詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

スタンリー・キューブリック監督「恐怖と欲望」(★★+★)

2013-11-25 10:37:51 | 映画
監督 スタンリー・キューブリック 出演 ケネス・ハーブ、フランク・シルヴェラ、ポール・マザースキー、スティーブン・コイト

 スタンリー・キューブリック監督の第一作。完成度に不満があって、フィルムをほとんど買い占めた封印してしまった--と言われる作品。たしかに映画としては物足りない。まず哲学があって(主張があって)、それを映像で説明する。というより、哲学に映像をかぶせているだけというところがある。
 で、その哲学というのは……。
 うーん、最後の方に「ことば」として語られるのだが、それを字幕で読んだときは、「あ、これがキューブリックの哲学だ」とわかるのだが、もう忘れてしまった。戦争を体験すると、もう人間は、もとの世界にはもどれない云々というようなことだったが、ちがっているかもしれない。--この何かを体験すると、もうもとにはもどれない、というのはキューブリックのすべてに通じる哲学だけれど(そう感じるから、そのことばに出会ったとき、あ、これだね、思ったのだが……)、はっきり思い出せないということは、映画になっていないということ。
 別なことで言いなおすと(別な映画で言いなおすと、映画として完成している作品をつかって言いなおすと)、たとえば「2001年宇宙の旅」。猿が「モノリス」に触れる。知らないものを体験する。そうすると、もうもとには引き返せない。弱い猿のままではいられない。道具をつかい、戦うことを覚える。骨を武器に、弱者が強者に打ち勝つ。弱いものだけが「進化」し、世界をかえていく。--この骨がそのまま宇宙ステーションにまで発展し、そこでコンピューターとの戦いがあり、さらに「未知」の世界へ突入する……。
 ね、台詞は必要ではなく、映像だけで「哲学」が語られる。
 これに比べると、この第一作は、「ことば」が多すぎる。ことばを覆い隠す(?)ために映像がつかわれている。「ことば」だけで表現してしまうと(たとえば、小説、哲学のようなものにしてしまうと)、だれも読んでくれない。だから、映画にして、映像で「客」を引き寄せるという感じ。
 これでは、映画ではない。
 でも、キューブリックの「哲学」が確認できる点と、ひとつひとつの映像そのものの完成度にこだわる姿勢は、なかなかおもしろい。
 いちばん印象的なのは、森の中で娘に出会い、捕虜(?)にして森をさまよい、やがて逃走され、射殺するというエピソードだが、その女には台詞はなくて(叫び声すらなくて)、しかも、その逃走の直前に、手首を縛っているベルトほどくもたもたしたシーンがあって、「寓話」というより「童話」という感じもするのだが、その女の顔のアップ、目のアップ、手のアップが、それ自体として絵そのものになっている。兵士たちの言ったことばは、なんとなく覚えているというのにすぎないのに、女の顔の表情、手の表情は、ストーリーを突き破って、それ自体で存在している。映像に、そこまで自己主張させている。(思い出して、絵を描くことができる。)
 映像こそが映画である--というのは、森の中の小屋、敵がシチューを食べている小屋を襲うシーンでも輝いている。おそらく彼らははじめてひと(敵)を殺す。その殺すというときの肉体の動き、肉体に跳ね返ってくる何かが、きちんと映像にされている。こぼれるスープ。そのスープの具をつかむ敵の手の動き。指の動き。--女のシーンにもつながるのだが、キューブリックは、人間を目と手の存在として把握しているのかもしれない。目と手だけで映画を撮ることができる監督かもしれない。(「博士の異常な愛情」でも、ヒットラーへの敬礼のように動いてしまう手が映像化された。「2001年宇宙の旅」では、「ハル」のメモリーを手で一個ずつ取り出した。--監督が生きているなら、目と手が主役の映画をつくってほしいとファンレターでも書きたいなあ。)
 あと気がついたのは。
 映像とことばを比較すると、映像の方がはるかにスピードがある。(映像があふれる現代は、スピードこそいのちという「合理主義/資本主義」の本質に根ざしたものだと思うけれど……。)で、ラストシーンのように、哲学をことばで語らせると、それが重たくて、映像からずるずると遅れて、落ちてしまうのだけれど。
 一か所、逆のシーンがある。
 森の中を逃走するシーン。そのシーンに、疲れたなあ、腹が減って動けない、というような台詞が重なる。だれが言っているのかわからない。ナレーションのように、ひとりひとりのことばが流れる。その区別のなさがスピードとなって映像に打ち勝っている。映像が、無意味なまま(自己主張することなく)、ことばを追っかけている。
 これはおもしろいなあ、と思う。
 「意味」からこぼれ落ちて、映像を突き破って、そこに存在することば--もし、思想をことばで語るとしたら、こういう具合になるのだなあ、こういう腹が減って動きたくないなあ、こんなことはいやだなあ、ということばこそが「反戦の思想」そのものとして生きるのだと思った。

 変な映画だけれど、この映画を見ると、それまでに見たキャーブリックの映画のなかで見落としてきたものが、ふっと浮上してくる感じがして、まあ、見てよかったなあと思った。キューブリックのファンだから、そう思うのかもしれない。キューブリックのやっていることに興味がない人には、「紙芝居」に見えるかもしれないが。
                      (2013年11月24日、KBCシネマ2)

恐怖と欲望 Blu-ray
クリエーター情報なし
IVC,Ltd.(VC)(D)
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藤田晴央『夕顔』

2013-11-25 09:33:12 | 詩集
藤田晴央『夕顔』(思潮社、2013年11月14日発行)

 藤田晴央『夕顔』は亡くなった妻のことを書いている。「土」という作品がいちばん印象に残った。

一時退院の日は
めずらしく快晴
妻は
四十日ぶりの外の空気を吸い
青空に目をほそめた
二週間後には
また入院するのだが
ともあれ
一時放免
放たれた鳩は
丘の上から
残雪が残る岩木山を見た

木戸を入ってすぐに
しゃがんだ妻が
庭の土に手のひらをあてた
「あったかい」
わたしもあててみる
あたたかい
病室では
触れることのできないものたち
妻はまずはじめに
土を選んだ

 庭の土があたたかかったのはなぜだろう。春だからか。自分の家の庭だったからか。たぶん、後者だろう。自分が生きてきた家、その庭。その土。それを確かめている。
 藤田はそれを自分の手のひらで感じている。同じ庭の土に手のひらをあてるとき、そして土のあたたかさを感じ取るとき、その手のひらは藤田の手のひらであって藤田の手のひらではない。藤田の妻の手のひらである。「ひとつ」になっている。
 「ひとつ」になってわかることは土のあたたかさだけではない。妻は病院にいるときはふれることができなかったものがある、ということを藤田は知る。そして、その触れることのできなかったものに触れているということが、わかる。
 この「わかる」がとても自然な形であらわれている。
 春の土のあたたかさ--それを藤田は知ってはいるが、いまはじめて「わかる」。妻が望んでいるものは、こういう手でふれるあたたかさなのだ、と。そして、妻はあらゆるものを手のひらで直接感じ取ろうとしているのだということが「わかる」。「直接」が「わかる」。妻は「直接」を求めているのだ。
 藤田は、このとき妻になっている。「直接」が妻だと「わかる」。
 「わかる」ということは、自分が自分ではなくなり、他人になってしまうことだ。愛とは、自分が自分でなくなってもかまわないと覚悟して、ひとりのひとに「直接」重なってしまうこと、「他人」になってしまうことだが、--それがとても自然な形でここには書かれている。

 「夕鶴」も美しい。

妻は
中学三年のとき
木下順二の『夕鶴』のつうを演じた
背が高くてほっそりした少女は
鶴の化身にぴったりであっただろう
どんなにか少女は
つうの語る言葉を
くりかえし
そのほそいのどに飲み込んだことだろう
言葉を追って一羽の鶴が
十四歳の少女にはいりこんだ

 ことばを繰り返すとことばが肉体に入ってくる。ことばを追って鶴が少女の体に入り込んだのなら、藤田は藤田自身が書いたことばを追って妻のなかに入っていく。入っていくためにことばをととのえる。入っていくために、何度も何度も詩を書く。一篇の詩ではなく、何篇もの詩を書く。「肉体」は広い。どこまでも広がっている。その広がりのすべてへ入り込み、一体になるために、藤田はことばを書く。
 その藤田の生き方が静かな形で、この詩集にあらわれている。




夕顔
藤田 晴央
思潮社
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西脇順三郎の一行(8)

2013-11-25 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(8)

 「馥郁たる火夫」

 何者か藤棚の下を通るものがある。そこは通路ではない。

 この1行も、「カリマコスの頭とVoyage Pittoresque」の「しかしつかれて」と同じように、複雑なイメージ(新しいイメージ)をもっているとはいえない。詩的な印象からは遠い。どちらかというと「俗」である。「現実」である。
 「そこは通路ではない。」だから、通るな--ということ。これは詩のなかにあらわれた突然の「現実」である。
 詩とは「手術台の上のこうもり傘とミシンの出合い」である。異質なものが偶然出会うとき、そこに詩が噴出する。そして、まわりが「詩的言語」に満ちあふれているなら、そこには「現実」こそが「ありえないもの」になる。
 ある状況を攪乱することばこそ、詩なのである。「俗」があふれかえる豪華なイメージを洗い流し、詩の骨格をあばくのである。
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