青山かつ子「夕ぐれ」(「この場所ici」9 、2013年11月05日発行)
青山かつ子「夕ぐれ」は、きのう読んだ斉藤なつみ「小鳥」と通じるところがあるのだが、ちょっと複雑。簡単に(?)抒情詩という「枠」にはおさまってくれない。
「きのうと同じなのに/初めての夕ぐれ」--これが曲者。「きのうと同じなのに」、なぜ「初めて」? 矛盾してるねえ。でも、この「矛盾」は「頭」で考えるから矛盾なのであって、「こころ(肉体--と私は呼びたいのだけれど)」には矛盾していない。
矛盾している--と私が書くまで、矛盾に気づきました? 気づかないでしょ。自然に読んでしまうでしょ? 私はわざと「矛盾」ということばを持ち出すことで、この部分をもっと生き生きと動かしたい、青山の「肉体」になって、いっしょに動いていきたいと思っている。
こういうとき私の「現代詩講座」では受講生に質問する。
そうだね、「うろたえる」。青山は「うろたえる」と書いている。そして、このとき「うろたえる」のは「頭」ではなく、きっと「こころ(肉体)」だと思う。うろたえて、じっさいに、体がうろうろするというか、安定しないよね。
で、青山は「こころ」を「切なさ」と書いているね。「切なさ」は「頭」で感じることじゃないね。
だから、この部分は
ここから最初に引き返していく。「こころ」には「きのう」はない。いつも「きょう」、いつも「初めて」。それは「肉体」にとっても同じ。
「老母」と「わたし」は見つめ合い、声を出し合う。そのとき、相手を見つめているのは「頭の目」ではなく「こころの目(肉眼、肉体にからみついた、整理できない目)」。そして2連目は、少しことばを補って、
と読み直してみる。そうすると「死んだつもり」のなかで「肉体」が重なり合う。「ひとつ」になる。「死んだつもり」に老母とわたしの区別がなくなる。
そうだね。両方。
だから、「死んだつもり」はあくまで「つもり」であって、それが逆に「生きている」を刺戟する。「つもり」ではない現実を刺戟する。「時間」がいりみだれる。生と死がいりみだれるなら、過去と現実も入り乱れる。
「きのう」は青山はこどもとして体験し、「きょう」はいまの「わたし」として体験し、その「いまのわたし」には「若い母」が重なるという具合にからみあって、二重になって「どっとよせてくる」という感じになる。
どっちがどっちかわからない。
老いた母は、あのときは若かった。たのもしい母だった--そんなことを「こころ」は思い出し、切なくなるんだね。あんなに頼もしかった母が、なぜいまは……と泣きたくなる。でも泣いてなんかいられない。
「若い母」に、青山がなるのだ。年下だけれど、老母の「若い母」として生きるのだ。そういう「肉体」の交代、「こころ」の交代が、この詩にはしっかり動いている。そうだね、「死んでなんかいられない」。生きなければ死ぬこともできない。死ぬならば、頼もしく死んでいかねばならない。
「頭」へことばが動いていくのではなく、「肉体」へ、欲望へ動いていくのがいいなあ。
青山かつ子「夕ぐれ」は、きのう読んだ斉藤なつみ「小鳥」と通じるところがあるのだが、ちょっと複雑。簡単に(?)抒情詩という「枠」にはおさまってくれない。
めざめると
老母は
わたしを見上げ
じーっとみつめる
「死んでんのか」
「生きてる、生きてるよ!」
いくら叫んでも
母の耳はとうに砂に埋もれている
しばらく
死んだつもりになってみる
わたしも…
<夕焼け小焼け>が流れてくる
ご飯の炊けるにおい
カナカナが鳴く
ねこが外から帰ってくる
きのうと同じなのに
初めての夕ぐれが
どっとよせてきて
切なさにうろたえてしまう
「きのうと同じなのに/初めての夕ぐれ」--これが曲者。「きのうと同じなのに」、なぜ「初めて」? 矛盾してるねえ。でも、この「矛盾」は「頭」で考えるから矛盾なのであって、「こころ(肉体--と私は呼びたいのだけれど)」には矛盾していない。
矛盾している--と私が書くまで、矛盾に気づきました? 気づかないでしょ。自然に読んでしまうでしょ? 私はわざと「矛盾」ということばを持ち出すことで、この部分をもっと生き生きと動かしたい、青山の「肉体」になって、いっしょに動いていきたいと思っている。
こういうとき私の「現代詩講座」では受講生に質問する。
<質問> 「きのうと同じ」なのに、なぜ「初めて」?
初めてを青山は、どう言い換えている? 言いなおしている?
<受講生>????
<質問> 「初めて」のことにぶつかると、どうなる?
<受講生1>どうしていいか、わからない。
<質問> ほかのことばで言うと?
<受講生2>うろたえる。
そうだね、「うろたえる」。青山は「うろたえる」と書いている。そして、このとき「うろたえる」のは「頭」ではなく、きっと「こころ(肉体)」だと思う。うろたえて、じっさいに、体がうろうろするというか、安定しないよね。
で、青山は「こころ」を「切なさ」と書いているね。「切なさ」は「頭」で感じることじゃないね。
だから、この部分は
「頭には」きのうと同じなのに
「こころには」初めての夕ぐれが
「こころに」どっとよせてきて
切なさに「こころが」うろたえてしまう
ここから最初に引き返していく。「こころ」には「きのう」はない。いつも「きょう」、いつも「初めて」。それは「肉体」にとっても同じ。
「老母」と「わたし」は見つめ合い、声を出し合う。そのとき、相手を見つめているのは「頭の目」ではなく「こころの目(肉眼、肉体にからみついた、整理できない目)」。そして2連目は、少しことばを補って、
しばらく
「老母が」死んだつもりになってみる
わたしも……「死んだつもりになってみる」
と読み直してみる。そうすると「死んだつもり」のなかで「肉体」が重なり合う。「ひとつ」になる。「死んだつもり」に老母とわたしの区別がなくなる。
<質問> そうすると、次の「夕焼け小焼け」を聞いたのがだれ?
ご飯が炊ける匂いをかいだのはだれ?
<受講生3>お母さんと、青山。両方。
そうだね。両方。
だから、「死んだつもり」はあくまで「つもり」であって、それが逆に「生きている」を刺戟する。「つもり」ではない現実を刺戟する。「時間」がいりみだれる。生と死がいりみだれるなら、過去と現実も入り乱れる。
「きのう」は青山はこどもとして体験し、「きょう」はいまの「わたし」として体験し、その「いまのわたし」には「若い母」が重なるという具合にからみあって、二重になって「どっとよせてくる」という感じになる。
どっちがどっちかわからない。
老いた母は、あのときは若かった。たのもしい母だった--そんなことを「こころ」は思い出し、切なくなるんだね。あんなに頼もしかった母が、なぜいまは……と泣きたくなる。でも泣いてなんかいられない。
「ご飯はできてんのか!」
不意に
若い母の声が
手ぬぐいを外しながら
日に焼けた顔を出す
死んでなんかいられない
あわてて茶碗を並べる
「若い母」に、青山がなるのだ。年下だけれど、老母の「若い母」として生きるのだ。そういう「肉体」の交代、「こころ」の交代が、この詩にはしっかり動いている。そうだね、「死んでなんかいられない」。生きなければ死ぬこともできない。死ぬならば、頼もしく死んでいかねばならない。
「頭」へことばが動いていくのではなく、「肉体」へ、欲望へ動いていくのがいいなあ。
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