詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フィリップ・グレーニング監督「大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院」(★★★★★)

2014-09-10 23:12:45 | 映画
監督 フィリップ・グレーニング



 冒頭のシーンが、わからない。左下の方の白いものは布のような感じ。右下の方には、手かなあ。手を軽く握ったとき、手の甲の方から映すと、指がはじまる辺りの凹凸の感じがそれに似ている。でも、左上の穴(?)は何? 壁に開いている穴?
 このあと修道士が部屋の中で一人で祈っているシーンが映し出される。全身が映っている。膝を折って、手を組んで。指を組み合わせるというよりも、左手の握り拳を右手で包んでいる感じ--というのは、後から感じたこと。そう感じたのは、その修道士の全身像のあと、また最初のシーンがでてきたからだ。あ、あれは修道士の祈りのアップだったのだ。耳とマントのような服と手のアップだったのか。
 そうわかった瞬間から、この映画に引き込まれる。
 この映画では、ひとは、めったにしゃべらない。
 修道院の日々は、個室で祈り、ミサ(でいいのかどうか、私はキリスト教徒ではないのでわからないが)で祈るということの繰り返し。ミサのときは声を出すが、一人で祈るときは声を出さない。その一人の祈りのとき、修道士は何を聞いているのか。
 途中、字幕の形で何回も出てくる聖書のことばか。「すべてを捨てなさい。それが弟子になる条件だ」「神は私を誘惑した。私は、それに身を任せた」(というような、ことばだったが。)--耳の「穴」のアップは、その暗い闇の中へ入り込む入り口のように思えた。修道士の「肉体」のなかで、どんな「声」が響いているのか、それを聞いてほしいとファーストシーンは言っていると思った。
 ことばとしては、字幕の聖書のことばかもしれない。あるいは、修道士たちが読む聖書に書かれていることばかもしれない。彼らは一人の部屋でも読むし、図書館みたいなところでも教典(でいいのかな?)を読んでいる。あるいは、そこに書かれていることばを書き写している。そのとき、たしかに「ことば」は修道士の「肉体」のなかで明確に響いているのかもしれないが、私にはよくわからない。
 私が感じたのは、彼らの沈黙のおかげで、まわりに多くの音が生きているという現実である。修道院の鐘の音は、修道院だからあたりまえだが、そのほかにマントのようなものを作るために布を裁つ、そのときの鋏の音。それに先立つ布を広げる音。裁つために線を引く音。あるいは建物の内部を歩く足音。ドアを開け閉めする音。料理をつくる音。暮らしは音に満ちている。
 その音は修道士にとっては「雑音」だろうか、それとも「神の声」だろうか。私は、その音を聞いたが、彼らの耳はそれを聞いているのだろうか。これが、私にはわからない。ただ、沈黙が、その音を透明にしている。美しい音楽のようなものに変えていると感じる。(ジャック・タチの日常音を音楽につかう映画の手法に似ている--というか、ジャック・タチの音のつかい方がおもしろいと思っているために、そんなふうに感じるのか、はっきりしないのだが。)
 さらには自然の音、草木がゆれる音、雨の音も聞こえるが、これは「暮らしの音」に比べるととても小さく聞こえる。「暮らしの音」に人間を感じ、そこに何かを感じ取りたいと思っているために、私の耳にそう聞こえるだけで、ほかの人には「自然の音」もはっきりと聴こえているかもしれない。
 映画は、その沈黙のまわりに共存している「音」については何の説明もしない。
 あるいは、とてもかわった説明の仕方をしている。
 映画は修道士たちの沈黙と同時に、その日常の光と影(闇)を影像にして見せる。これが修道士たちの聞いている「音」のように、私には感じられた。
 影像には、いくつかの種類がある。ひとつは、冒頭のシーンのように、何が映し出されているかわからないくらいにアップのものが多い。その画質は荒れていて、見ていると目がちらつくことがある。図書館の小さな明かり(ろうそく?)、ストーブの火、雨が水面につくりだす同心円の輪。降ってくる雪のアップ。対象に接近し(クローズアップし)、その対象を突き抜けて、その向こう(彼岸)を見るという迫り方でもある。その「彼岸」から、「声」になろうとしているのに、まだ、どんな「声」になっていいのかわからずに苦しんでいる「音」がざわざわと動いているように思える。粗い影像の粒子が、「音」のはじまりのように「見える」。(聞く、と、見る、がどこかで混じりあう感じがする。)
 二つ目は、部屋に差し込んできた太陽の光がつくりだす色の変化。壁の色、ドアの色、床の色が、光のあたっている部分と影では違っている。同じものなのに光によって見え方が違う。その「違い」のなかに、私は沈黙の「和音」を聞いたように感じた。これは、とても美しい音楽だと感じた。音は聞こえないが、沈黙が響きあっていると感じた。
 三つ目は図書館のシーンが印象的だが、深い闇。その闇のなかで、修道士たちはスポットライトのような照明を利用して書物を読んでいる。まわりを真っ暗にして、ことばに集中している。集中するこころをまもる闇。ほんとうの沈黙という感じ。この沈黙と拮抗するようにして、光のなかでことばが動いている。その「声」を修道士たちは聞いている。私はキリスト教徒ではないので、その「声」を聞きとることはできないが、修道士たちが闇に守られて、闇によって「世間」から遮断されて、「聞いている」ということがわかる影像である。
 さらにもうひとつ。空を動く雲、星、光の影像。そこにも「音」があるはずなのだが、それは大きすぎて聞こえない。全身が包まれてしまって、包んでいるものが何かわからない感じ。この「わからない」がつくりだす「沈黙」。
 修道士たちは「見る」ことを「音」を聞いている。「見る」ことと「聞く」ことが、「肉体」の奥で融合して、世界となっている。そう感じさせる。
 しかし、これは映画が「見る」ことを主とする「芸術」だからかもしれない。「沈黙」と「沈黙と拮抗する声(肉体の中にある声/あるいは神の声)」を影像で表現するとこうなる、と監督は言っているのかもしれない。
 でも違うかもしれない。この映画には盲目の修道士が出てくる。彼は、私がいま書いたような「影像」は見えない。その彼にとって「沈黙」と「声」はどう向き合っているのか。答えを出さず、フィリップ・グレーニングは観客に、ただ問いかける。あなたなら、どんなふうにして修道士の聞いている「声」を表現するか。
 これは、むずかしい。私には、答えられない。そういう「答えのない」何かを、この映画は観客に見せる。そういうものが実際に存在するのだと、実在の修道院を映し出すことで私たちにつたえている。「わからないもの」も、世界には実際に存在するということをつたえている。
                      (KBCシネマ1、2014年09月10日)
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北川透『現代詩論集成1』(7)

2014-09-10 10:27:41 | 北川透『現代詩論集成1』
北川透『現代詩論集成1』(7)(思潮社、2014年09月05日発行)

 Ⅱ「荒地」論 戦後詩の生成と変容
 六 戦争責任論の位相 吉本隆明の出現

 北川透の「荒地」への接近の仕方、「体験」と「経験」のとらえ方には、「体験」というものが置き去りにされている--と感じたのだが。
 この「戦争責任論の位相」では、ちょっとおもしろいことが起きている。
 吉本隆明の「日本の現代詩史論をどうかくか」を取り上げているのだが、

吉本は「荒地」グループの出現の意義を、《「詩と詩論」の系統の詩意識が、日本の敗戦革命の挫折と政治経済情勢の混乱や疲へいを、感受し》、日本の近代詩史上はじめて、ほんとうの意味で思想をみちびきいれたところにみている。それが古典主義的な方法、倫理的な主題という特質にあらわれているというわけである。(略)ここで吉本の考えの特徴的なところは、戦争体験そのものに、「荒地」の出現の意味を見ていないことである。彼は、戦争や戦場の極限情況がうたわれる時、不思議にリアリティがあるのは、《それがほんとう、敗戦革命の挫折にゆがんだ戦後インテリゲンチャの意識を象徴的につたえ、そのうしろにある混乱し疲へいした敗戦日本の秩序意識を反映しているから》だというように考える。 ( 145ページ)

 ここで、吉本のことばを借りながら「体験」ということばが復活している。
 戦争「体験」そのものに「荒地」の出現の「意味」を見ていない。「荒地」の出現の「意味」は、戦後インテレゲンチャの「意識」を象徴的につたえる、--つまり、それは混乱・疲弊した敗戦後日本の「秩序意識」を浮き彫りにするからだ、ということなのだろうか。こんなふうに要約していいのかどうかわからないが、私なりに理解すると、こうなる。そしてこれは言い換えると、「戦争体験」ではなく「戦後体験」が詩を生み出しているということになるのだが(つまり戦後の情況を体験することで、それまで動かなかったことばが動きはじめたということになるのだが)、「戦後」というのは「戦争」を体験しないことにははじまらないのだから、簡単に「戦争体験そのものに、「荒地」の出現の意味を見ていない」と言っていいのかどうか、私にはわからない。
 私は「脱線」しているのかもしれない。ただ、思うのは、「戦争体験」よりも、その後の「意識」を重視するという読み方は、あまりにも、北川の「経験」重視の読み方、「体験」と「経験」を比較して、「意識」の方へ傾いていく読み方に思える。
 「思想」は「倫理的主題」と言い換えられ、さらに「思想」は「意味」、「意味」は意識」とも言い換えられているように、私には感じられる。その「意味」「意識」に「個人的(個別的)」という限定をつけると北川の言う「経験」になるのかもしれない。「思想」とは「個人的(個別的)」な 「経験」をあらわす言語運動、個人的・個別的な「意味/意識」ということかな?
 「敗戦革命の挫折」というようなことばを手がかりにすれば、「理念の挫折」を経て、それでもなお「倫理的」であろうとする意識、倫理的である意味というものが「思想」と呼ばれているものかもしれなのだが、北川は「思想」というものを、倫理や意味、意義のようなもの、人間の精神を導くもの、そのことばのように限定的にとらえているように思える。そういう「思想」化の動きを「経験」と呼んでいるようにも思える。
 うーん、これは吉本の論の紹介なのかなあ。吉本もそう考えているのかなあ。吉本を引用しているけれど、北川独自の考えかもしれないなあ、とも思ってしまう。

 「戦争体験そのものに、「荒地」の出現の意味を見ていない」というのは北川の考え方であって、その考えを補強するために吉本を引用しているように思えてしまう。
 「思想」のとらえ方は、私の考え方とはずいぶん違う。私は「理念化」されなくても「思想」はあると思っている。「思想」をもたない人間はいないと思っている。私と北川の考えている「思想」は違ったもののように思える。だから、私は北川の書いていることを百分の一も理解していないかもしれないが、それはそれで仕方がない(?)と思っているのだが……。
 北川もまた吉本の書いていることから少し逸脱していると思う。
 と、いうのも。
 吉本の「荒地」評価を引用、定義し直した上で、北川は吉本の文章をさらにいくつか引用し(「荒地」の運動としての役割は終わったという論を引用し)、次のように書く。

吉本によって、「荒地」の転換あるいは変容の意味はとらえつくされているものの、いま、わたしが読んで不十分に感じられるところは、その転換が<体験>という側面でのみとらえられていて、<荒地>の共同理念化という側面にはほとんど注意がはらわれていないことだろう。(146 ページ)

 先の文章では「荒地」の出現を戦争「体験」そのものに見ていないと吉本を評価(?)しておいて、ここでは「荒地」の転換を「体験」という側面でのみとらえていると書いている。何か「論理の整合性」がゆらいでいる。
 北川は「戦争体験」と「戦後体験」は違うということになるのかもしれないが、どうも北川の文章からは「体験」というものがわきにおいやられてしまう気がしてしようがない。「体験」よりも「体験の理念化/経験」、そこから生まれる「思想(倫理的意味、意義)」へとことばを動かしていこうとしているように思えてしようがない。 「理念化」(言語化)がいそがれすぎているように感じられる。

 しかし、おそらく実感を失いだしたのは、戦争や戦後の極限情況の体験ばかりではない。第一次大戦後のヨーロッパの戦後意識というフィルターを通して、培養された<荒地>の理念も実感を失いだしていたはずだ。そして、この擬似的な戦後意識の実感喪失は、彼らに、まさしく敗戦革命が完敗、戦後資本制がよみがえるに至る、戦後体験や生活意識の思想化という課題をもたらしたのだ。( 146ページ)

 よくわからない。「体験」の実感が失われるというのは、単に「だんだん忘れる」ということだと思うが、「理念」が実感を失うというのは「忘れる」ということとは違うと思う。「理念」が実感を失うのは「現実」と「理念」をかみ合わせようとしてもかみあわなくなることだと思う。でも、その「理念」というものが自分の生きている現場ではなく「第一次大戦後のヨーロッパの戦後意識というフィルターを通して、培養された」ものなら、それは最初からかみあうはずがないものだったのではないだろうか。
 「戦後体験や生活意識の思想化」ということばがあるが、「体験」を踏まえない限り「思想」というものは、絵空事の「理念」になってしまうのではないだろうか。その「理念」が「絵」のように鮮やかだとしても、それは瞬間的に鮮やかに見えただけのことにすぎないように思える。

 北川がここで書いていることは「理念」を追い求める(理念の整合性追い求める)ことに忙しくて「体験」を置き去りにしているように思えてしようがない。



 こうしたことと関係があるのかないのか……。
 『死の灰詩集』に対して鮎川信夫は次のように批判している。

政治的、社会的現象を背景にして、ある思想的な指導原理に基づき、民衆の感情をひとつの方向に導くというようなものは、僕はいついかなる場所にあっても好まない。(151 ページ)

 これに対して、北川は書く。

鮎川にとって集団的な背景をもっている観念は、理屈ぬきに嫌悪の対象なのである。これをわたしは、彼の個人主義と見るよりも、そこにこそ鮎川の戦争体験の気質的な核心があったと理解している。従って、彼は国家のためであろうと、人民のためであろうと、社会福祉のためであろうと、集団的な匿名の権威によって指導されたり、画一化されたり、篩にかけられることに耐えられない。その感情には発展性がないかも知れないが、なまじっかの附け焼刃の思想よりも強力に、本来的に個人的契機の上にしか存立しえない詩の擁護として働くのである。( 152ページ)

 ここに「体験」が出てくる。「鮎川の戦争体験の気質的な核心」。私は、これこそが「思想」ではないかと思っている。「体験」そのものが「気質」とからみあって、「感情」になっているもの。けっして「理念」化できないもの。それは「理念」を生み出すけれど、「理念」にはならない。常に「理念」に意義を唱えて、個人へと引き返していく力。「体験」そのものが「思想」だと思っている。
 あ、書き急いでしまったかな……。

 北川の文章を読むと、「理論(論理)」が先に進んでいって、「体験」がどこかに置き去りにされているような気がして、それが不安になる。


北川透 現代詩論集成1 鮎川信夫と「荒地」の世界
クリエーター情報なし
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(173)(未刊19)

2014-09-10 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(173)(未刊19)   2014年09月10日(水曜日)

 「シメオン」については中井久夫の注釈がある。シメオンはアンチオキア東方の荒地の柱上苦行者。だが、この詩はシメオンのことを書いているというよりも、別のことを書いている。

そう、あいつの新作の詩は知ってる。
ベイルート中騒いでるな。
そうのち読むよ、じっくりと。
今日は駄目だ。気が動転してるから。

 書き出しの「あいつ」はだれかはわからない。詩人であることはわかる。その詩が評判になっている。もしかするとシメオンについて書いているのかもしれない。けれどカヴァフィスはその詩を読む気になれない。なぜか。

メヴィスよ、わしはなあ、
(偶然だったよ)シメオンの円柱の下にいたんだぜ、昨日。

 そして、感動したのだ。「心は乱れて何も考えられなかった」というくらいに。つづけて書いている。

笑うなよ。考えてもみろ。三十五年ぞ。
三十五年間、夜も昼も、夏も冬もだ。
円柱の上に座って苦行だぜ。
きみも私も生まれておらん(私は二十九歳。
きみは私より若いよね)。
生まれる前からだぜ、想像できるか。

 カヴァフィスは、彼が「生まれる前から」存在し、いまもなお、その形を守っているものを大切にしている。それは何か。ギリシャ語である、と私は思う。苦行するシメオンよりも、その苦行(?)は長い。シメオンに触れて、その苦行(困難)を思い起こしたということだろう。
 これは別なことばで言いなおせば、カヴァフィスが詩を評価するときは、そのギリシャ語の響きによってのみである、ということになる。

ギリシャ語はむろんリバニウスよりもうまいさ。

 二連目に出てくる、この「ギリシャ語」ということばがカヴァフィスの立場を語っている。シメオンにならってギリシャ語の上で苦行している、と主張している。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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