監督 カトリーヌ・コルシニ 出演 ラファエル・ペルソナ、クロチルド・エム、アルタ・ドブロシ
主演のラファエル・ペルソナはアラン・ドロン似の美男子という触れ込みである。アラン・ドロンよりもジェラール・フィリップに似ていると思う。野性味が少なく、やわらかな感じ。で、この監督はラファエル・ペルソナのいろいろな表情を撮りたくてしようがない、という感じ、それだけが目的という感じで映画をつくっているものだから……。
とっても、いいかげん。
と見るのは、たぶん日本人的感覚。こういう映画はストーリーを追いかけ、ストーリーにカタルシスを求めると裏切られる。こういう映画は、「これがフランス人だ」と思って見ると、非常に非常に非常に興味深い。
ヨーロッパ、民主主義、個人主義--といくつかことばを並べると共通項があるように見えるけれど、ぜんぜん違うねえ。フランス(パリ?)の個人主義なんて、ほんとうに自分さえよければという個人主義ですねえ。
この映画の原題は「trois mondes」(三つの世界)。交通死亡事故の、加害者、被害者、目撃者。目撃者というのは「事実」を証明する存在。その個人の「事実実の証明」を公的機関(警察とか裁判とか)が正しいと認定すると、それが「真実」になる。そういう過程を経て世界は「安定」を保つのだけれど--そういうのが、いわゆる「現代国家」というものだけれど。フランスではこの「原則」が無視される--いや、無視はされないのだろうけれど、それよりも「個人」そのものの視点が優先する。「権力」による「真実」の認定なんてまっぴら。「真実」よりも個人の「こころの事実(欲望)」が大事、「事実」はどうであれ「真実」というのはひとりひとりが決定し、納得するもの。「心実」ということばはないのだけれど、フランス人にとっては「真実」は「心実」にまで到達しないことには意味がない。逆に言えば「心実」なら、それがどういうものであれ受け入れる。人間関係は個人と個人が築くものであって、公的機関が「認定」するものではないからだ。
だからね、というのは変な言い方だが。
この映画の「三つの世界」の「一つ(被害者)」は不法難民(不法居住者)なのだが、その不法性はこの映画では問題にならない。彼らが仕事がなくて困っているのはそのひと自身の問題であって、そのことを別の他人が「不法入国」を理由にあれこれはいわない。国家が「不法」と言うだけであって、個人は彼らを「不法」を理由に排除しようとはしない。個人にはあくまで寛容である。むしろ「不法」という正義を押しつけてくる権力に対する反感が個人を支えている。
と、またまた脱線して、なかなか映画のなかに入っていけないのだが--実は、入ってしまっているのかもしれないなあ。
映画は交通事故を目撃した女性が、加害者、被害者のあいだに入って関係を仲介するというような形で展開するが、これって、私のような日本人にはとても奇妙に見える。だれが加害者であるかわかったら、日本では警察に知らせる。それで目撃者の仕事は終わる。目撃者はあくまで第三者であって、加害者・被害者の関係(事実の関係)は公的機関が認定することであって、目撃者がそこに介入し事実関係を変更する(?)ようなことはしない。(してはいけないのかもしれない。)でも、フランスでは(この映画では)、警官が「事実」を調査する、加害者を逮捕するためにあれこれする、というようなことは描かれていない。
かわりに目撃者が被害者に同情し、そこから被害者の家族を調べ、電話しというような「おせっかい」をする。なぜ、そこまで……という疑問が残る。残るでしょ? 絶対に。
で、ここが、実は「みそ」。
ラファエル・ペルソナは、男をはねたとき、車から一瞬だけれどおりてくる。それを目撃者のクロチルド・エムはちらりと見る。夜だから(未明だから)暗くてよく見えない--という設定だけれど。
病院でその男とすれちがったとき、あ、あの男と気づく。
どうしてだと思う?
美男子だからですねえ。これは、独断と偏見だけれど、男が不細工だったら(ラファエル・ペルソナの同僚の無精髭をはやしている整備工だったら、小太りのデブのセールスマンだったら)、たぶん、印象に残らないし、気づいたとしても警察に通報しておしまい(被害者の妻に知らせておしまい)なんだけれど、美男子であるので、その顔をじっくり見るために追いかける、追いかけて確かめるということまでする。病院の廊下ですれちがって、エレベーターにいっしょに乗り込み、男が車にのるところまで追いかけるときの、その執拗さは、加害者であるかどうか確認するためを通り越して、ラファエル・ペルソナの美形を確かめるためなんですねえ。このシーン、変に克明で長いでしょ? エレベーターに入院患者なんかが乗り込んでくるというようなリアリティーが、ストーリーを補強するというより、ラファエル・ペルソナの美形の補強と、彼をみつめる女の視線の補強だね。
おいおい、ここまで「ごまかして(ストーリーを装って)」ラファエル・ペルソナとかれをみつめる女の視線をていねいに描くことはないよ。恋愛映画じゃないのだから。--じゃなくて、もう恋愛がはじまっている。一目惚れをはっきりさせるために、このシーンがある。むちゃくちゃだなあ。映画(ストーリー)を私物化している。
で、その後は、なぜこの男は人をはねて平気なのか、なぜ自首しないのか--とあくまで事故の責任の取り方をフランス人固有の「個人の責任問題」におしつけて、加害者なのに、なぜこんなにいい男なんだろうと、奇妙なふうに関心がねじれていく。あ、そんなふうにはっきりと描かれているわけではないのだけれど、そういう雰囲気。恋愛のどきどき。この男と女は、どうなるのか。それを女自身が知りたがっている。だから、女は恋人がいて、妊娠までしているのに、車のなかでセックスまでしてしまう。あらら、こんな個人的な関係が出来てしまうと、もう「中立」ではいられない。「目撃者」ではいられないよね。警察に通報するというようなことはしにくくなるねえ。
もう、これはほんとうにほんとうにへんてこりんなフランス以外(フランス女以外)では絶対に思いつかない究極の恋愛映画。恋人がいたって、その恋人のこどもを妊娠していたって、いい男がいるならこころがときめき、セックスして何が悪い。そうしたい。だから、するだけ。悔しいなら、いい男になってみろ、いい男を手に入れてみろ、できないやつは人を非難するな--という監督の声が聞こえてきそう。
笑ってしまう。
*
付録。
いい男だから、もちろん裸は出てきます。殴られて傷もできます。血や傷ほど美形に似合うものはないからねえ。ひとりだけファッションショーもやります。それなりに理由はあるけれど、これはやっぱり監督がラファエル・ペルソナを着せかえ人形と思っているんですねえ。
(2013年11月10日、KBCシネマ2)
主演のラファエル・ペルソナはアラン・ドロン似の美男子という触れ込みである。アラン・ドロンよりもジェラール・フィリップに似ていると思う。野性味が少なく、やわらかな感じ。で、この監督はラファエル・ペルソナのいろいろな表情を撮りたくてしようがない、という感じ、それだけが目的という感じで映画をつくっているものだから……。
とっても、いいかげん。
と見るのは、たぶん日本人的感覚。こういう映画はストーリーを追いかけ、ストーリーにカタルシスを求めると裏切られる。こういう映画は、「これがフランス人だ」と思って見ると、非常に非常に非常に興味深い。
ヨーロッパ、民主主義、個人主義--といくつかことばを並べると共通項があるように見えるけれど、ぜんぜん違うねえ。フランス(パリ?)の個人主義なんて、ほんとうに自分さえよければという個人主義ですねえ。
この映画の原題は「trois mondes」(三つの世界)。交通死亡事故の、加害者、被害者、目撃者。目撃者というのは「事実」を証明する存在。その個人の「事実実の証明」を公的機関(警察とか裁判とか)が正しいと認定すると、それが「真実」になる。そういう過程を経て世界は「安定」を保つのだけれど--そういうのが、いわゆる「現代国家」というものだけれど。フランスではこの「原則」が無視される--いや、無視はされないのだろうけれど、それよりも「個人」そのものの視点が優先する。「権力」による「真実」の認定なんてまっぴら。「真実」よりも個人の「こころの事実(欲望)」が大事、「事実」はどうであれ「真実」というのはひとりひとりが決定し、納得するもの。「心実」ということばはないのだけれど、フランス人にとっては「真実」は「心実」にまで到達しないことには意味がない。逆に言えば「心実」なら、それがどういうものであれ受け入れる。人間関係は個人と個人が築くものであって、公的機関が「認定」するものではないからだ。
だからね、というのは変な言い方だが。
この映画の「三つの世界」の「一つ(被害者)」は不法難民(不法居住者)なのだが、その不法性はこの映画では問題にならない。彼らが仕事がなくて困っているのはそのひと自身の問題であって、そのことを別の他人が「不法入国」を理由にあれこれはいわない。国家が「不法」と言うだけであって、個人は彼らを「不法」を理由に排除しようとはしない。個人にはあくまで寛容である。むしろ「不法」という正義を押しつけてくる権力に対する反感が個人を支えている。
と、またまた脱線して、なかなか映画のなかに入っていけないのだが--実は、入ってしまっているのかもしれないなあ。
映画は交通事故を目撃した女性が、加害者、被害者のあいだに入って関係を仲介するというような形で展開するが、これって、私のような日本人にはとても奇妙に見える。だれが加害者であるかわかったら、日本では警察に知らせる。それで目撃者の仕事は終わる。目撃者はあくまで第三者であって、加害者・被害者の関係(事実の関係)は公的機関が認定することであって、目撃者がそこに介入し事実関係を変更する(?)ようなことはしない。(してはいけないのかもしれない。)でも、フランスでは(この映画では)、警官が「事実」を調査する、加害者を逮捕するためにあれこれする、というようなことは描かれていない。
かわりに目撃者が被害者に同情し、そこから被害者の家族を調べ、電話しというような「おせっかい」をする。なぜ、そこまで……という疑問が残る。残るでしょ? 絶対に。
で、ここが、実は「みそ」。
ラファエル・ペルソナは、男をはねたとき、車から一瞬だけれどおりてくる。それを目撃者のクロチルド・エムはちらりと見る。夜だから(未明だから)暗くてよく見えない--という設定だけれど。
病院でその男とすれちがったとき、あ、あの男と気づく。
どうしてだと思う?
美男子だからですねえ。これは、独断と偏見だけれど、男が不細工だったら(ラファエル・ペルソナの同僚の無精髭をはやしている整備工だったら、小太りのデブのセールスマンだったら)、たぶん、印象に残らないし、気づいたとしても警察に通報しておしまい(被害者の妻に知らせておしまい)なんだけれど、美男子であるので、その顔をじっくり見るために追いかける、追いかけて確かめるということまでする。病院の廊下ですれちがって、エレベーターにいっしょに乗り込み、男が車にのるところまで追いかけるときの、その執拗さは、加害者であるかどうか確認するためを通り越して、ラファエル・ペルソナの美形を確かめるためなんですねえ。このシーン、変に克明で長いでしょ? エレベーターに入院患者なんかが乗り込んでくるというようなリアリティーが、ストーリーを補強するというより、ラファエル・ペルソナの美形の補強と、彼をみつめる女の視線の補強だね。
おいおい、ここまで「ごまかして(ストーリーを装って)」ラファエル・ペルソナとかれをみつめる女の視線をていねいに描くことはないよ。恋愛映画じゃないのだから。--じゃなくて、もう恋愛がはじまっている。一目惚れをはっきりさせるために、このシーンがある。むちゃくちゃだなあ。映画(ストーリー)を私物化している。
で、その後は、なぜこの男は人をはねて平気なのか、なぜ自首しないのか--とあくまで事故の責任の取り方をフランス人固有の「個人の責任問題」におしつけて、加害者なのに、なぜこんなにいい男なんだろうと、奇妙なふうに関心がねじれていく。あ、そんなふうにはっきりと描かれているわけではないのだけれど、そういう雰囲気。恋愛のどきどき。この男と女は、どうなるのか。それを女自身が知りたがっている。だから、女は恋人がいて、妊娠までしているのに、車のなかでセックスまでしてしまう。あらら、こんな個人的な関係が出来てしまうと、もう「中立」ではいられない。「目撃者」ではいられないよね。警察に通報するというようなことはしにくくなるねえ。
もう、これはほんとうにほんとうにへんてこりんなフランス以外(フランス女以外)では絶対に思いつかない究極の恋愛映画。恋人がいたって、その恋人のこどもを妊娠していたって、いい男がいるならこころがときめき、セックスして何が悪い。そうしたい。だから、するだけ。悔しいなら、いい男になってみろ、いい男を手に入れてみろ、できないやつは人を非難するな--という監督の声が聞こえてきそう。
笑ってしまう。
*
付録。
いい男だから、もちろん裸は出てきます。殴られて傷もできます。血や傷ほど美形に似合うものはないからねえ。ひとりだけファッションショーもやります。それなりに理由はあるけれど、これはやっぱり監督がラファエル・ペルソナを着せかえ人形と思っているんですねえ。
(2013年11月10日、KBCシネマ2)
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