詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山村由紀『青の棕櫚』

2013-11-21 10:37:57 | 詩集
山村由紀『青の棕櫚』(港の人、2013年11月03日発行)

 山村由紀『青の棕櫚』は、にわかれているが、の方が私にはおもしろかった。いちばん印象に残ったのは「夏ねむり」。

真夏のひるさがり
物置をあけると
土鍋が暗がりに
ひとつ

ふたは重くぴたりと閉じて
ビニイル袋がかかっている
夏の土鍋のなかはからっぽ? いいえ
ふゆのくうきが入っています

土鍋は
ふゆ産まれるこどもを宿したははおやと同じ
夏はまるくうとうとしながら
くりかえし夢みるのです

ふゆになれば ふゆになれば と

 2連目は、かなり「理屈っぽい」。土鍋のなかに冬の空気が入っているなんて、非現実的。「頭」で作り上げた世界。--と思っていたら、3連目、4連目と動いていき、それが「理屈」ではなくなる。
 土鍋ではなく、自分の体験を書いている。それも女でないと体験できないことを書いている。そこに「肉体」が入ってくる。
 冬になれば活躍できる--とほんとうに土鍋が思うか、土鍋は人間ではないのだからそんなことを思うわけはないのだが、一方、冬になれば赤ちゃんが産まれる、冬になれば赤ちゃんがおなかから出てくると思う母の気持ちは「空想」ではない。また「考え」でもない。つまり「頭」で考えて、そう思うわけではない。「頭」を経由しないで、「肉体」そのものでそう思っている。そして、また祈っている。
 土鍋を書きながら、土鍋がテーマのはずなのに、「こどもを宿したははおや」は比喩であるはずなのに(……「と同じ」という語法をとおして比喩であることが明白なのに)、その比喩の方が主役の土鍋を突き破ってしまう。「ははおや」が主役になってしまっている。
 この、自然な変化がいいなあ。
 男が土鍋を書くと、どんな比喩をつかおうときっと最後まで土鍋が「主語」である。途中で、比喩が(別の存在が)、土鍋を叩き割って自己主張するということはないだろう。しかも、その主語の交代に「肉体」が関係してくるということはないだろう。
 冬にこどもを産んだことのある女性が、その実感(肉体がおぼえていること)が、無意識にここにあらわれている。「記憶」として思い出しているとをとおりこして、「記憶」が「いま/ここ」を生きている。冬に子供を産むということを実感として感じ、ことばを動かしている。「肉体」「論理」にぴったりとくっついている。そして、「論理」を「肉体」が突き破って動いているという感じだ。
 この「密着感」は、そして、2連目からはじまっている。

夏の土鍋のなかはからっぽ? いいえ

 質問(疑問)と答えが1行におさまっている。1行のなかでつづいている。「1字あき」はあるけれど、これは表記の問題。意識はつながっている。
 もし質問(疑問)と答えを明確に対比するなら、

夏の土鍋のなかはからっぽ? 
いいえ ふゆのくうきが入っています

 の方が対比が明確である。けれど山村はそうは書きたくないのだ。書けないのだ。おなかのなかにいるこどもを実感しているから、その実感が「からっぽ」ということばを即座に否定するのだ。
 否定して、それから少し時間をかけて(改行して)、ことばを考えはじめる。
 「ふゆ」を思い、頭で「ふゆのくうきが入っています」と言っておいて、また、考え直して(連をかえて)、頭で考えたことを「肉体」で乗り越えていく。
 この「呼吸」はいいなあ。美しいなあ。
 「銀木犀」も美しい。

うす曇り
月が灰色にかすんでいる
疲れた瞳
写真に収まる祖母の顔

銀木犀の香りを
夜が運んでくる
鳥は眠ると
木に溶ける

冷たい足先を
両手でさする
少しずつ
うしなわれてゆくものが
ある

十月
わたしは
窓際に迷い込んだ
小さな銀の花をまるく集め
音のない
おはじきをする

 死んだ祖母の思い出。死ぬと、足先から体温が失われていく。それを手で覚えている。手が覚えていることのひとつに、祖母と遊んだおはじきもあるのだろう。そういうことが静かに書かれている。
 2連目の後半「鳥は眠ると/木に溶ける」もとても印象に残る。「溶ける」は「溶けて一体になる」ということ。書かれていないが「一体になる」という感じが山村の「肉体」にはある。
 おはじきをするとき、山村は祖母と「一体になる」。

 で、そういう「一体感」から、先に引用した「夏ねむり」の最後の行にもどると、とてもおもしろいことがわかる。
 ははおやの実感からすれば、

ふゆになれば ふゆになれば こどもがうまれる

 ということだろう。いまは自分の「肉体の内部」に動いているいのち。「一体」のいのち。それが出産を契機に、「ひとつ」ではなく「ふたつ」の肉体になる。「一体」が「分離」する。
 おはじきをすることで山村と祖母が「一体」になったのに対し、出産すると山村とこどもが分離する。あれっ、山村の「一体感」はどこに?
 と、考えるのは--これは「頭」の運動。
 こどもを産んだははおやは、うまれきてたこどもを自分とは「分離」した肉体とは思いはしないのだ。土鍋の主語を母親の比喩が突き破って主語になってしまったように、こどもが産まれた瞬間から、こどもは母親を突き破って「主語」になる。母親は述語。母親は母親であることを捨てて(と書いてしまうと、ちょっと矛盾してしまうが)、産まれてきたこどもと「一体になる」。もう、産まれてきたこどものことしか考えられない。産まれてきたこどもを見ることで、いっそう「一体感」が強くなる。
 「夏ねむり」には、その瞬間のことを書いていないけれど、私は、それを強く感じてしまう。冬になれば生まれるはずのいのちが、まだ生まれていないはずのいのちが、ことばのなかではもう生まれてしまって、主語として母親を引っぱって行っている。
 これは、おもしろいなあ。美しいなあ。

青の棕櫚
山村由紀
港の人
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西脇順三郎の一行(4)

2013-11-21 00:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(4)


 「太陽」

カルモヂインの田舎は大理石の産地で

 私は「カルモヂイン」がどこにあるか知らない。知らないけれど「田舎」はわかる。田舎というのは、たぶんどの国へいってもおなじようなものだろう。日本の田舎がどこでも似ているように。「田舎」ということばが知らない国の、知らない地名を「肉体」に近づける。それはまた「田舎」ということばに何らかの「肉体」があるためだ。そこに暮らしている人の「肉体」とことばの「肉体」がひとつになっている。
 カルモ「ヂ」イン、「だ」いりせき、さん「ち」の「た(だ)行」。これに「田」舎という「田」がくわわるおかしさ。「カ」ルモヂイン、いな「か」の「か行」。あかるい「あ」の母音の響き。--それも楽しい。
西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店
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