陶山エリ「花を買う」(現代詩講座@リードカフェ、2013年11月13日)
陶山エリ「花を買う」がおもしろかった。受講生の相互批評でも好評だった。
受講生の声。
「2、3連目がいい。3連目の「長篇小説」からのことばの流れが、おもしろい。「まだ知らないまま女たちは花を買う」の部分は、つながりがわからないのだけれど」
「1連目はだれも思いつかない。2連目の「長篇小説」から花が出てきて、3連目へと花の変化の様子が変化して、花がよくわかる。私には、こんなにことばが出てこない」
「いいけれど、わからないところがある。最終連の「入水」に「にゅうすい」「じゅすい」、どっちだろう。花を買うとどうつながるのかなあ」
「深く考えると辻褄があわない。言い回しにひっかかるところがある。わかろうとするのではなく、ただ読んでいくとおもしろい」
「意味を追わなければ、ことばの変化がおもしろい。ゆっくり読むと、ひかれる」
「意味がわからない。もう少しわかりやすいところがあってもいいのかも。台詞があるとおもしろいと思う」
「意味を追わないで、ことばにだまされるなら、楽しい」
受講生の感想(批評)はほぼ一致している。おもしろい。けれど、よくわからなところがある。これは陶山の文体が句読点もなくねじれるようにつながるので、どこで文章を切って読んでいいかわからず、部分部分の意味はわかるけれど、つないでしまうとどこでつないでいいかわからないし、文と文との関係(論理構造)があいまいになり、何がいいたいのかわからなくなるということだと思う。
こうした文体は陶山の特徴であり、読む方が、それになれるしかないのだが。
陶山からは、「これは映画にヒントを得て書いている」と「種明かし」があった。「めぐりあう時間たち」(だったかな? ヴァージニア・ウルフを描いたもの)。「花を買う」は「ダロウェイ夫人」の冒頭の「花は私が買いに行く」の引用。
ウルフの文体は「意識の流れ」と俗に言われる文体である。「もの」の関係を論理的に描き、そこにリアリティーを出現させるのではなく、人間の意識の変化そのものの流動にリアルなものにする。「もの」の関係はあいまいでも、その瞬間瞬間の意識(こころ)のなまなましい動きを再現することに重きを置いている。「意識の流れ」といえばジョイスが有名だけれど、ジョイスはまだ男の文体(論理がはっきりしている)のに対し、ウルフはさらに革新的である。つかみどころのない意識だけがなまなましく動く。
陶山の詩を読んで、私はすぐに「ダロウェイ夫人」とウルフを思い浮かべたが、陶山は映画は繰り返し見たけれど、ウルフは読んでいないということだった。
「意識の流れ」に関連して、私は次のことを指摘した。この詩のなかでは、
この1行だけが特別にかわっている。途中に「それは」ということばが入っている。この「それは」を取り除くと、
と、ほかの行の「うねり」と非常に似てくる。なぜ、ここに「それは」があるのか。それは、「揺らすように花を挿す場面」が「踊り子がバーレッスンに疲れた部屋」であること(もちろん、これは比喩として同一という意味だが)を強調したかったのである。
比喩というのは、比喩が誕生した瞬間においては、それが密着している。「揺らすように花を挿す場面」が「踊り子がバーレッスンに疲れた部屋」を比喩としているのか、「踊り子がバーレッスンに疲れた部屋」が「揺らすように花を挿す場面」を比喩としているのか、よくわからない。「論理的」には特定できるが、そんなことを特定しても比喩が輝く出すわけではない。むしろ、区別がつかなくなるときに比喩が強烈に輝く。
そういう観点から言うと、実は、
の方が、1行としては強烈、強靱である。
でも、そうすると、その1行は他の行の構造と似てきてしまい、ことばの群れのなかに埋没しかねない。そのことを陶山は本能的に、無意識に関知して、思わず「それは」ということばを挿入してしまったのだと思う。
こういう無意識に動く、どうしても「必要な」ことば--読者にとってではなく、作者にとって必要なことばのことを私は「キイワード」と呼んでいる。これは、実は、書かれていないだけでいたるところに隠れている。
受講生の一人が最初に指摘した、
を、「それは」に類することば、さらに「それ」を強調する別のことばを補って読み替えると、
ということになる。
「意味」があいまいな、ねじれ具合がわからない部分に出会ったら、そこでいったんことばを切断し、「それは(それを)」を挿入してことばを再スタートさせると、「意味」はとおるようになる。
でも、まあ、こんなことは実際はする必要がない。
きょうのテーマは、受講生の感想(批評)を振り返ってみると「おもしろい」と「わかる」のあいだにある。
(1)表現はおもしろい
(2)意味はわからない(意味をつかめない)
この二つは、どこからくるのか。何が原因で生まれてくるのか。
あ、すごいなあ。
こんなことばが返ってくるとは思わずに私は質問しつづけたのだけれど。こういうことがあるから、対話はやめられない。質問はやめられない。
私の思っていたことをはるかに超えて受講生がそれなりの「答え」をだしてくれたので、これから先は私の蛇足。
わからないことばにであったとき、何度でも繰り返し読む。繰り返し読むと、それを覚えてしまう。この覚えてしまうは「頭」の仕事のように考えられているけれど、私は「肉体」で覚えるのだと思っている。口も目も耳も、ときにはほかの感覚も総動員して、ただそれを繰り返す。そうすると、「肉体」のなかから、なにかいま口にしていることば、いま聞いていることばに似たものが動きはじめる。何かが「思い出される」。
はっきりとした理由もなく思い出される何か--自分の知っている何かにつながる。その瞬間を、受講生のひとりは「ことばが立ち上がってくる」といい、別のひとりは「ことばが輝く」と言った。
その「立ち上がり」は活字のなかから「立ち上がる」というより、読者の「肉体」の奥から「思い出(体が覚えていること)」がことばに向けて押し寄せてくるということだ。そして、それが「肉体」の外へ飛び出し、作者の書いたことばとぶつかる。そのときスパーク。作者と読者の肉体がぶつかり、光を発する。それが「輝き」。
ことにあることばが「肉体」が覚えていることを引き出すなら、それは詩、なのだ。なかなか思い出せない何かをひっぱりだすために、ときに詩のことばは読者の「肉体」をひっかきまわす。わけのわからないものをぶつけてくる。それと向き合っているうちに、繰り返し向き合っているうちに、読者の「肉体」がととのえられ、肉体が「覚えていたこと」とことばが時空を超えてつながり、「ひとつ」になる。
陶山エリ「花を買う」がおもしろかった。受講生の相互批評でも好評だった。
花を買う 陶山エリ
週末になると口内炎がやってくるんです
粘膜に軟膏を塗るタイミングを教えてください
誰にも台詞を呼びかけることのない秋の午後には独り言に呼ばれたような気がして
ひりひりと揺れながら緩慢に疾走する女たちの一日は浅い午睡のような危うさで長編小説の厚さにすり寄ってくるあの重さが欲しい
小説の中の女は花を買うのかまだ知らないまま女たちは花を買う
揺らすように花を挿す場面はそれは踊り子がバーレッスンに疲れた部屋だ
花器の曲線に合わせて丁寧に挿されていく花も葉も不要な部分を貪欲に切り捨てては午睡の内に新聞紙となった三日前の朝刊の上で弔うためのアリアを分かち合いたい
ゴルトベルク変奏曲に導かれて目を閉じてみるけれど花は消えたくない女の肌は消えたくないくらい戯れて消えたいわたしじゃない台詞を買いたかったわけじゃない
水が窓の近くで退屈そうだからといって疾走から外れてしまった一日を入水さ
受講生の声。
「2、3連目がいい。3連目の「長篇小説」からのことばの流れが、おもしろい。「まだ知らないまま女たちは花を買う」の部分は、つながりがわからないのだけれど」
「1連目はだれも思いつかない。2連目の「長篇小説」から花が出てきて、3連目へと花の変化の様子が変化して、花がよくわかる。私には、こんなにことばが出てこない」
「いいけれど、わからないところがある。最終連の「入水」に「にゅうすい」「じゅすい」、どっちだろう。花を買うとどうつながるのかなあ」
「深く考えると辻褄があわない。言い回しにひっかかるところがある。わかろうとするのではなく、ただ読んでいくとおもしろい」
「意味を追わなければ、ことばの変化がおもしろい。ゆっくり読むと、ひかれる」
「意味がわからない。もう少しわかりやすいところがあってもいいのかも。台詞があるとおもしろいと思う」
「意味を追わないで、ことばにだまされるなら、楽しい」
受講生の感想(批評)はほぼ一致している。おもしろい。けれど、よくわからなところがある。これは陶山の文体が句読点もなくねじれるようにつながるので、どこで文章を切って読んでいいかわからず、部分部分の意味はわかるけれど、つないでしまうとどこでつないでいいかわからないし、文と文との関係(論理構造)があいまいになり、何がいいたいのかわからなくなるということだと思う。
こうした文体は陶山の特徴であり、読む方が、それになれるしかないのだが。
陶山からは、「これは映画にヒントを得て書いている」と「種明かし」があった。「めぐりあう時間たち」(だったかな? ヴァージニア・ウルフを描いたもの)。「花を買う」は「ダロウェイ夫人」の冒頭の「花は私が買いに行く」の引用。
ウルフの文体は「意識の流れ」と俗に言われる文体である。「もの」の関係を論理的に描き、そこにリアリティーを出現させるのではなく、人間の意識の変化そのものの流動にリアルなものにする。「もの」の関係はあいまいでも、その瞬間瞬間の意識(こころ)のなまなましい動きを再現することに重きを置いている。「意識の流れ」といえばジョイスが有名だけれど、ジョイスはまだ男の文体(論理がはっきりしている)のに対し、ウルフはさらに革新的である。つかみどころのない意識だけがなまなましく動く。
陶山の詩を読んで、私はすぐに「ダロウェイ夫人」とウルフを思い浮かべたが、陶山は映画は繰り返し見たけれど、ウルフは読んでいないということだった。
「意識の流れ」に関連して、私は次のことを指摘した。この詩のなかでは、
揺らすように花を挿す場面はそれは踊り子がバーレッスンに疲れた部屋だ
この1行だけが特別にかわっている。途中に「それは」ということばが入っている。この「それは」を取り除くと、
揺らすように花を挿す場面は踊り子がバーレッスンに疲れた部屋だ
と、ほかの行の「うねり」と非常に似てくる。なぜ、ここに「それは」があるのか。それは、「揺らすように花を挿す場面」が「踊り子がバーレッスンに疲れた部屋」であること(もちろん、これは比喩として同一という意味だが)を強調したかったのである。
比喩というのは、比喩が誕生した瞬間においては、それが密着している。「揺らすように花を挿す場面」が「踊り子がバーレッスンに疲れた部屋」を比喩としているのか、「踊り子がバーレッスンに疲れた部屋」が「揺らすように花を挿す場面」を比喩としているのか、よくわからない。「論理的」には特定できるが、そんなことを特定しても比喩が輝く出すわけではない。むしろ、区別がつかなくなるときに比喩が強烈に輝く。
そういう観点から言うと、実は、
揺らすように花を挿す場面は踊り子がバーレッスンに疲れた部屋だ
の方が、1行としては強烈、強靱である。
でも、そうすると、その1行は他の行の構造と似てきてしまい、ことばの群れのなかに埋没しかねない。そのことを陶山は本能的に、無意識に関知して、思わず「それは」ということばを挿入してしまったのだと思う。
こういう無意識に動く、どうしても「必要な」ことば--読者にとってではなく、作者にとって必要なことばのことを私は「キイワード」と呼んでいる。これは、実は、書かれていないだけでいたるところに隠れている。
受講生の一人が最初に指摘した、
小説の中の女は花を買うのかまだ知らないまま女たちは花を買う
を、「それは」に類することば、さらに「それ」を強調する別のことばを補って読み替えると、
小説の中の女は花を買うのか「それを」まだ知らないまま(映画のなかの)女たちは花を買う
ということになる。
「意味」があいまいな、ねじれ具合がわからない部分に出会ったら、そこでいったんことばを切断し、「それは(それを)」を挿入してことばを再スタートさせると、「意味」はとおるようになる。
でも、まあ、こんなことは実際はする必要がない。
きょうのテーマは、受講生の感想(批評)を振り返ってみると「おもしろい」と「わかる」のあいだにある。
(1)表現はおもしろい
(2)意味はわからない(意味をつかめない)
この二つは、どこからくるのか。何が原因で生まれてくるのか。
<質問> 意味がわからないというのは、別のことばで言うとどうなるかな?
この詩の場合、意味がわからないと感じるいちばんの原因は?
<受講生1>文章をどこで切っていいかわからない。句点の位置ろがわからない。
<質問> わからないとき、どうする?
<受講生1>何度でも読み返す。
<質問> 何のために読み返す?
<受講生1>こころのうちにことばを取り込みたいから。
<質問> 何度でも読み返すと、どうなる?
<受講生1>???
<受講生2>ことばが立ち上がってくる。
<受講生3>ことばが輝いてくる。
あ、すごいなあ。
こんなことばが返ってくるとは思わずに私は質問しつづけたのだけれど。こういうことがあるから、対話はやめられない。質問はやめられない。
私の思っていたことをはるかに超えて受講生がそれなりの「答え」をだしてくれたので、これから先は私の蛇足。
わからないことばにであったとき、何度でも繰り返し読む。繰り返し読むと、それを覚えてしまう。この覚えてしまうは「頭」の仕事のように考えられているけれど、私は「肉体」で覚えるのだと思っている。口も目も耳も、ときにはほかの感覚も総動員して、ただそれを繰り返す。そうすると、「肉体」のなかから、なにかいま口にしていることば、いま聞いていることばに似たものが動きはじめる。何かが「思い出される」。
はっきりとした理由もなく思い出される何か--自分の知っている何かにつながる。その瞬間を、受講生のひとりは「ことばが立ち上がってくる」といい、別のひとりは「ことばが輝く」と言った。
その「立ち上がり」は活字のなかから「立ち上がる」というより、読者の「肉体」の奥から「思い出(体が覚えていること)」がことばに向けて押し寄せてくるということだ。そして、それが「肉体」の外へ飛び出し、作者の書いたことばとぶつかる。そのときスパーク。作者と読者の肉体がぶつかり、光を発する。それが「輝き」。
ことにあることばが「肉体」が覚えていることを引き出すなら、それは詩、なのだ。なかなか思い出せない何かをひっぱりだすために、ときに詩のことばは読者の「肉体」をひっかきまわす。わけのわからないものをぶつけてくる。それと向き合っているうちに、繰り返し向き合っているうちに、読者の「肉体」がととのえられ、肉体が「覚えていたこと」とことばが時空を超えてつながり、「ひとつ」になる。
![]() | 詩を読む詩をつかむ |
谷内 修三 | |
思潮社 |