詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤井晴美『おもちゃの映画』

2014-09-21 22:53:43 | 詩集
藤井晴美『おもちゃの映画』(七月堂、2014年07月10日発行)

 藤井晴美『おもちゃの映画』はタイトルからそう思ってしまうのかもしれないが、映画の一シーンを見るような感じがある。
 「S印刷所」という作品。

 門のある家だった。門柱を捜していた、S印刷所と、縦に墨書きされた看板があった。

 この書き出しは、とてもおもしろい。映画のカメラが街の中を動いていく。家が並んでいる。カメラは門柱を捜している。

門柱を捜していた、

 この読点「、」が門柱を追いかけるように動くカメラのる感じを強く印象づける。「この門柱も違う、これも違う、また違う」と探しながらいらだってくる感じが「、」の切断と持続の緊迫したつながりを伝える。

門柱を捜していた。

 と句点「。」で終わってしまうと、カメラが移動しながら門柱を写しているときのいらいらするような持続感がしなくなる。「持続」がなく「切断」した感じ。いくつもの門柱をずるずるずると舐めるように追っていく感じがしない。
 その後の、

S印刷所と、縦に墨書きされた看板があった。

 も、とてもおもしろい。「S印刷所」と文字を読む。探しているものを発見する。探しているものには「印」がついている。それを見つけて、そのあとの「縦書き」が特にいい。もし映画なら、このシーンだけで、私は飛び上がって手をたたきたくなる。「わっ」と声を出して、つぎに笑いだしただろう。うれしいと、私は笑ってしまうのだ。監督の狙い、カメラの狙いがリアルにつたわってくる。共感して「やったね、監督」と言いたくなる感じだな。
 視線はずるずるずるっと横に移動してきた。それが文字を見つけて、それを縦に上から下へと読む。視線は止まるだけではなく、水平から垂直へと方向を変える。
 実際のスクリーンでは門柱と看板が映し出され、アップになるだけかもしれないが、そうであっても接近するカメラを通して、カメラのかわりに観客が演技をする。視線が文字を追って、縦に動く。観客を誘い込むのだ。その縦書きを読んだ瞬間から、カメラと観客の視線は「ひとつ」になる。カメラが文字を追って上から下へと縦に動けば、カメラを追いかけながら、カメラの視線と観客の視線が、いっそう強烈に「ひとつ」になる。
 こういう一体感を「文字」で再現しているのは、とてもおもしろい。

中に入っていくと、最初、一軒の家かと思ったが、一つの町並みのように次から次に家が建て込んでいた。そのどれがS印刷所なのか判断がつきかねた。聞いてみた。
 夜になると、各々の家の窓に灯りがついた。そして、夜のカフェが石畳に開けた。

 どんな「迷路」が広がろうと、それはもう映画(カメラ)の迷路ではなく、観客の迷路である。観客はスクリーンを見ながら、自分の「迷路(肉体)」のなかへ帰っていく。カメラが「S印刷所」を探しているのか、観客(自分)が探しているのかわからなくなる。そして、ある場所を探してあるいたことが「肉体」のなかによみがえる。
 夜になって、家の窓に灯がつくと、それはますます見分けがつかなくなる。「S印刷所」は見つからずに、石畳が記憶されることになる。
 うーん、映画のファーストシーン、完璧なファーストシーンだと思う。

 「岩窟の聖母」も書き出しがすばらしい。

 枕元の敷布団の下に、財布を挟んで眠る母。長い間、入浴していない垢くさい、生暖かさが、冷え冷えとした、冷やご飯のような布団をめくるとひんやり散らばる。

 ここには、文学(ことば)と映画(影像)の、うっとりするような混沌がある。映画(カメラ)では「垢くさい」という「臭い(嗅覚)」、「生暖かさ」「冷え冷え」という皮膚感覚(触覚)は正確には表現できない。布団の薄汚れた感じ、水分を吸って膨らみを失い固くなった形(影像)で、嗅覚や触覚を刺戟するだけである。(影像に刺戟されて、つまり視覚に刺戟されて、肉体のなかで嗅覚や触覚が動きだす様に仕向けることしかできない。)
 これを藤井は、ことばで再現するのだが、いやあ、「垢くさい」か。映画、つまり影像(視覚)だと思いこんでいたので、びっくりした。打ちのめされた。引き込まれた。「生暖かい」と「冷え冷え」という矛盾したことが「垢くさい」のなかで一つになる。
 そこから、もう一度「視覚」へと動く。その部分が、映画だなあ。映画でしかありえないなあ。

冷やご飯のような布団をめくるとひんやり散らばる。

 正確に(論理的に?)読み解こうとすると、何が書いてあるのかわからないのだけれど、「冷やご飯」と「散らばる」が結びついて、なんとも暗くしめった感じが「視覚」として迫ってくる。
 これは映画のクライマックスに入る寸前の、なんといえばいいのか、それまでの影像のリズムを断ち切る一瞬の影像のようなものだ。

 「小津的日常の真相としての犯罪」の次の部分もおもしろい。

 節子の、顔を両手で覆って泣くしぐさ。昔はこんな風に泣いたのか。それにしても泣き顔がまったく見えない不自然さ。泣いているところを見せたくないシーンでもないのに。 笠が、次女の遺影の前で語りかけるようにつぶやく念仏のような声。何を言っているのか全くわからない。何か卑猥なことを言っているようにも思える。

 これはカメラの演技が中断しているところ。役者の演技も、まあ、半分中断している。(クリント・イーストウッドなら大絶賛するところだな。)観客は、ここでちょっと息をととのえる。ストーリーが動くのを待っている。ストーリーを動かすことだけを狙った、さらりとした部分。
 石川淳が参加している「歌仙」の石川淳の句のような部分だ。場全体をしっかりとととのえ、次のシーンに花をもたせる。
 そうか、映画のこういう部分は、こういう風に「感想」を書けばいいのか、と藤井から教えてもらっている感じ。
おもちゃの映画
藤井晴美
七月堂

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デビッド・リーン監督「旅情」(★★★★)

2014-09-21 01:27:31 | 映画
監督 デビッド・リーン 出演 キャサリン・ヘプバーン、ロッサノ・ブラッツィ


 キャサリン・ヘプバーンはうまい、というようなことはいまさら言っても感想にもなんにもならないだろうが、やっぱりうまい。恋愛とセックスを求めているのに、それをすなおに言い表すことができず、強引に自己主張してしまう。いやな女だ。だが、いやな女と思わせる前に、さびしいという感じを伝えてくる。「さびしい」にこころが動いて、「いやな女」と思っている暇がない。
 ただあまりに人間造形がくっきりしているために、映画というよりも舞台の演技を見ている感じになってしまう。そこにある「肉体」という感じ。
 これをデビッド・リーンがベネチアの空間に引き出すのだが、なかなかむずかしい。完璧な美(「ライアンの娘」の海岸、「アラビアのローレンス」の砂漠)と「さびしい」を向き合わせてしまっては、非情になってしまう。(と、私は思う。)
 でも、やっぱりすごい、デビッド・リーンはすごいなあ、と思うのは、くちなしのシーン。
 キャサリン・ヘプバーがくちなしを橋の上から運河に落としてしまう。くちなしが流れていく。ロッサノ・ブラッツィがそれを拾おうとする。それを水に映った二人の影像の中をくちなしが横切っていくという形で表現する。
 このとき、ふたりのこころのなかを一つのもの(一つのこと)が貫く。それは結局、手の中に取り戻すことはできないのだが、その取り戻すことのできないものが二人を横切り、二人をつなぐ--という象徴的なシーンが、とても美しい。
 この映画、ラストシーン、キャサリン・ヘプバーンが列車の窓から手をふるシーンがあまりにも有名だけれど、私は、運河のくちなしを拾おうとして拾えないシーンが好きだ。ほかのシーンは舞台でも見ることができるが、水に映った二人の肉体の中をくちなしが流れていくというのはカメラで見せることしかできない。映画でしか見ることができない。台詞はキャサリン・ヘプバーンが男の名前を呼ぶだけである。それも、とても映画的だ。影像がすべてであり、台詞(意味のあることば)は必要ない。

              (午前十時の映画祭、天神東宝2、2014年09月19日)

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(184)(未刊・補遺09)

2014-09-21 00:55:23 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(184)(未刊・補遺09)2014年09月21日(日曜日)

 「花束」は「サロメ」「カルデアのイメージ」に通い合うものをもっている。ことばに不機嫌な刺がある。

チョウセンアサガオ、ニガヨモギ、インゲン、
トリカブト、ドクゼリ、ドクニンジン--
すべて苦く毒を含めるを贈りて
その薬 そのおそろしき花もて
大き花束を作りて
かがやける祭壇に捧げん--
おそろしくもなつかしき情念を祭る
緑の毒石マラカイトの荘厳なる祭壇よ。

 毒が何度も出てくる。それは詩のなかにあることばのように「恐ろしい」ものである。しかしカヴァフィスは同時に「なつかしき」とも書いている。毒がなつかしい。単なる毒ではなく「情念」の毒がなつかしい。

おそろしくもなつかしき情念を祭る

 なぜおそろしいものが同時に「なつかしい」のか。
 この説明はむずかしい。たぶん、だれもが知っているがゆえにむずかしい。他人に対する怒り、怒りの暴走の果てに「殺したい」という思いがある。それはだれもが体験することなのかもしれない。
 カヴァフィスは、こういう「闇のこころ」(情念)をいちいち説明せず、ことばをぱっとほうりだす。わかる人がわかればいい、わかっている仲間うちに向けてことばを動かす。
 しかし人は「思い(情念)」は体験するが、実際には「殺す」というところまではゆかない。

 「情念」には「嘘」がない。「情念」は「純粋な主観」だ。「情念」は「ほんとう」だ。「ほんとう」だから、なつかしい。そして、その「情念」をそのまま「行動」に移しかえることは、ときに禁じられている。
 「禁止」はもしかしたら救いかもしれない。「禁止」がなかったら、殺してしまうだろう。そういう意味では「情念」は「毒」より恐ろしい。毒は動かない。けれど「情念」は動いていく。
 この不気味なものと祭壇との組み合わせがおもしろい。不気味なものによって祭壇は「かがやける」ものになるし、「荘厳」なものにもなる。何かを「禁止」することが「神」の仕事であり、その「禁止」の前で苦悩するのが人間の仕事なのかもしれない。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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作品社

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メール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせ下さい。
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