詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石毛拓郎「呂律抄」

2013-11-26 11:08:27 | 詩(雑誌・同人誌)
石毛拓郎「呂律抄」(「飛脚」5、2013年12月01日発行)

 石毛拓郎「呂律抄」は、ことばをうまく発音できなかったときのことを書いているようである。まあ、何を書いてあるかなんて、ほんとうはどうでもいい。「意味」なんて、どんなときでもつけくわえることができるから。

ためらう口腔をこじあけようとしている
ウェハーを、顎の天井に貼りつけている
目前で、もがく
小さきものの、古楽器に
遠く、生態系の奏でる鎮魂歌を
ほんの束の間
聴いて、下さいませんでしょうか

 私がおもしろいと思うのは、読点「、」がしきりに出てくること。この「、」は何? と問いかけるのは、「、」があるとないとでは「意味」はどう違う?
 「意味」なんか関係ない、と言っているのに、「意味」はどう違う?と問うことは矛盾しているけれど--矛盾を経由しないことには言えないこともあるのだ。
 「、」があろうとなかろうと「意味」はかわらない。
 でも、石毛は書かずにはいられなかった。
 なぜ?
 ただ書いているのではなく、読んでいる。声に出している。ことばを、声で動かしている。
 そして、それは……。あとだしじゃんけんのようになってしまうが、この詩には、「2001・3・24 kotoba/kikoe の失敗に、身を堅く曝すO君に捧ぐ。」というサブタイトルがついていたので、実は、石毛自身の朗読がうまくいかなかった体験ではなく他人の体験を描写しているのだが。
 そういう描写に「、」がしきりに紛れ込むのは、石毛が描写しているのは読点「、」そのものであり、「呼吸」そのものということになる。ことばがうまくでない。ろれつが回らない。それを「呼吸」として描写する。「、」をつかって描写する。
 そのとき「描写」というのは。
 「肉体」の再現である。
 石毛はことばを書いている。でも、実際にしているのは、「呼吸」をO君にあわせることで、それは実は石毛の肉体そのものをO君にしてしまうことである。「呼吸」をとおして、石毛は、ここではO君になってしまっている。
 だから、「口腔」とか「顎の天井」などという「肉体」そのものが出てくる。この「肉体」はふつうは外からは見えない。いいかえると、石毛は「肉体」の内部をのぞいているのだが、こういうことができるのは、それが「自分の肉体」だから。
 ここにも、石毛がO君になってしまっていることの証拠がある。

ことばにならぬ
吃音が、弾ける
唇のふるえや、舌の呂律をぬけだして
からだに宿る、ことばのひとがたを
造りだして、下さいませんでしょうか
むりやり、口筋を動かしてみせようとする
小さきものの、呂律が
ウェハーを、濡らす
ほら、顎天井が、いやいやしているでしょう

 ここに書かれているのが、呂律が回らなくなったときの、「肉体」そのものであること、言い換えると「ことばの意味」の復元ではないこと--と思うとき、

ことばのひとがた

 うーん、このことばが実におもしろい。
 ことばを声にしようとするひと「O君/石毛」という「肉体」とは別に「ことばの肉体」があって、それが「O君/石毛」からでたくないとだだをこねている。その結果、呂律が回らなくなっているという感じがしない?
 「人間の肉体」と「ことばの肉体(ひとがた)」が合致しないと、それは噴出することばにはならない。「肉体」そのものとして勝手気ままに動かない。「ことばの肉体」そのものが、どこかでつまずいているのだ。
 「意味」ではなくて、「肉体」が。
 「意味」(論理)が「いやいや」をしているのではなく、「ことばの肉体」が「いやいや」をする。「いやいや」をするのは--そういうことをするのは子供の肉体、ことば以前の肉体だけれど、ことばのなかの、「ことばにならない肉体」(ことばが生まれる前の状態)だけが「いやいや」をする。
 こういう「意味」になるまえの何かをつかみとってくる力業がいいなあ。
 「肉体」がみえることばというのは、いいなあ。

古楽器が、奏でる前に
ウェハーは、溶けてしまいませんか?
ことばのひとがたを、つくるまで
役立たずの、呂律をまわす
小さきものの、混沌に
目の孔を、あけておやり
口の孔を、あけておやり

 この場合、「孔」は「息(呼吸)」が出入りする通路だね。「ことばの肉体」には、まだ「孔」があいていない。だから「呼吸」が重ねられない。そのため、呂律がまわらなくなっている。つまずきのなかで溶ける「ウェハー」は、言ってしまえば「意味」の「比喩」ということになるかもしれないけれど、まあ、ほうっておこうね。面倒くさいこと(実はいちばん簡単な謎解き)なんかは。どんな答えでも出してしまうと、ことばが短絡的にそこへ行ってしまう。迷うことがなくなるから、つまらないね--というのは私の余分な「感覚の意見」。
 「孔」と「呼吸」を重ねたのは……。
 「ことばの肉体」に目をつけてやる、口をつけてやるという方が「意味」としてはわかりやすい。でも、そうすると、石毛が感じている「呼吸」がちょっと結びつきにくくなる。「孔」という余分なことばをそこにつけくわえると、何かが行き来する感じがすっと結びつく。
 こういうことは「論理」でも説明できるけれど、実際は、肉体が無意識に引き寄せる「まちがい」である。「まちがい」と書いたけれど、それは「無意識」が引き寄せるものだから、実は「絶対的な正解」ということでもある。「まちがい」は実は「まちがい」ではなく、必要不可欠な「余分なもの」と言い換えると「絶対的」と合致するかもしれない。「本能」はときに「まちがい」に見えるけれど、それは「合理主義」に照らし合わせるから「まちがい」に見えるだけであって、「余分」に見えるだけであって、ほんとうは「絶対的」に不可欠なものなのである。

 それは--と、私はだんだん面倒くさくなって、強引に飛躍してしまうけれど。
 それは、この詩の読点「、」に非常によく似ている。
 この詩のおびただしい読点「、」は省略しても、ことばの「意味」の上では何も変わらない。「、」が無意味に多すぎて読みにくいと感じるひとがいるかもしれない。たとえば、この「、」を翻訳しようとして、どうすればいいのだろうと悩むなんていうことがあるかもしれない。「意味」を流通させる上では「余分」を通り越して「邪魔」ということになるかもしれない。
 でも、それがなかったら、ここに「石毛の肉体」はあらわれない--というと言いすぎだけれど、「石毛の肉体」が見えにくくなる。「、」があるから、「石毛の肉体」が見える。

 私は「肉体」が見える詩が好きである。
 「肉体」が見えれば、そこに何が書いてあったかは気にならない。「意味」はどうでもいいと思う。

子がえしの鮫―よみもの詩集 (1981年)
石毛 拓郎
れんが書房新社
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西脇順三郎の一行(9)

2013-11-26 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(9)

 「紙芝居 Shylockiade 」

汝等行け、演劇は終つた。

 この一行は、私には、「我、酔うて眠らんと欲す、きみ、しばく去れ」(李白)を思い起こさせる。非情にさっぱりしている。興奮のあとは、たったひとりの「無」が必要である。
 この行のまわりはあまりにもにぎやかである。演劇的である。3行先には「汝等帰れ、演劇は再び始まつた。」とあるのだが--詩は、「終つた」ではつづかないのかもしれないけれど、「終わつた」で終われば、どんなにいいだろうと思う。この一行は「自己中心的」な美しい響きをもっている。
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