詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田島安江『遠いサバンナ』

2013-11-06 09:38:20 | 詩集
田島安江『遠いサバンナ』(書肆侃侃房、2013年10月02日発行)

 田島安江『遠いサバンナ』には動物がたくさん出てくる。植物も出てくるし、ひとも出てくるのだが、動物が出てくるという印象が強い。動物の出てくる詩の方がいいということだろう。
 で、その動物の登場の仕方なのだが……。

朝目覚めると枕元にカメがいた
わたしをうかがうようにじっとみつめている
たしかに突然だったけれど
どういうわけか
わたしはその大きなカメがそこにいることに
なんの違和感も覚えなかった

 「突然だったけれど/どういうわけか」「違和感も覚えなかった」。これが、田島と動物の関係である。(あるいは、植物やひととの関係である。)
 ふつう、詩というのは違和感からはじまる。手術台の上のこうもり傘とミシンの出会い。その突然。「どういうわけか」わからない。その「わからなさ」が肉体を刺戟する。その刺戟が詩。
 だから、田島の詩は、現代詩の「原則」に反している、ということもできる。
 でも、いまのように現代詩があちこちにあふれかえっている状況(「わざと」が蔓延している状況)では、驚かないという方法こそが「異質なものの出会い」として詩なのかもしれない。
 でも、なぜ、違和感を覚えなかったのか。

あたふたと起きだし洋服を着て
洗面所の鏡の前に立つと
鏡の奥にちらっと
歩いていくカメの姿が見えたけれど
振りむいたときにはもう姿はなかった
いつもいっしょに暮らしている人のようだったから
ああすぐに帰ってくるのだなあと思った

 カメの描写と、それをみつめる「わたし」の描写--そこに、「暮らし」が重なる。「いつもいっしょに暮らしているひとのようだったから」ということばから、カメが「いっしょに暮らしている人」にするりとすり変わってしまうが、なぜそういうことが起きるかというと……。
 たぶん「わたし」が洗面所で身支度していると、その人は何も言わずに廊下を通りすぎていく--そういう「暮らし」と重なるからだ。カメと人が似ているのではなく、カメと人の行動(動き/動詞)が似ているのだ。1連目にもどると、目覚めた「わたしをうかがうようにじっとみつめている」(みつめられ、目覚める)という「動詞/動作」のなかに「暮らし」が重なるからだ。
 カメは姿・形の比喩ではなく、あえていうなら動詞の比喩なのだ。
 人の形ではなく人の動き、動物の形ではなく動物の動き、形ではなく動き(動詞)。それが重なるとき、人は「違和感」を覚えない。なぜかというと、その「動き」を人は自分の肉体で再現できるからだ。カメそのものにはなることができない。けれどカメのように首をもちあげてみたり、カメのようにまっすぐに目の前だけをみつめて歩いてみたりすることはできる。「肉体」は「動き」のなかで重なり合う。「ひとつ」になる。
 そのとき人は「違和感」よりも「共通項」をつかみとっている。「肉体」は何かと「ひとつ」になるために動くものなのである。
 田島のことばは、この「ひとつ」になる力が強い。
 手術台の上でのこうもり傘とミシンの出会いが現代詩の古典なら--そして、その古典を田島流にとらえ直すなら、田島の場合は「出会う」のあとに「合体」がある。「ひとつるなる」の「なる」がある。動詞が「ひとつ」になる。
 それは別なことばで言いなおすと、もの(手術台、こうもり傘、ミシン)の「出会い」が「瞬間」であるのに対し、動詞が「ひとつになる」は「持続」であると言えるかもしれない。田島は「出会い」の瞬間、そこに「持続--長い時間(線としての時間)」を見る。それを田島は「暮らし」と呼んでいるようだが……。
 で、「出会い」が「瞬間」ではなく、そこから「時間(過去/暮らし)」を覗き見ることだから、「動き」を重ねるということ(動きを肉体で真似るということ/真似ながら何かを吸収するということ)は、「連続した時間(時間の維持)」を見ることである。だからこそ、想像力は「時間」の方へ向かう。
 3連目。

夜のニュースでこの地球上に生息する
最後のゾウガメが死んだことを知った
ガラパゴスという
南の島にいたのだ
地球上でたった一人になったゾウガメ
「ロンサム・ジョー」という名前をもらって
最後までひとりで生きた

 「暮らし」のなかで、人は出会い、人は別れていく。人と出合っても「ひとり」ということはあるかもしれない。そうであるなら「ひとり」であっても、「出会い」はつづいているかもしれない。
 ロンサム・ジョーの場合はどうだったか。
 わからない。わからないけれど、わかる。言い換えると、ロンサム・ジョーが「ひとり」を感じていたとも、逆に常に「ふたり」を感じていたとも、人間は想像できる。そして、その「思い」のなかに自分を重ねていくことができる。
 「思い」が重なった瞬間、そこには「違和感」はない。「違和感」があるかどうかは自分自身で選びとることができる何かなのだ。言い換えると、「何に/どんなふうに」自分を重ねるか(想像力を動かすか)は、その人に任されている。
 田島は、自在に、時間をあやつり、何にでも「違和感」のない状況をつくりだす。「違和感」を取り除いて「肉体」にしてしまう、ということだろう。
 あ、すこし脱線した。(頭の中でことばが勝手に動いてしまった。)

 一度「時間(動詞)」が重なると、何が起きてもそれはつづいていく。

彼はもう
だれにも会えないとわかっていたにちがいない
あれからカメはあらわれなくなった
まっすぐわたしを見たカメの眼が
わたしのなかで消えない

 「わかる」とは「時間(動詞)」がつづいていくということ。つづくというのは「消えない」ということ。「目の前」からではなく、「肉体のなかから」消えない。それは「まっすぐ」につながっている。「肉体の奥底」につながっている。

 ほかの詩を読む場合でも、「まっすぐにつながる」(だから、違和感がないのだが)ということばを適当な場所に補って読むと、田島の「違和感」をときほぐして生きる肉体が見えてくるはずである。

詩集 遠いサバンナ
田島 安江
書肆侃侃房
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スティーブン・ソダーバーグ監督「恋するリベラーチェ」(★★★+★)

2013-11-06 00:00:06 | 映画
監督 スティーブン・ソダーバーグ 出演 マイケル・ダグラス、マット・デイモン

 うーん、みとれてしまうなあ。マイケル・ダグラスに。いや、私は、こういう「なりきり」演技というのはあまり好きではなくて、「これはどうせ演技だよ(あんたが見たいのは役ではなく役者だろう)」という感じの演技が好きなのだけれど。
 忘れてしまう。
 なんだ、これは。本物のリベラーチェか。リベラーチェというのはマイケル・ダグラスの「偽名」だったのか、思わずそう思ってしまう。信じてしまう。私はリベラーチェを見たことはないし、その存在も映画ではじめて知ったのだが。
 だから、というのは変な言い方なのだけれど。
 途中でリベラーチェが禿げだったというシーンが出てくる。そのときなんかは、あ、マイケル・ダグラスって禿なのか。カツラなのか、と現実と映画がごちゃまぜになってしまう。たるんだ腹も見せるので、それがもしかしたらつくりものかもしれないのに、マイケル・ダグラスは、こんな醜い体で「危険な情事」をやっていたのか、なんて思ってしまう。「危険な情事」のときは若かったということも忘れてしまう。現実と映画がごちゃまぜになる。映画のなかで、ほかの映画もごちゃまぜになる。
 全部、マイケル・ダグラスの「いま/ここ」にある肉体にからみついてくる。そして、すべての区別がつかなくなる。
 白眉はたるんだ顔の整形手術。皮膚を頭の方へひっぱりあげ、皺をとるのだけれど、その手術シーンが克明に描かれるので、そうか、マイケル・ダグラスは整形しているのかと思ってしまう。これは映画、物語。マイケル・ダグラスは演じているだけであって、というようなことは忘れてしまう。これはマイケル・ダグラスの実像なのだと思ってしまう。
 で、あれっ?
 これって、私が最初に書いたことと何か違っているね。私は「これはどうせ演技だよ(あんたが見たいのは役ではなく役者だろう)」という感じの演技が好きなはずなのに、ちらりと見えるはずのマイケル・ダグラスではなく、いつもは見ることのできないマイケル・ダグラスを覗き見したような気持ちで、変に興奮している。
 ステージでピアノを弾き、観客に語りかける。そのときの、一種、ファンを見おろしたような態度。楽しみたいんだろう、楽しませてやるよ、という感じ--それがマイケル・ダグラスそのもの「思想(肉体)」に見えてくる。マット・デイモンに指輪だの車だのスーツだのを買い与えるシーンなんかも、ちらりとしか描かれないのだけれど、とてもリアリティーがある。
 これは、危険な映画だなあ。
 これを見てマイケル・ダグラスを見たと思い込む私も危険だけれど、やっているマイケル・ダグラスはもっと変だし、危険だよなあ。こんなことやってしまうと、マイケル・ダグラスは金ぴか趣味のゲイそのものになっしてまう。ほかの役ができなくなりそう。あと2、3日したらマイケル・ダグラス死去、原因はエイズなんていうニュースが流れてくるんじゃないかと思う。
 マット・デイモンも太ったり、やせたり、大変だねえ。

 あ、映画は、「見せ物」に終始しているわけではなく、きちんと恋愛にまつわる人間の「愛憎」を克明に描いている。マット・デイモンが最初にマイケル・ダグラスの楽屋にあらわれたとき、昔の恋人がむしゃむしゃと食事をしているというシーンがあって、それがマイケル・ダグラスに新しい恋人ができたときマット・デイモンの姿で反復されるところなんか、とてもていねいなんだけれどね。「懸命さ」がひしひしと表現されているんだけれどねえ。
 でも、やっぱりマイケル・ダグラスにつきるなあ。錯覚するなあ。マイケル・ダグラスがリベラーチェだったんだ、と信じ込んでしまうなあ。
                        (2013年11月03日、中州大洋3)
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