶対に取り戻せない。踏み込んだ別世界で手に入れるものがどんなに称賛を浴びるものであったとしても、人がうらやむものであったとしても、そのことで悪が「救済」されるわけではない。--この比喩として語られるのが、妻を失った詩人がすばらしい詩を書いた、その詩が称賛されるけれど、詩人はそれによって救済されるわけではない云々とういうような台詞による説明。
 これはこれで「説得力」があるのだけれど。ことばで語ってしまえば、それは「映画」ではなく「小説」の世界。肝心要の「哲学」がことば(小説スタイル)で語られたのでは、映画が台無し。
 この部分は、映画にはならない。どうしたって小説でしかない。ことばを読んで、ことばで納得するしかない。そうすると、その瞬間、映像のもっているそれまでの情報がすべてことばで洗い流されてしまうことになる。
 これは映画ファンとしてはつらい。いやだなあ。
 せっかく、下水処理のタンクをつかってドラッグを運び、ついでに裏切り者(?)の死体を死んだ後も糞まみれにしつづけるというような、一般人にはわからない「ストーリー」を映像化しているのだから、悪と一般の境目、そこを踏み出すことではじまる「哲学」もきちんと映像にしないとね。
 マイケル・ファスベンダーがメキシコかどこかの貧民街のアパートで暮らすしかないという結末、キャメロン・ディアスが大金を手にして上海に逃走するという結末の対比では、途中の長々しい「悪の法則」の「哲学」がうるさいだけ。
 私は読んでいないが、「哲学」が好きなら「小説」を読んだ方がいい。映画が好きなら、台詞のシーンは居眠りをしていた方がいい。
 ことばで語る「情報」を少なく感じさせるために豪華キャストをつかう、瞬間瞬間の映像の情報量を増やすなどという「眼くらまし作戦」は嫌いだなあ。バイク展示場でバイクの車体の高さを測るなんて、おいおい、そんな目立つことはせずに、どこか街角に止まっているバイクで調べろよ、あるいは、怪しまれないようにバイクを買って、持ち帰ってから測れよ、それくらいの金は「経費」だろう、とちゃちゃを入れなくなってしまうじゃないか。嘘っぽくて、いやでしょ? 観客をばかにした映像情報でしょ?
                       (2013年11月20日、天神東宝5)

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石川逸子「鳥の音」

2013-11-20 11:02:10 | 詩(雑誌・同人誌)
石川逸子「鳥の音」(「兆」160 、2013年11月01日発行)

 石川逸子「鳥の音」には「メシアン「世の終わりの四重奏曲・第三楽章」」というサブタイトルがついており、作品の斎賀には「2013・7・27「コントラスト」演奏を聴いて」という注がついている。演奏を聴いたときの感想を詩にしたものだ。

囚われの身で はばたいた 心
たった一つの楽器 クラリネットに託した 願い
出だしは かすかに 胸のうちからこぼれ出た吐息のよう
そら耳だったか と疑うほどに

やがて 吐息は 次第に大きく 力強く
憂いをおびつつ さまざまな鳥となって
てんでに鳴き はばたき
枝々から飛び立ち

零下二十度 指も凍りかけ
雪のなか 演奏を聴く 囚われびとたちは 軍服の所員も
ふと大気を飛びまわる
鳥になって いっとき 微笑み わらった

わたしは ツグミ
わたしは コジュケイ
わたしは ナイチンゲール
どこまでも 飛んで行くんだ

 一つの音からはじまり、それが聴く人を鳥にかえていくまでの動きがどきどきするくらい美しい。
 「かすかに 胸のうちからこぼれ出た吐息のよう」というのは、二重の形容のようにみえるが、そうではなく、言いなおさずにはいられないこころの動きをつたえている。「かすかに」では伝えられない。言いなおしたい。それが「胸のうちからこぼれ出た吐息のよう」と動いていく。
 この動き、言いなおさずにはいられない思いは、「疑うほどに」「飛び立ち」という形で、連から連へ渡っていく。
 「かすかに」と「胸のうちからこぼれ出た吐息のよう」のあいだに1字空き(空白)があったが、その空白を飛び越えてことばが動き、深まるように、連と連とのあいだにも空白(1行空き)があり、それを飛び越えて心は動く。飛び越えることによって、動きが強くなる。
 「疑うほどに」「飛び立ち」という連を完結させない形が、ここではとても大きな力になっている。
 きのう読んだ大橋愛由等「むじか」では連から連へ切れずにつながっていったが(連続を求めてことばは動いていったが)、石川のことばは、「切れずに」というよりは、「いま」を踏み台にして、振り切って、という感じがする。
 「いま」を振り切るのだけれど、きちんと切断する時間も惜しくて、ともかく飛躍するのだという急いでいる感じが、わくわくさせる。ときどきさせる。
 大橋愛由等「むじか」では「粘着力」として動いたことばの力が、石川の場合は逆に働く。切断し、離れていく。離れることで、強くなる。
 そして、その「離脱」の力のなかで、とんでもないことが起きる。

囚われびとたちは 軍服の所員も

 対立する側の人間の区別がなくなる。演奏は囚われているユダヤ人のためのものだが、その音のなかへ囚人たちが誘われて動くとき、それを聴いている看守たちも動く。同じように「いま/ここ」を離脱してしまう。
 動詞は、人間の区別をなくしてしまう。
 動詞のなかには、人間を区別するものはない。
 動詞を生きる「肉体」は一つなのである。
 動詞のなかで、人間はつながるのである。
 「切断」(分離)を超えて、「粘着力」とは違った形で--つまり分離したまま、個を保ったまま、人はつながってしまう。

わたしは ツグミ
わたしは コジュケイ
わたしは ナイチンゲール

 それぞれが別々の鳥になればなるほど、ひとは「鳥になる」という運動(動詞)のなかで、ひとつの「いのちになる」。
 3連目から4連目への飛躍のとき、連の終わりが「わらった」と完結しているのも、とても的確な、運動をそのまま、きちんと伝える。1連目、2連目は、「いま」を切断する間(時間)もおしく、いそいで動くのに、3連目では、「よし、ここだ」という感じの決断をして、すぱっと「いま/ここ」を切り離す。
 そして飛び立つ。
 「いま/ここ」とは無関係になる。ツグミ、コジュケイ、ナイチンゲール。みんなばらばら。ばらばらだけれど、飛びながら歌いながら、という「動き」のなかで「ひとつ」になる。
 それまでの「いま/ここ」は完全に叩きこわされ、空を飛ぶ自由、歌いたい歌を歌う自由が広がる。

かじかむ指 こわばる唇を だまし だまし
ユダヤ人奏者は 強く ひたすら強く
吹きつづける 吹きつづける
壊れよ! 捕虜収容所! あとかたもなく壊れよ!

 ことばは繰り返される。ことばを、肉体が反復しているのである。肉体をことばが描写し、その描写をことばではなく肉体そのものが反復する。新しい肉体を誕生させているのだ。
 その新しい肉体は、必然的に、「いま/ここ」を新しい世界にする。
 「肉体」が誕生するとき、「世界」も誕生する。

あ 高い塀はとっぱらわれ
かしこに見えるぞ
うすむらさきいろの空 に かかった
はでやかな 虹

 「かしこ」がいいなあ。新しい肉体は「かしこ」を呼び寄せるのだ。「いま/ここ」を「かしこ」にしてしまう。
 人間の運動、そのリズム、音楽が、人間を作り替え、世界を作り替えていく。その瞬間に立ち会っている幸福が、いきいきとつたわってくる。
 この幸福は、「まぼろし」かもしれない。現実は、それを許さないかもしれない。それでもいい。私たちは、その「まぼろし」を見る力をまだ持っている。

やがて 再び 音はしずまり
飢えた 囚われびとたちの肩に つもる雪
クラリネットから かすかに こぼれる 消えない 望み
やせこけた 囚われびと 作曲家の 肩にも つもる雪

定本 千鳥ケ淵へ行きましたか―石川逸子詩集
石川 逸子
影書房
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千人のオフィーリア(61-80 )

2013-11-20 07:44:38 | 連詩「千人のオフィーリア」
                                     61 橋本 正秀
そのとき
娑婆が蠢いて
汚い声が
汗の匂いが
淫らな声が
噂話が
オフィーリアの呟く涙とともに
転生をはじめる
その苦しみの声
その苦汁の匂い
その苦難の嬌声
その苦別の噂らが
娑婆に充満する

                                     62 金子忠政
群れ群れに
凍土のような手のひらを
そっと差し出す
オフィーリアの指先は
いかづちの雫、
脣の暗黒を断裂し
声をひかりにする

                                      63 市堀玉宗
冬の雷いくたび母を犯せしか

                                       64 山下晴代
白鳥を捕へてみればゼウス神

                                       65 小田千代子
レダの眼に翼に降れる霧ふかし

                                       66 谷内修三
駐車場におきざりにされたアルファロメオの
赤い塗料が水銀灯の光にぬれる。
真昼に飛翔したハイウェイの興奮を眠らせて。
でも
私がほしいのはメカニックな涙ではないのよ、
ましてや後部座席ですねている子犬の縫いぐるみでもないわ。

                                      67 金子忠政
アルファロメオも、その赤い塗料も
子犬の縫いぐるみも
線量に占拠され
途方もない時間が
忌避へと溶解していく
犬たちの 
牛たちの
馬たちの
野花たちの
身もだえに哀しく歯軋りする
オフィーリアが言う
「あなた方は決して大地をじかになぞらない」
雹に打たれたわけでもないのに 
水蜜桃が畑のすみで腐爛する
刺すような酸い香りを発しながら 
地におちた鳥のむくろのように
捨てられる哀しみが崩れ熟れる
「うずくまるかぐわしさに寄れ」

                                       68 市堀玉宗
狼の嗅ぎゆく処女の血の滴山河やぶれし月の寒さよ

                                        69 小田千代子
蒼き森ふいに魔物が眼をさまし眠れぬ女は胸抱くばかり

                                    70 山下晴代@ロンドン
魔物はロンドン塔に収め、
スイートテムズ、スイート、スイートテムズ、
オフィーリアはどこかへ消えてしまった

                                         71 谷内修三
ことばは流れてぶつかり音を立てる
オフィーリアよ それはテムズの流れよりも複雑にこだまする たとえば
「この愛が唯一の答えと誓ったときでさえ裏切りははじまっている」と言ったとしても
「この愛が唯一の答えと誓ったときでさえ裏切りははじまっている」と同情した
「この愛が唯一の答えと誓ったときでさえ裏切りははじまっている」と拒絶した
「この愛が唯一の答えと誓ったときでさえ裏切りははじまっている」と侮蔑した
「この愛が唯一の答えと誓ったときでさえ裏切りははじまっている」と笑った
「この愛が唯一の答えと誓ったときでさえ裏切りははじまっている」とウィンクした
「この愛が唯一の答えと誓ったときでさえ裏切りははじまっている」とほざいた
「この愛が唯一の答えと誓ったときでさえ裏切りははじまっている」と批評した
「この愛が唯一の答えと誓ったときでさえ裏切りははじまっている」と戯れた
「この愛が唯一の答えと誓ったときでさえ裏切りははじまっている」と信じた
「この愛が唯一の答えと誓ったときでさえ裏切りははじまっている」と抗議した
「この愛が唯一の答えと誓ったときでさえ裏切りははじまっている」と講義した
「この愛が唯一の答えと誓ったときでさえ裏切りははじまっている」と涙した
ねんねじゃあるまいし、オフィーリアよ
あんた、あの子のなんなのさ、じゃなかった、
オフィーリアよ、あんた、いったい何を教わってきたの

                                       72 市堀玉宗
なきがらに寄り添ふ愛のかたちして白鳥は死のしづけさにあり

                                         73 金子忠政

鉞をなきがらの胸に置き
震える舌を
刃先に匍わせ
息を吐きかける
そのひとそよぎが
言葉によって隠されると
凍りつくブナの皮膚のように
オフィーリア、
君は剥き出しになる
オフィーリア、
星を編み込む
清潔な私の庇護者
やがて 
君の身のまわりには
霰が降る

                                         74  市堀玉宗
愛は今剥き出しになり永遠の空はゆたかにかなしかりけり

                                        75. 小田千代子
永遠の愛をさがして深き森霧ふかくしてああ狂ひける

                                         76 山下晴代
「霧ふかし闇ふかしマッチ一本掌に擦るのみ。寺山です。オフィーリア役の役者を探しています。条件は、体重が100キロ以上の処女。誰かいたら、教えてください。『オフィーリアの犯罪』という芝居をお茶の水のアテネフランセで上演します」

                                        77 金子忠政
 「私はデブ子ではなく
 新人のデブコです。
 仮面剥がしゲームの果てに
 たどり着きました。
 どうぞお見知りおきを」

                                          78橋本正秀
仮面剥がし貸し剥がし
おのれ恥ずかしこの縁(よすが)
身の置き所はここよ
とばかりの罪と科
引っ提げぶうらり
舞台の
袖の
リングの
まぶしさの
あやかし仮面の
テフコはここよ


                                        79 市堀玉宗
枯野ゆくいのちがそこにあるやうに主役不在の愛憎劇の

                                         80.小田千代子
ここにもいるわ リング脇
仮面剥がし貸し剥がし
今も剥がせぬこの縁
私もテフコ 贅肉を
重ねる今の罪と科
増えるばかりの哀しさを
持て余しつつ温めて
雲ひとつない青空を
見上げて渡る大川の
流れに溶かす罪深さ

夢にみたひと やっといま
逢える歓び胸抱き
あたしあの人逢いにいくのよ
 
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西脇順三郎の一行(3)

2013-11-20 00:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(3)

 「雨」

青銅をぬらした、噴水をぬらした、

 引用しながら、1行目の「南風は柔い女神をもたらした。」にすればよかったかなあ、「南風(なんぷう)」という音が、そのまま「柔い」という用言と結びつく。「南風は柔い」でひとつのイメージになりながら音も美しい。書き直そうかなあ、と迷っているのだが。
 でも……。
 昔を振り返ってみると、私は「噴水をぬらした、」に驚いた。噴水は水。ぬれている。なぜ、ぬれるのか。雨にぬれる前に、噴水自体の水にぬれている。わざわざ、「ぬれる」という必要がない。
 当然のことだが、そのころ私はギリシャを知らない。しかし、ギリシャが地中海の明るい国と思っている。そして、この雨は、太陽が輝きながらふる「晴れ雨」のようなものだと感じた。
 矛盾--それが驚きとなってあらわれる。
 「青銅」と「噴水」の音の対比は、「南風」ほどの驚きはないのだが。
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