ゲルトルート・コルマル『沈黙するものたちのことば』(2)(藤倉孚子訳)(書肆半日閑、2013年11月01日発行)
ゲルトルート・コルマルのことばの強靱さ。--それは、言い換えると「思想」の強靱さ、「肉体」の強靱さということになるのだが。
どんなふうに私のことばで言いなおすことができるだろうか。言いなおす、つまり、私の感じたことをこの文章を読んでいるひとに伝えることができるかどうか、まったくわからないのだが、私が「あ、強いことばだ」と感じるのは、たとえば「黄色い薔薇」。
冷酷なもの、人情を無視して動く摂理に向き合って、そのなかで自分の「肉体」を主張している。
ゲルトルート・コルマルの「頭(肉体としての頭)」には、ほかの人間と同じように血が流れている。けれど「私の黒い髪の下の赤い血がどこから湧いてきたかなんて」、だれも「気にしない」。「気にかけない」。配慮しない。そういう非情さ(無情さ)をしっかりと「肉眼」で見ている。(きのう読んだ詩のなかで生まれてこなかったこどもを見ていたのも、この「肉眼」である。)
非情/無情が「肉眼」で見えてしまうから、もともと「情」とは無関係な薔薇がいっそう「非情の美」として、そこに存在することになる。その美の前で、 ゲルトルート・コルマルはうろたえない。泣き叫ばない。非情をさらにこじ開けるようにして、美を刻印する。忘れられないことば、リズムにして、吐きだす。
白鳥の最期の歌は死の歌。「夢」は「死」である。死がゲルトルート・コルマルに訪れても、だれも「気にしない」。彼女がだれであったかも、だれも気にしない。しかし、そのだれも気にしないゲルトルート・コルマルの肉体(頭)のなかにも血はしっかり流れているのだと、ゲルトルート・コルマルは抗議する。
ただ怒るのではなく、その絶望の瞬間にも、彼女には美が見えるし、それをことばにすることができる--非情と向き合い、なおかつ情を存在させる力が彼女にあると、しっかりした口調で最後まで言い切る。
「悲しみ」にも強い響きがある。「子供は私を引き裂かなかった、/胎内から身体を突っ張って出てこなかった、」という強烈なことば、女の「肉体」の実感はこういうものだ、と叱りつける強さをもった作品なのだが、その途中の次の連。
自分自身の柩のことを書いている。柩に入った自分のことを書いているのだが、「滴をたらし、熟してあたたかく、/烈しい突然の雨のなかで。」には何か矛盾のようなものがある。「あたたかく」と「雨のなか」が反対方向のベクトルをもっている。「椋鳥の群れと一緒に眠る」と「雨のなか」が、やはり矛盾する。それは、逆方向の何かを動かす。ぶつかりあうか、真っ二つに分裂する。
ゲルトルート・コルマルは矛盾を恐れない。--というより、世界をことばでととのえようとはしない。自分をことばでととのえて落ち着かせようとはしない。制御しない。抑圧しない。
解放するのだ。
ことばで世界をととのえるのではなく、世界をととのえようとすることばを破壊し、それを宇宙へ解き放つ。強い響きが、宇宙を貫く。
ゲルトルート・コルマルのことばの前では、私たちは世界ではなく、宇宙と向き合うことを強いられる。個人と向き合うことを強いられる。「現実」ではなく「真実」と向き合うことを要求されるひとりの、生身の人間と向き合うことを強いられる。。世界に存在するのは、世界というの確立したものではなく、ひとりの肉体をもった個人である。個人が存在し、その個人が自分にふさわしい「非情」を引き寄せる。「非情」は個人を鍛え、ととのえる。そういうものと真っ正直に向き合う--そういう緊迫感、覚悟に満ちた力が、世界を宇宙に拡大し、同時に凝縮させる。俳句でいう遠心・求心のような、強靱な音楽が、そこにある。
ゲルトルート・コルマルのことばの強靱さ。--それは、言い換えると「思想」の強靱さ、「肉体」の強靱さということになるのだが。
どんなふうに私のことばで言いなおすことができるだろうか。言いなおす、つまり、私の感じたことをこの文章を読んでいるひとに伝えることができるかどうか、まったくわからないのだが、私が「あ、強いことばだ」と感じるのは、たとえば「黄色い薔薇」。
黄色い薔薇、やさしく暗く葉に囲まれて
鳩色のブルーグレーの花瓶にいけられ、
黄色い薔薇は盛りの花頭を開き、
香りやサフラン色の花粉をもって、
私の部屋を通って行く、夢のように漂いながら、
一度も歌ったことのない金色の嘴(くちばし)の白鳥のように、
私のまわりに喜んで寄ってきても、気にしない、私が誰かなんて、
私の黒い髪の下の赤い血がどこから湧いてきたかなんて。
薔薇は穏やかで寛容で女のように長もちせず、
永遠の死を飾る花輪からすべり落ちたのだろう、
死神は外で、鳩のブルーグレーの夕闇のなかで待ち焦がれ、
ある書に触れ、頁をめくる指の鉤爪が黄色になっている、
冷酷なもの、人情を無視して動く摂理に向き合って、そのなかで自分の「肉体」を主張している。
ゲルトルート・コルマルの「頭(肉体としての頭)」には、ほかの人間と同じように血が流れている。けれど「私の黒い髪の下の赤い血がどこから湧いてきたかなんて」、だれも「気にしない」。「気にかけない」。配慮しない。そういう非情さ(無情さ)をしっかりと「肉眼」で見ている。(きのう読んだ詩のなかで生まれてこなかったこどもを見ていたのも、この「肉眼」である。)
非情/無情が「肉眼」で見えてしまうから、もともと「情」とは無関係な薔薇がいっそう「非情の美」として、そこに存在することになる。その美の前で、 ゲルトルート・コルマルはうろたえない。泣き叫ばない。非情をさらにこじ開けるようにして、美を刻印する。忘れられないことば、リズムにして、吐きだす。
私の部屋を通って行く、夢のように漂いながら、
一度も歌ったことのない金色の嘴の白鳥のように、
白鳥の最期の歌は死の歌。「夢」は「死」である。死がゲルトルート・コルマルに訪れても、だれも「気にしない」。彼女がだれであったかも、だれも気にしない。しかし、そのだれも気にしないゲルトルート・コルマルの肉体(頭)のなかにも血はしっかり流れているのだと、ゲルトルート・コルマルは抗議する。
ただ怒るのではなく、その絶望の瞬間にも、彼女には美が見えるし、それをことばにすることができる--非情と向き合い、なおかつ情を存在させる力が彼女にあると、しっかりした口調で最後まで言い切る。
「悲しみ」にも強い響きがある。「子供は私を引き裂かなかった、/胎内から身体を突っ張って出てこなかった、」という強烈なことば、女の「肉体」の実感はこういうものだ、と叱りつける強さをもった作品なのだが、その途中の次の連。
むき出しの板に囲われて
私の一日は野の椋鳥(むくどり)の群れと一緒に眠る、
芥子(けし)や種付け花をいっぱいに抱いて、
滴をたらし、熟してあたたかく、
烈しい突然の雨のなかで。
自分自身の柩のことを書いている。柩に入った自分のことを書いているのだが、「滴をたらし、熟してあたたかく、/烈しい突然の雨のなかで。」には何か矛盾のようなものがある。「あたたかく」と「雨のなか」が反対方向のベクトルをもっている。「椋鳥の群れと一緒に眠る」と「雨のなか」が、やはり矛盾する。それは、逆方向の何かを動かす。ぶつかりあうか、真っ二つに分裂する。
ゲルトルート・コルマルは矛盾を恐れない。--というより、世界をことばでととのえようとはしない。自分をことばでととのえて落ち着かせようとはしない。制御しない。抑圧しない。
解放するのだ。
ことばで世界をととのえるのではなく、世界をととのえようとすることばを破壊し、それを宇宙へ解き放つ。強い響きが、宇宙を貫く。
ゲルトルート・コルマルのことばの前では、私たちは世界ではなく、宇宙と向き合うことを強いられる。個人と向き合うことを強いられる。「現実」ではなく「真実」と向き合うことを要求されるひとりの、生身の人間と向き合うことを強いられる。。世界に存在するのは、世界というの確立したものではなく、ひとりの肉体をもった個人である。個人が存在し、その個人が自分にふさわしい「非情」を引き寄せる。「非情」は個人を鍛え、ととのえる。そういうものと真っ正直に向き合う--そういう緊迫感、覚悟に満ちた力が、世界を宇宙に拡大し、同時に凝縮させる。俳句でいう遠心・求心のような、強靱な音楽が、そこにある。
フルトヴェングラー家の人々――あるドイツ人家族の歴史 | |
エバーハルト・シュトラウプ | |
岩波書店 |