藤井晴美『おもちゃの映画』(七月堂、2014年07月10日発行)
藤井晴美『おもちゃの映画』はタイトルからそう思ってしまうのかもしれないが、映画の一シーンを見るような感じがある。
「S印刷所」という作品。
この書き出しは、とてもおもしろい。映画のカメラが街の中を動いていく。家が並んでいる。カメラは門柱を捜している。
この読点「、」が門柱を追いかけるように動くカメラのる感じを強く印象づける。「この門柱も違う、これも違う、また違う」と探しながらいらだってくる感じが「、」の切断と持続の緊迫したつながりを伝える。
と句点「。」で終わってしまうと、カメラが移動しながら門柱を写しているときのいらいらするような持続感がしなくなる。「持続」がなく「切断」した感じ。いくつもの門柱をずるずるずると舐めるように追っていく感じがしない。
その後の、
も、とてもおもしろい。「S印刷所」と文字を読む。探しているものを発見する。探しているものには「印」がついている。それを見つけて、そのあとの「縦書き」が特にいい。もし映画なら、このシーンだけで、私は飛び上がって手をたたきたくなる。「わっ」と声を出して、つぎに笑いだしただろう。うれしいと、私は笑ってしまうのだ。監督の狙い、カメラの狙いがリアルにつたわってくる。共感して「やったね、監督」と言いたくなる感じだな。
視線はずるずるずるっと横に移動してきた。それが文字を見つけて、それを縦に上から下へと読む。視線は止まるだけではなく、水平から垂直へと方向を変える。
実際のスクリーンでは門柱と看板が映し出され、アップになるだけかもしれないが、そうであっても接近するカメラを通して、カメラのかわりに観客が演技をする。視線が文字を追って、縦に動く。観客を誘い込むのだ。その縦書きを読んだ瞬間から、カメラと観客の視線は「ひとつ」になる。カメラが文字を追って上から下へと縦に動けば、カメラを追いかけながら、カメラの視線と観客の視線が、いっそう強烈に「ひとつ」になる。
こういう一体感を「文字」で再現しているのは、とてもおもしろい。
どんな「迷路」が広がろうと、それはもう映画(カメラ)の迷路ではなく、観客の迷路である。観客はスクリーンを見ながら、自分の「迷路(肉体)」のなかへ帰っていく。カメラが「S印刷所」を探しているのか、観客(自分)が探しているのかわからなくなる。そして、ある場所を探してあるいたことが「肉体」のなかによみがえる。
夜になって、家の窓に灯がつくと、それはますます見分けがつかなくなる。「S印刷所」は見つからずに、石畳が記憶されることになる。
うーん、映画のファーストシーン、完璧なファーストシーンだと思う。
「岩窟の聖母」も書き出しがすばらしい。
ここには、文学(ことば)と映画(影像)の、うっとりするような混沌がある。映画(カメラ)では「垢くさい」という「臭い(嗅覚)」、「生暖かさ」「冷え冷え」という皮膚感覚(触覚)は正確には表現できない。布団の薄汚れた感じ、水分を吸って膨らみを失い固くなった形(影像)で、嗅覚や触覚を刺戟するだけである。(影像に刺戟されて、つまり視覚に刺戟されて、肉体のなかで嗅覚や触覚が動きだす様に仕向けることしかできない。)
これを藤井は、ことばで再現するのだが、いやあ、「垢くさい」か。映画、つまり影像(視覚)だと思いこんでいたので、びっくりした。打ちのめされた。引き込まれた。「生暖かい」と「冷え冷え」という矛盾したことが「垢くさい」のなかで一つになる。
そこから、もう一度「視覚」へと動く。その部分が、映画だなあ。映画でしかありえないなあ。
正確に(論理的に?)読み解こうとすると、何が書いてあるのかわからないのだけれど、「冷やご飯」と「散らばる」が結びついて、なんとも暗くしめった感じが「視覚」として迫ってくる。
これは映画のクライマックスに入る寸前の、なんといえばいいのか、それまでの影像のリズムを断ち切る一瞬の影像のようなものだ。
「小津的日常の真相としての犯罪」の次の部分もおもしろい。
これはカメラの演技が中断しているところ。役者の演技も、まあ、半分中断している。(クリント・イーストウッドなら大絶賛するところだな。)観客は、ここでちょっと息をととのえる。ストーリーが動くのを待っている。ストーリーを動かすことだけを狙った、さらりとした部分。
石川淳が参加している「歌仙」の石川淳の句のような部分だ。場全体をしっかりとととのえ、次のシーンに花をもたせる。
そうか、映画のこういう部分は、こういう風に「感想」を書けばいいのか、と藤井から教えてもらっている感じ。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
藤井晴美『おもちゃの映画』はタイトルからそう思ってしまうのかもしれないが、映画の一シーンを見るような感じがある。
「S印刷所」という作品。
門のある家だった。門柱を捜していた、S印刷所と、縦に墨書きされた看板があった。
この書き出しは、とてもおもしろい。映画のカメラが街の中を動いていく。家が並んでいる。カメラは門柱を捜している。
門柱を捜していた、
この読点「、」が門柱を追いかけるように動くカメラのる感じを強く印象づける。「この門柱も違う、これも違う、また違う」と探しながらいらだってくる感じが「、」の切断と持続の緊迫したつながりを伝える。
門柱を捜していた。
と句点「。」で終わってしまうと、カメラが移動しながら門柱を写しているときのいらいらするような持続感がしなくなる。「持続」がなく「切断」した感じ。いくつもの門柱をずるずるずると舐めるように追っていく感じがしない。
その後の、
S印刷所と、縦に墨書きされた看板があった。
も、とてもおもしろい。「S印刷所」と文字を読む。探しているものを発見する。探しているものには「印」がついている。それを見つけて、そのあとの「縦書き」が特にいい。もし映画なら、このシーンだけで、私は飛び上がって手をたたきたくなる。「わっ」と声を出して、つぎに笑いだしただろう。うれしいと、私は笑ってしまうのだ。監督の狙い、カメラの狙いがリアルにつたわってくる。共感して「やったね、監督」と言いたくなる感じだな。
視線はずるずるずるっと横に移動してきた。それが文字を見つけて、それを縦に上から下へと読む。視線は止まるだけではなく、水平から垂直へと方向を変える。
実際のスクリーンでは門柱と看板が映し出され、アップになるだけかもしれないが、そうであっても接近するカメラを通して、カメラのかわりに観客が演技をする。視線が文字を追って、縦に動く。観客を誘い込むのだ。その縦書きを読んだ瞬間から、カメラと観客の視線は「ひとつ」になる。カメラが文字を追って上から下へと縦に動けば、カメラを追いかけながら、カメラの視線と観客の視線が、いっそう強烈に「ひとつ」になる。
こういう一体感を「文字」で再現しているのは、とてもおもしろい。
中に入っていくと、最初、一軒の家かと思ったが、一つの町並みのように次から次に家が建て込んでいた。そのどれがS印刷所なのか判断がつきかねた。聞いてみた。
夜になると、各々の家の窓に灯りがついた。そして、夜のカフェが石畳に開けた。
どんな「迷路」が広がろうと、それはもう映画(カメラ)の迷路ではなく、観客の迷路である。観客はスクリーンを見ながら、自分の「迷路(肉体)」のなかへ帰っていく。カメラが「S印刷所」を探しているのか、観客(自分)が探しているのかわからなくなる。そして、ある場所を探してあるいたことが「肉体」のなかによみがえる。
夜になって、家の窓に灯がつくと、それはますます見分けがつかなくなる。「S印刷所」は見つからずに、石畳が記憶されることになる。
うーん、映画のファーストシーン、完璧なファーストシーンだと思う。
「岩窟の聖母」も書き出しがすばらしい。
枕元の敷布団の下に、財布を挟んで眠る母。長い間、入浴していない垢くさい、生暖かさが、冷え冷えとした、冷やご飯のような布団をめくるとひんやり散らばる。
ここには、文学(ことば)と映画(影像)の、うっとりするような混沌がある。映画(カメラ)では「垢くさい」という「臭い(嗅覚)」、「生暖かさ」「冷え冷え」という皮膚感覚(触覚)は正確には表現できない。布団の薄汚れた感じ、水分を吸って膨らみを失い固くなった形(影像)で、嗅覚や触覚を刺戟するだけである。(影像に刺戟されて、つまり視覚に刺戟されて、肉体のなかで嗅覚や触覚が動きだす様に仕向けることしかできない。)
これを藤井は、ことばで再現するのだが、いやあ、「垢くさい」か。映画、つまり影像(視覚)だと思いこんでいたので、びっくりした。打ちのめされた。引き込まれた。「生暖かい」と「冷え冷え」という矛盾したことが「垢くさい」のなかで一つになる。
そこから、もう一度「視覚」へと動く。その部分が、映画だなあ。映画でしかありえないなあ。
冷やご飯のような布団をめくるとひんやり散らばる。
正確に(論理的に?)読み解こうとすると、何が書いてあるのかわからないのだけれど、「冷やご飯」と「散らばる」が結びついて、なんとも暗くしめった感じが「視覚」として迫ってくる。
これは映画のクライマックスに入る寸前の、なんといえばいいのか、それまでの影像のリズムを断ち切る一瞬の影像のようなものだ。
「小津的日常の真相としての犯罪」の次の部分もおもしろい。
節子の、顔を両手で覆って泣くしぐさ。昔はこんな風に泣いたのか。それにしても泣き顔がまったく見えない不自然さ。泣いているところを見せたくないシーンでもないのに。 笠が、次女の遺影の前で語りかけるようにつぶやく念仏のような声。何を言っているのか全くわからない。何か卑猥なことを言っているようにも思える。
これはカメラの演技が中断しているところ。役者の演技も、まあ、半分中断している。(クリント・イーストウッドなら大絶賛するところだな。)観客は、ここでちょっと息をととのえる。ストーリーが動くのを待っている。ストーリーを動かすことだけを狙った、さらりとした部分。
石川淳が参加している「歌仙」の石川淳の句のような部分だ。場全体をしっかりとととのえ、次のシーンに花をもたせる。
そうか、映画のこういう部分は、こういう風に「感想」を書けばいいのか、と藤井から教えてもらっている感じ。
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。