北川透「伝奇集 2」(「KYO」2、2013年12月01日発行)
北川透「伝奇集 2」は「ハルハリ島 異聞」。「奇」に「異」か……。そこにはまっとうな正しさ(?)というものがない。奇妙で、さらに異なっている。いや「異聞」は単に異なっているということではないのだけれど。「異聞」とは何か言いたくて、言い違えてしまった本能のようなものを含んでいるのだけれど。
でも、「奇妙」な伝承が、さらに「異聞」に満ちていると、そこからどんな「正しさ」が引き出される? 別に「正しさ」を求めなくてもいいのだけれど、やっぱり何か信じるに足りるものを追いかけたいよねえ。
北川だって、何かを追い求めてことばを追っている。それが「正しさ」であるか、それとも正反対のものであるかは別にして。そうでないと、ことばは動かない。
と感じながら読みはじめるのだが。
ハルハリ島には
ハルハリ 四足の水陸両棲の哺乳類。雌の名前。五・六匹の子供を
産むが、一匹(多くは体格のいい雌)を残して後は食べる。
グーグー ハルハリの雄。母に食べられるので、極端に数が少ない。
トルハリが生殖用にまた快楽用に、共有し、飼育している。
ということになっている。
ぱっと読むと、ふむふむ、これはなにかの「寓意」かな? 「比喩」かな? なるほど、ハルハリとグーグーの関係は、ちょっとおもしろいなあ--と思ってしまうのだが、この文章はおかしくない? 変じゃない?
詩なのだから、別に論理的である必要はないのだけれど。
ハルハリが雌の哺乳類なら、グーグーが「ハルハリの雄」って、どういうこと? ハルハリが雌なら、ハルハリの雄というものは存在しない。 ハルハリには実は雌雄両方いるけれど、雄は少ないので特別に「グーグー」と呼ばれている、ということ?
で、ハルハリは子供を五・六匹産んで、体格のいい雌を残してほかは食べてしまうのだが、ときどき雄を食べずに残しておいて、それを生殖と快楽のためにつかう、ということらしい。
なんとか辻褄があう?
でも、次の注釈はどう?
ウェーキッピー 形も大きさも生存形態もヒトに近井。全身薄い毛
皮で覆われた裸で暮らしている。男女両性器をもっている。性別は
ないのに、十三歳になると性を選択する断髪式を行う。女は長髪を
許されない。誰とでも性交し、誰もが妊娠できる。しかし、出産を
許されるのは長髪男だけだ。妊娠女は深夜密かに海に入り、マルマ
ンをあおぎながらウミナガシをする。
女は妊娠できるが、出産を許されるのは男--これって、どういうこと? 妊娠した後、もう一度性を選び直すということ? 何かおかしい。
でも、その「おかしさ」というのは何だろう。なぜ「おかしい(奇妙)」と感じるのか。
これは意外と簡単(?)。
私が「流通言語(流通論理)」を基準にして北川のことばを読んでいるからだね。主語と動詞の関係が「おかしい(奇妙/不自然)」。女は断髪する。そして性交、妊娠できる。これは「女」を主語としている。そして、「断髪する」はひとによっては違和感をもつかもしれないけれど、性交する、妊娠するは女の「述語」として不自然ではない。「流通論理」に合致する。妊娠したのに出産できない。これも、ありうる。そういうことは「流通論理」の世界でも起きている。
しかし、そのあと、出産が許されるのは長髪男だけとなると「おかしい(奇妙/不自然)」。男は妊娠しないし、男は妊娠するとも書かれていないので、男が出産を許されているというのは論理が飛躍すると同時に、「流通論理」の視点から見ても合致しない。「流通論理」では男は出産できない。ここで、突然、この主語-述語の関係が狂う。
このとき、では、その「狂い」を、どこに主力を置いて私たちは認識しているのだろうか。(変な言い方だが、どう言えばいいのかわからないので、こういうふうに書いておく。)つまり、「主語」がおかしいのか、述語(動詞)がおかしいのか。主語-述語というのは切り離せないものなので、どちらがおかしいかという問いの立て方は「反則」なのかもしれないが……。
私は「主語」はいつでも一つだから、「述語(動詞)」に問題があるのだと思う。「主語」は一つ、というのは--言い換えると、一つの主語は「動詞」を複数もつことができるということである。女は性交できる。女は妊娠できる。ところが出産できない。(かわりに長髪の男に出産が許されている。)
ということは、というのは、私の「飛躍」かもしれないが。
私たちは、何かを理解するとき「動詞(述語)」に自分を重ねて、そこに起きていることが「正しい」かどうかを判断している。「主語」を省略しても、「動詞」がきちんと動いていれば、それが「正しい」と考える。(これは、主語を省略する日本語のなかで私が育っているからそう考えるのかもしれないが……。)
性交する。妊娠する。出産する。--とつづけば、主語は「女」と私は考える。
性交する。妊娠できない。出産できない。--これは「男」。
複数の動詞のなかで「肉体」を動かしながら(無意識に「肉体」を感じながら)、私たちは(私は)、主語を無意識に特定している。そして、その無意識の特定が否定されたときに「おかしい(奇妙/不自然)」と感じるのだ。それは自分の「肉体」が否定されたような感じに似ている。
ということは、とここから私はさらに「飛躍」する。
私たちが(私が)、ことばをとおして読んでいるのは「肉体」を主語とする「動詞」であり、「動詞(述語)」にそって世界を見ている。だれかの「肉体」に自分の「肉体」を重ね合わせていっしょに動き、その動きが自分の知らない動詞を肉体に要求してくるときに、奇妙不自然と感じる。男は出産を許される(出産できる)--という「肉体」の「運動」を、私は私の「肉体」で具体化できない。女は出産できる--は、私の肉体でそのまま体現できないけれど、私が女ならばという仮定を挿入することで具体化できる。
だんだんややこしくなってきた。私が何を言いたいかというと--言いたいことなんか、何も決まっていなくて、書きながら考えているのだが、そしてそれがだんだん何かずれてきたなあと感じているのだが……。
こんなふうに「流通言語(流通論理)」とは違う「動詞(述語)」を連ねながら、北川は何をしようとしているのかというと。(詳しく書くと面倒なので--つまり、詳しくは書けないのではしょって書いてしまうと。)
北川は「伝奇」とか「異聞」ということばではぐらかしているのだけれど。
「ハルハリ島」について書いているように見えて、北川は「ハルハリ島」については何も書いていない。ここに書かれていることは「ハルハリ島」に関する描写や説明ではない。北川の文章からは「ハルハリ島」は再現できない。具体化できない。
では何が書いてあるか。
ややこしいのだが、「ハルハリ島」について、こんなふうに「書くことができる」ということを書いている。「書き方」を書いている。「流通言語」に言いかえると、「ことばの技術」を書いている。ここに書かれているのは「技術」であって、「描写(説明)」ではない。
--などと書くと、うーん、それは違っている。と私のなかで、もうひとりの私が否定する。
技術ではなくて、「欲望」なのだ。
北川には、「流通言語」の「文体」とは違う形でことばを書きたい(動かしたい)という欲望があって、その欲望が書かれている。ほかのものは書かれていない。「ハルハリ島」を書くふりをして、何でもかんでも書いてしまう。その書いたことが矛盾してもかまわない。なぜなら、ことばは矛盾したことをこそ書きたい。いままで「矛盾」と定義されていたことを、現実として出現させたい。そんなことはことばだけではできない--というかもしれないが、できるかもしれない。そしてその欲望は動詞として具体的に動いている。男は「出産できる」という具合に。
さらに「飛躍」しよう。
「欲望」は「名詞」のなかにあるのではない。「動詞」のなかにある。「動詞」と切り離せない「肉体」のなかにある。「肉体」のなかにある「欲望」は「本能」である。そして、「本能」には間違えるということがない。「本能」は正しいことしかしない。
その絶対的な「正しさ」(流通論理を否定して輝く何か、まだ出現していない何か)のために、北川は「動詞」を動かす。「動詞」といっしょに動いていく。異聞の「異」は、この動詞が生み出すものなのだ。
ハルハリ島について語っている者はわたしではない 誰もハルハリ
島について語ることはできないので 誰もが語ることができる
この部分は、私が先に指摘した「島の描写/説明ではなく、こんなふうに語ることができるということばの技法が書かれている」という証拠(?)のようなものである。そして、その「技法」とは実は「技法」ではなく「欲望/本能」であったということを思い返すなら、ここには、ただ、書きたいという欲望/本能だけがあるのだ。そして実際にそれが筋肉として動き、動きながらその動きのなかから「異」を噴出させる。「異」は欲望と本能そのものであり、それが「流通論理」を突き破るとき、そこに光が噴出する。
その欲望/本能が何を見つけ出すか。何を生み出すか--そんなことはわからない。予測できない。その欲望についていきたいと読者がついていきたいと思うかどうかだけである。--私はついてゆきたい。ことばに何ができなかわからないが、「流通言語」をはみだして動くことができるということは、すでに「現代詩」で証明されている。その欲望がどこまで行けるかというのは、しかし、証明されていない。実証されていない。ただ、行ってみるしかないのである。