八重洋一郎「福木」(「イリプスⅡ」12、2013年11月15日発行)
八重洋一郎「福木」は、福木と呼ばれる木のことを書いている。
私は、その木を見たことがないのだが、次の描写に出合って、まるでその木が目の前にあるかのように感じた。その木なら知っている、と言いそうになった。
木の描写なのに、そこに島人の姿が見える。雨が降らないときの、島の暮らし。そこでの祈りの気持ちが木に託されて語られている。そのために強く印象に残る。木を描写する八重のことばは木と同時に島人の姿を見ている。いや、島人の姿そのものを見ているのであって、木を見ているのではないのかもしれない。
雨を受け止める木の姿、下の葉から上の葉へ順々にというのは、ほんとうにそうなのかどうか私にはわからない。(と、書いてしまうと意地悪をしているような感じだが……。)雨は上から順番に濡れるものだし、木の葉っぱはていねいに設計された建築物のようになっていないだろうから、八重の書いている通りの現象が見られるかどうかわからない。
しかし、あるいは、だからこそ、といえばいいのか。
そこに八重の「祈り」が見える。こんなふうに、福木を見たい--という欲望が見える。本能が見える。
一本の木さえ、そんなふうに雨を助け合って受け止める。
その助け合って生きる姿を、八重は島人の暮らしに重ね合わせるのである。島人の暮らしが福木によって整えられる。そんなふうに、整えたい--そういう気持ちが八重にはある。
福木と島人の暮らしが重なり合うとき、互いに互いを整えあうとき、そこから詩は転調して、もうひとつの「暮らし」を描き出す。
福木から「生き方」を学び、その福木を切り倒し染料をつくり、布を染めて生きる。その黄金色は、単に「視覚」にとってだけの色ではないだろう。
八重は、そう書いている。
私は福木を見たことがないけれど、そしてその染料で染められた黄金色の布を見たことがないけれど、それが見える。
ととのえられた「暮らし」というのは、「思想」なのだということがわかる。
引用の順が逆になるが、書き出しの方、2連目の描写が美しい。
「日向と陰の境目が 眼に痛い」が過酷な島の夏を伝えている。そこにある「肉体」、そこで出合う「もの」、そしてそこからはじまる「暮らし」。それは、「もの」と直にふれあうことで「正直」を獲得するのだと思う。
ことばの「基本」で、肉体をたたかれる思いがする。
八重洋一郎「福木」は、福木と呼ばれる木のことを書いている。
福木葉は濃緑の部厚い葉っぱ それで瓦屋根の仕上げの漆喰い塗りが出来るほど 二枚一組しっかり相対して生え くっつきそうだ
私は、その木を見たことがないのだが、次の描写に出合って、まるでその木が目の前にあるかのように感じた。その木なら知っている、と言いそうになった。
ある年 島が旱魃に襲われた 何ヶ月も何ヶ月も一滴の雨さえ降らず 島人は拉がれ ひからび咽喉かきむしり 福木葉は一枚残らず皆それこそピッタリくっついて 蒸散に耐え 赤太陽に耐え 天に向かって トードゥトードゥ どうぞどうぞお願い申し上げます
「アーミュ アーマシタボウリ」(雨を浴びせ給われ)と 根限りに祈ったが雨は降らず 万物はしだいに薄茶褐色へとチリチリちぢれ チリチリチリチリ
ある日 かすかに雨が降った
その時直ちに その水滴を受けようと福木の葉っぱがひらき始めた 下の方から上の方へ次々に 葉っぱがひらいた ひらいたどの葉も まだひらかない上部の葉っぱに邪魔されず雨粒を受け 飲み やがて最後に大きくひらいた天辺の二枚の葉っぱに雨滴が触れると 雨がやんだ 下から上へ下から上へ屋敷林全体の濃緑の部厚い葉による細かな細かな一斉波動 一斉開花
木の描写なのに、そこに島人の姿が見える。雨が降らないときの、島の暮らし。そこでの祈りの気持ちが木に託されて語られている。そのために強く印象に残る。木を描写する八重のことばは木と同時に島人の姿を見ている。いや、島人の姿そのものを見ているのであって、木を見ているのではないのかもしれない。
雨を受け止める木の姿、下の葉から上の葉へ順々にというのは、ほんとうにそうなのかどうか私にはわからない。(と、書いてしまうと意地悪をしているような感じだが……。)雨は上から順番に濡れるものだし、木の葉っぱはていねいに設計された建築物のようになっていないだろうから、八重の書いている通りの現象が見られるかどうかわからない。
しかし、あるいは、だからこそ、といえばいいのか。
そこに八重の「祈り」が見える。こんなふうに、福木を見たい--という欲望が見える。本能が見える。
一本の木さえ、そんなふうに雨を助け合って受け止める。
その助け合って生きる姿を、八重は島人の暮らしに重ね合わせるのである。島人の暮らしが福木によって整えられる。そんなふうに、整えたい--そういう気持ちが八重にはある。
福木と島人の暮らしが重なり合うとき、互いに互いを整えあうとき、そこから詩は転調して、もうひとつの「暮らし」を描き出す。
そして福木は「黄」の染料 但しすぐさま思いつくその黄の果実は役立たず 実際はその堅いひきしまった樹皮に黄の染料の基質となる化学物質があるという 従って染料を得るためにはその福木を切り倒さなければならない 福木から採取した染料で「白布」を染めると 目も覚めるような黄金色だ
福木から「生き方」を学び、その福木を切り倒し染料をつくり、布を染めて生きる。その黄金色は、単に「視覚」にとってだけの色ではないだろう。
そう それは一本の福の木のいのちを捨てたいのちの輝き!
八重は、そう書いている。
私は福木を見たことがないけれど、そしてその染料で染められた黄金色の布を見たことがないけれど、それが見える。
ととのえられた「暮らし」というのは、「思想」なのだということがわかる。
引用の順が逆になるが、書き出しの方、2連目の描写が美しい。
屋敷の周囲はぎっしり植わった緑の大木 それは福木 台風から家と暮らしを守るための防風林 屋敷林 そして普段は鬱陶しい暗い影 日向と陰の境目が 眼に痛い
「日向と陰の境目が 眼に痛い」が過酷な島の夏を伝えている。そこにある「肉体」、そこで出合う「もの」、そしてそこからはじまる「暮らし」。それは、「もの」と直にふれあうことで「正直」を獲得するのだと思う。
ことばの「基本」で、肉体をたたかれる思いがする。
しらはえ | |
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