監督 スタンリー・キューブリック 出演 ケネス・ハーブ、フランク・シルヴェラ、ポール・マザースキー、スティーブン・コイト
スタンリー・キューブリック監督の第一作。完成度に不満があって、フィルムをほとんど買い占めた封印してしまった--と言われる作品。たしかに映画としては物足りない。まず哲学があって(主張があって)、それを映像で説明する。というより、哲学に映像をかぶせているだけというところがある。
で、その哲学というのは……。
うーん、最後の方に「ことば」として語られるのだが、それを字幕で読んだときは、「あ、これがキューブリックの哲学だ」とわかるのだが、もう忘れてしまった。戦争を体験すると、もう人間は、もとの世界にはもどれない云々というようなことだったが、ちがっているかもしれない。--この何かを体験すると、もうもとにはもどれない、というのはキューブリックのすべてに通じる哲学だけれど(そう感じるから、そのことばに出会ったとき、あ、これだね、思ったのだが……)、はっきり思い出せないということは、映画になっていないということ。
別なことで言いなおすと(別な映画で言いなおすと、映画として完成している作品をつかって言いなおすと)、たとえば「2001年宇宙の旅」。猿が「モノリス」に触れる。知らないものを体験する。そうすると、もうもとには引き返せない。弱い猿のままではいられない。道具をつかい、戦うことを覚える。骨を武器に、弱者が強者に打ち勝つ。弱いものだけが「進化」し、世界をかえていく。--この骨がそのまま宇宙ステーションにまで発展し、そこでコンピューターとの戦いがあり、さらに「未知」の世界へ突入する……。
ね、台詞は必要ではなく、映像だけで「哲学」が語られる。
これに比べると、この第一作は、「ことば」が多すぎる。ことばを覆い隠す(?)ために映像がつかわれている。「ことば」だけで表現してしまうと(たとえば、小説、哲学のようなものにしてしまうと)、だれも読んでくれない。だから、映画にして、映像で「客」を引き寄せるという感じ。
これでは、映画ではない。
でも、キューブリックの「哲学」が確認できる点と、ひとつひとつの映像そのものの完成度にこだわる姿勢は、なかなかおもしろい。
いちばん印象的なのは、森の中で娘に出会い、捕虜(?)にして森をさまよい、やがて逃走され、射殺するというエピソードだが、その女には台詞はなくて(叫び声すらなくて)、しかも、その逃走の直前に、手首を縛っているベルトほどくもたもたしたシーンがあって、「寓話」というより「童話」という感じもするのだが、その女の顔のアップ、目のアップ、手のアップが、それ自体として絵そのものになっている。兵士たちの言ったことばは、なんとなく覚えているというのにすぎないのに、女の顔の表情、手の表情は、ストーリーを突き破って、それ自体で存在している。映像に、そこまで自己主張させている。(思い出して、絵を描くことができる。)
映像こそが映画である--というのは、森の中の小屋、敵がシチューを食べている小屋を襲うシーンでも輝いている。おそらく彼らははじめてひと(敵)を殺す。その殺すというときの肉体の動き、肉体に跳ね返ってくる何かが、きちんと映像にされている。こぼれるスープ。そのスープの具をつかむ敵の手の動き。指の動き。--女のシーンにもつながるのだが、キューブリックは、人間を目と手の存在として把握しているのかもしれない。目と手だけで映画を撮ることができる監督かもしれない。(「博士の異常な愛情」でも、ヒットラーへの敬礼のように動いてしまう手が映像化された。「2001年宇宙の旅」では、「ハル」のメモリーを手で一個ずつ取り出した。--監督が生きているなら、目と手が主役の映画をつくってほしいとファンレターでも書きたいなあ。)
あと気がついたのは。
映像とことばを比較すると、映像の方がはるかにスピードがある。(映像があふれる現代は、スピードこそいのちという「合理主義/資本主義」の本質に根ざしたものだと思うけれど……。)で、ラストシーンのように、哲学をことばで語らせると、それが重たくて、映像からずるずると遅れて、落ちてしまうのだけれど。
一か所、逆のシーンがある。
森の中を逃走するシーン。そのシーンに、疲れたなあ、腹が減って動けない、というような台詞が重なる。だれが言っているのかわからない。ナレーションのように、ひとりひとりのことばが流れる。その区別のなさがスピードとなって映像に打ち勝っている。映像が、無意味なまま(自己主張することなく)、ことばを追っかけている。
これはおもしろいなあ、と思う。
「意味」からこぼれ落ちて、映像を突き破って、そこに存在することば--もし、思想をことばで語るとしたら、こういう具合になるのだなあ、こういう腹が減って動きたくないなあ、こんなことはいやだなあ、ということばこそが「反戦の思想」そのものとして生きるのだと思った。
変な映画だけれど、この映画を見ると、それまでに見たキャーブリックの映画のなかで見落としてきたものが、ふっと浮上してくる感じがして、まあ、見てよかったなあと思った。キューブリックのファンだから、そう思うのかもしれない。キューブリックのやっていることに興味がない人には、「紙芝居」に見えるかもしれないが。
(2013年11月24日、KBCシネマ2)
スタンリー・キューブリック監督の第一作。完成度に不満があって、フィルムをほとんど買い占めた封印してしまった--と言われる作品。たしかに映画としては物足りない。まず哲学があって(主張があって)、それを映像で説明する。というより、哲学に映像をかぶせているだけというところがある。
で、その哲学というのは……。
うーん、最後の方に「ことば」として語られるのだが、それを字幕で読んだときは、「あ、これがキューブリックの哲学だ」とわかるのだが、もう忘れてしまった。戦争を体験すると、もう人間は、もとの世界にはもどれない云々というようなことだったが、ちがっているかもしれない。--この何かを体験すると、もうもとにはもどれない、というのはキューブリックのすべてに通じる哲学だけれど(そう感じるから、そのことばに出会ったとき、あ、これだね、思ったのだが……)、はっきり思い出せないということは、映画になっていないということ。
別なことで言いなおすと(別な映画で言いなおすと、映画として完成している作品をつかって言いなおすと)、たとえば「2001年宇宙の旅」。猿が「モノリス」に触れる。知らないものを体験する。そうすると、もうもとには引き返せない。弱い猿のままではいられない。道具をつかい、戦うことを覚える。骨を武器に、弱者が強者に打ち勝つ。弱いものだけが「進化」し、世界をかえていく。--この骨がそのまま宇宙ステーションにまで発展し、そこでコンピューターとの戦いがあり、さらに「未知」の世界へ突入する……。
ね、台詞は必要ではなく、映像だけで「哲学」が語られる。
これに比べると、この第一作は、「ことば」が多すぎる。ことばを覆い隠す(?)ために映像がつかわれている。「ことば」だけで表現してしまうと(たとえば、小説、哲学のようなものにしてしまうと)、だれも読んでくれない。だから、映画にして、映像で「客」を引き寄せるという感じ。
これでは、映画ではない。
でも、キューブリックの「哲学」が確認できる点と、ひとつひとつの映像そのものの完成度にこだわる姿勢は、なかなかおもしろい。
いちばん印象的なのは、森の中で娘に出会い、捕虜(?)にして森をさまよい、やがて逃走され、射殺するというエピソードだが、その女には台詞はなくて(叫び声すらなくて)、しかも、その逃走の直前に、手首を縛っているベルトほどくもたもたしたシーンがあって、「寓話」というより「童話」という感じもするのだが、その女の顔のアップ、目のアップ、手のアップが、それ自体として絵そのものになっている。兵士たちの言ったことばは、なんとなく覚えているというのにすぎないのに、女の顔の表情、手の表情は、ストーリーを突き破って、それ自体で存在している。映像に、そこまで自己主張させている。(思い出して、絵を描くことができる。)
映像こそが映画である--というのは、森の中の小屋、敵がシチューを食べている小屋を襲うシーンでも輝いている。おそらく彼らははじめてひと(敵)を殺す。その殺すというときの肉体の動き、肉体に跳ね返ってくる何かが、きちんと映像にされている。こぼれるスープ。そのスープの具をつかむ敵の手の動き。指の動き。--女のシーンにもつながるのだが、キューブリックは、人間を目と手の存在として把握しているのかもしれない。目と手だけで映画を撮ることができる監督かもしれない。(「博士の異常な愛情」でも、ヒットラーへの敬礼のように動いてしまう手が映像化された。「2001年宇宙の旅」では、「ハル」のメモリーを手で一個ずつ取り出した。--監督が生きているなら、目と手が主役の映画をつくってほしいとファンレターでも書きたいなあ。)
あと気がついたのは。
映像とことばを比較すると、映像の方がはるかにスピードがある。(映像があふれる現代は、スピードこそいのちという「合理主義/資本主義」の本質に根ざしたものだと思うけれど……。)で、ラストシーンのように、哲学をことばで語らせると、それが重たくて、映像からずるずると遅れて、落ちてしまうのだけれど。
一か所、逆のシーンがある。
森の中を逃走するシーン。そのシーンに、疲れたなあ、腹が減って動けない、というような台詞が重なる。だれが言っているのかわからない。ナレーションのように、ひとりひとりのことばが流れる。その区別のなさがスピードとなって映像に打ち勝っている。映像が、無意味なまま(自己主張することなく)、ことばを追っかけている。
これはおもしろいなあ、と思う。
「意味」からこぼれ落ちて、映像を突き破って、そこに存在することば--もし、思想をことばで語るとしたら、こういう具合になるのだなあ、こういう腹が減って動きたくないなあ、こんなことはいやだなあ、ということばこそが「反戦の思想」そのものとして生きるのだと思った。
変な映画だけれど、この映画を見ると、それまでに見たキャーブリックの映画のなかで見落としてきたものが、ふっと浮上してくる感じがして、まあ、見てよかったなあと思った。キューブリックのファンだから、そう思うのかもしれない。キューブリックのやっていることに興味がない人には、「紙芝居」に見えるかもしれないが。
(2013年11月24日、KBCシネマ2)
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