詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粒来哲蔵『侮蔑の時代』

2014-09-06 11:38:27 | 詩集
粒来哲蔵『侮蔑の時代』(花神社、2014年08月10日発行)

 粒来哲蔵『侮蔑の時代』の扉に「青梅雨(つゆ)」という短い詩が載っている。そのまま「帯」にも使われているのだが、とても不思議な詩だ。

--死の総量ってどのくらい?と私は母に尋ねた。そうね、青梅の
種子の胚ほどよ、--と母は答えた。じゃその胚の重さは?とかさ
ねて問うと、母は少し間を置いてから、子猫の爪ほどよ--と笑っ
答えた。

 読んだ瞬間、ひきこまれる。
 この感覚はなんだろう。
 母に問いかけ、母が答える。この問答で、「死の総量」「重さ」がわかったのだろうか--というと、たぶん、わからない。ここからは、「死」そのものについてのどんな「答え」も出て来ない。つまり、言いなおすことができない。
 だから、こんなのはでたらめだ、ということもできる。
 しかし、そういう批判(?)をする気になれない。
 なぜだろう。
 「母」は「私」の知らないことを知っている。そのことだけが、なぜか、わかるからである。「死の総量」「死の重さ」というものを知っている。
 いや、母はそれ以上のことも知っている。いま答えたことばが「私」の中にのこること。「私」がそのことばを覚えて忘れないだろうということを知っている。母がいったのだから、それは「真実」であると信じ、「肉体」で覚えるということを知っている。
 「母」と「私(子ども)」の断絶と接続、「絆」があることを知っている。このことばによって、母と子どもは断絶する。「わからないこと」が二人のあいだにはある。そして、その「わからない」ことが二人を結びつける。
 揺るぎない「関係」を感じる。その「ゆるぎなさ」に引き込まれるのだと思う。

 この日は雨が降っていたのかもしれない。梅雨だったのかもしれない。雨の日、家の中から外を見ている。何もすることがない。子ども(私)は母に「死の総量」について尋ねる。「死の総量」ということばは、「私」が大きくなってから、死というものを「身近に」、実感として感じるようになってから思いついたことばであって、子どものときはそうは言わなかったかもしれない。覚えていることが、ととのえられて、言いなおされているのだと思うが、情景としては子どもと母が雨の日に外を見ながら話している光景が浮かんでくる。雨に、青い梅が濡れている。
 雨の日、外で遊べず、何もすることがないので、母の背中に隠れるようにして本なんかを読みながら、(と、私はなぜか勝手に想像するのだが)、本のなかで見つけた「死」にびくびくしながら、「死」についてお母さんは何を知っているだろうと思い、とんでもない質問をする。「死の総量」なんて、「意味」もわからずに。子どもは、いま、現実から遊離して、ふわふわしている。
 その「ふわふわ」が、子どもを産んだ母には「肉体」としてわかるのだろうか。母は、具体的なことばを口にする。ただし比喩なので、具体的であっても「意味」はあいまいだが。
 しかし、その母のことばのなんという不思議さ。
 「死の総量」は青梅と同じくらいとは言わずに、見えない「種子」の、さらに見えない「胚」を例に引いている。子どもの「私」に胚がわかったかどうか、よくわからない。きっと、これも「私」がおとなになってからわかったことだと思う。しかし、「種子の胚」がわからなくても、青梅のなかに種子があることくらいは子どももわかる。その種子のなかに、また別の何かが入っている--ということも、子どもはわかる。「事実」がわからなくても、「論理」はわかる。子どもにはそういう能力がある。青梅-種子-胚。そこにある連続性。遠心と中心。そのつながりのなかで、「私」は、大げさに言えば「母-子ども」の関係を知る。「母」のなかに「子ども」がいる。「子ども」を「母」がつつんでいる。そういう「論理(つながり)」も、わかる。
 これは、「死」というものを考えると、ちょっと奇妙な例といえるかもしれない。
 「母のなかにいる子ども」は「死」ではなく「いのち」あるいは「誕生」というものだからである。母の語った例は、「母-子」という関係のなかで見つめなおすと矛盾しているように見える。けれども、そうではなくて、「いのち」を引き継ぐのではなく「死」をこそ子どもが引き継ぐと考えると、これはこれで、とても正しいという感じがする。ふつう、母が死んで、そのあとで子どもが死ぬ。「いのち」が引き継がれるように「死」も引き継がれるのだ。
 そんなことを子どもが考えるか。考えはしない。けれど、そのときの「会話」は肉体のなかにしまい込まれ、子どもが大きくなって、死を実感するようになったときに、肉体の奥からあらわれてくる。明確な形になってくる。母からいのちを引き継いだのではなく、死ぬことを引き継いだのだ、とわかる。母の死は、子どもの死によって完成するのだ。子どもが生きている限り、母は記憶(覚えていること)として、生き続けている。
 こんなことは、繰り返しになるが、子どもにはわからない。「意味」としては、わからない。けれど、そこに何か「論理」がある、ないがしろにはできない「論理(意味のつながり)」があるということはわかる。母と子のつながりのように、それは目で見る限りは分離しているけれど、どこかで(目に見えないところで)つながっている。
 で、子どもは、ふたたび「胚の重さは?」と問うのだが、母にはもう言うことがない。「子猫の爪ほどよ」と笑って答える。その答えのなかに「子」が含まれている。母は「子」を意識している--そういうことだけがわかる。

 これは、不思議に、不思議に、美しい。不思議な光に満ちた詩である。

 母と子ども(粒来哲蔵本人、と私は考えている)が遠い昔に対話している。そのときわからなかったものが、いまの粒来にはわかるので、覚えていることのなかにいまのことばがまじる。いまのことばで昔がととのえられているのだが、その「ととのえる」仕事のなかには、同時に昔から学び直すということも含まれている。いまと昔が往復しながらことばをととのえている。
 それは、なんといえばいいのか、母と子の対話にも似ている。互いが互いの声を聞きながら、対話にふさわしいことばをととのえるようなものである。粒来は覚えていること(過去)と対話しながら、ことばをととのえている。
 そうやってととのえられたことばのなかに「死」が美しいものとして浮かんでくる。私はさっき「いのち」が引き継がれるように「死」が引き継がれると書いたが、「死」が浮かび上がると、逆に「死」が引き継がれるのではなく「いのち」が引き継がれたのだという気持ちになる。「死んで行くいのち」が引き継がれたといえばいいのか。
 人は生まれて死んでいく。その「死んで行く」ということが「生きる」とぴったり重なる。
 --そういう世界(哲学?)へと誘い込むことばが、この四行に結晶している。
 でも、こんなふうに簡単に言いきってはいけないなあ。つづきは、あした書こう。(書くつもり。)



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中井久夫訳カヴァフィスを読む(168)(未刊15)

2014-09-06 08:15:29 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(168)(未刊15)   2014年09月05日(土曜日)

 「ギリシャより帰郷する」にはギリシャ人ではない人々の「声」が書かれている。カヴァフィスにはほんとうに色々なひとの声が聞こえたのだ。

ヘルミッポスよ、もう近い。
船長も言ってた、まあ明後日だ。
すでに故郷の海よ。
わしらの国々の水域。キプロス、シリア、エジプト。
馴染みの水よ、愛する海よ、だ。

 「わしらの国々の水域」は、どこからはじまっているのだろう。岸が見えるときか。そうではない。「すでに」というのは故郷が近づいてきた、というより、もっと昔のことをさしているように思える。ギリシャを出港したとき、そのときから「すでに故郷の海」なのだろう。「故郷の海」をわたって「故郷」へ帰る。
 「馴染みの水」とはそれを知り尽くしているという意味だが、それはいつも夢で通い慣れている海だからだろう。「愛する海」も、こころのなかで愛しつづけてきた海のことである。

馴染みの水よ、愛する海よ、だ。

 この行の最後の「、だ。」は、「馴染みの水よ、愛する海よ」ということばが、何度も何度も繰り返されてきたことを語っている。ほら、いつも言っていた「馴染みの水よ、愛する海よ、--それだよ。」の「それだよ」ということばの短縮形が「、だ。」なのだ。念押しの「だ」。「だ」の直前の読点「、」が念押しを強調している。
 そこには共有された時間と行動がある。長い間、夢みつづけてきたのだ。この帰郷を。この海を渡ることを。
 この「長い時間」と、後半の、「外見を繕う」王様たちの次の部分の「時間」が交錯する。

ペルシャのお国ぶりが隠せないじゃないか。
隠そうとしてバカ殿どもが
使うその時間の長さ!

 王がそうなら、(バカ殿とあざわらってはいるが……)、市民もまた「これみよがしのギリシャふう」を装い生きていただろう。そのために「長い時間」をつかってきただろう。外見を取り繕ったその「長い時間」の内部で、その長さと同じだけ「帰郷」を夢みた。故郷の海を夢みた。そうやって夢みてきた海--それだ! そう叫ぶときの「、だ。」がこの詩に、口語そのままに書かれている。


リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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