監督 フィリップ・グレーニング

冒頭のシーンが、わからない。左下の方の白いものは布のような感じ。右下の方には、手かなあ。手を軽く握ったとき、手の甲の方から映すと、指がはじまる辺りの凹凸の感じがそれに似ている。でも、左上の穴(?)は何? 壁に開いている穴?
このあと修道士が部屋の中で一人で祈っているシーンが映し出される。全身が映っている。膝を折って、手を組んで。指を組み合わせるというよりも、左手の握り拳を右手で包んでいる感じ--というのは、後から感じたこと。そう感じたのは、その修道士の全身像のあと、また最初のシーンがでてきたからだ。あ、あれは修道士の祈りのアップだったのだ。耳とマントのような服と手のアップだったのか。
そうわかった瞬間から、この映画に引き込まれる。
この映画では、ひとは、めったにしゃべらない。
修道院の日々は、個室で祈り、ミサ(でいいのかどうか、私はキリスト教徒ではないのでわからないが)で祈るということの繰り返し。ミサのときは声を出すが、一人で祈るときは声を出さない。その一人の祈りのとき、修道士は何を聞いているのか。
途中、字幕の形で何回も出てくる聖書のことばか。「すべてを捨てなさい。それが弟子になる条件だ」「神は私を誘惑した。私は、それに身を任せた」(というような、ことばだったが。)--耳の「穴」のアップは、その暗い闇の中へ入り込む入り口のように思えた。修道士の「肉体」のなかで、どんな「声」が響いているのか、それを聞いてほしいとファーストシーンは言っていると思った。
ことばとしては、字幕の聖書のことばかもしれない。あるいは、修道士たちが読む聖書に書かれていることばかもしれない。彼らは一人の部屋でも読むし、図書館みたいなところでも教典(でいいのかな?)を読んでいる。あるいは、そこに書かれていることばを書き写している。そのとき、たしかに「ことば」は修道士の「肉体」のなかで明確に響いているのかもしれないが、私にはよくわからない。
私が感じたのは、彼らの沈黙のおかげで、まわりに多くの音が生きているという現実である。修道院の鐘の音は、修道院だからあたりまえだが、そのほかにマントのようなものを作るために布を裁つ、そのときの鋏の音。それに先立つ布を広げる音。裁つために線を引く音。あるいは建物の内部を歩く足音。ドアを開け閉めする音。料理をつくる音。暮らしは音に満ちている。
その音は修道士にとっては「雑音」だろうか、それとも「神の声」だろうか。私は、その音を聞いたが、彼らの耳はそれを聞いているのだろうか。これが、私にはわからない。ただ、沈黙が、その音を透明にしている。美しい音楽のようなものに変えていると感じる。(ジャック・タチの日常音を音楽につかう映画の手法に似ている--というか、ジャック・タチの音のつかい方がおもしろいと思っているために、そんなふうに感じるのか、はっきりしないのだが。)
さらには自然の音、草木がゆれる音、雨の音も聞こえるが、これは「暮らしの音」に比べるととても小さく聞こえる。「暮らしの音」に人間を感じ、そこに何かを感じ取りたいと思っているために、私の耳にそう聞こえるだけで、ほかの人には「自然の音」もはっきりと聴こえているかもしれない。
映画は、その沈黙のまわりに共存している「音」については何の説明もしない。
あるいは、とてもかわった説明の仕方をしている。
映画は修道士たちの沈黙と同時に、その日常の光と影(闇)を影像にして見せる。これが修道士たちの聞いている「音」のように、私には感じられた。
影像には、いくつかの種類がある。ひとつは、冒頭のシーンのように、何が映し出されているかわからないくらいにアップのものが多い。その画質は荒れていて、見ていると目がちらつくことがある。図書館の小さな明かり(ろうそく?)、ストーブの火、雨が水面につくりだす同心円の輪。降ってくる雪のアップ。対象に接近し(クローズアップし)、その対象を突き抜けて、その向こう(彼岸)を見るという迫り方でもある。その「彼岸」から、「声」になろうとしているのに、まだ、どんな「声」になっていいのかわからずに苦しんでいる「音」がざわざわと動いているように思える。粗い影像の粒子が、「音」のはじまりのように「見える」。(聞く、と、見る、がどこかで混じりあう感じがする。)
二つ目は、部屋に差し込んできた太陽の光がつくりだす色の変化。壁の色、ドアの色、床の色が、光のあたっている部分と影では違っている。同じものなのに光によって見え方が違う。その「違い」のなかに、私は沈黙の「和音」を聞いたように感じた。これは、とても美しい音楽だと感じた。音は聞こえないが、沈黙が響きあっていると感じた。
三つ目は図書館のシーンが印象的だが、深い闇。その闇のなかで、修道士たちはスポットライトのような照明を利用して書物を読んでいる。まわりを真っ暗にして、ことばに集中している。集中するこころをまもる闇。ほんとうの沈黙という感じ。この沈黙と拮抗するようにして、光のなかでことばが動いている。その「声」を修道士たちは聞いている。私はキリスト教徒ではないので、その「声」を聞きとることはできないが、修道士たちが闇に守られて、闇によって「世間」から遮断されて、「聞いている」ということがわかる影像である。
さらにもうひとつ。空を動く雲、星、光の影像。そこにも「音」があるはずなのだが、それは大きすぎて聞こえない。全身が包まれてしまって、包んでいるものが何かわからない感じ。この「わからない」がつくりだす「沈黙」。
修道士たちは「見る」ことを「音」を聞いている。「見る」ことと「聞く」ことが、「肉体」の奥で融合して、世界となっている。そう感じさせる。
しかし、これは映画が「見る」ことを主とする「芸術」だからかもしれない。「沈黙」と「沈黙と拮抗する声(肉体の中にある声/あるいは神の声)」を影像で表現するとこうなる、と監督は言っているのかもしれない。
でも違うかもしれない。この映画には盲目の修道士が出てくる。彼は、私がいま書いたような「影像」は見えない。その彼にとって「沈黙」と「声」はどう向き合っているのか。答えを出さず、フィリップ・グレーニングは観客に、ただ問いかける。あなたなら、どんなふうにして修道士の聞いている「声」を表現するか。
これは、むずかしい。私には、答えられない。そういう「答えのない」何かを、この映画は観客に見せる。そういうものが実際に存在するのだと、実在の修道院を映し出すことで私たちにつたえている。「わからないもの」も、世界には実際に存在するということをつたえている。
(KBCシネマ1、2014年09月10日)

冒頭のシーンが、わからない。左下の方の白いものは布のような感じ。右下の方には、手かなあ。手を軽く握ったとき、手の甲の方から映すと、指がはじまる辺りの凹凸の感じがそれに似ている。でも、左上の穴(?)は何? 壁に開いている穴?
このあと修道士が部屋の中で一人で祈っているシーンが映し出される。全身が映っている。膝を折って、手を組んで。指を組み合わせるというよりも、左手の握り拳を右手で包んでいる感じ--というのは、後から感じたこと。そう感じたのは、その修道士の全身像のあと、また最初のシーンがでてきたからだ。あ、あれは修道士の祈りのアップだったのだ。耳とマントのような服と手のアップだったのか。
そうわかった瞬間から、この映画に引き込まれる。
この映画では、ひとは、めったにしゃべらない。
修道院の日々は、個室で祈り、ミサ(でいいのかどうか、私はキリスト教徒ではないのでわからないが)で祈るということの繰り返し。ミサのときは声を出すが、一人で祈るときは声を出さない。その一人の祈りのとき、修道士は何を聞いているのか。
途中、字幕の形で何回も出てくる聖書のことばか。「すべてを捨てなさい。それが弟子になる条件だ」「神は私を誘惑した。私は、それに身を任せた」(というような、ことばだったが。)--耳の「穴」のアップは、その暗い闇の中へ入り込む入り口のように思えた。修道士の「肉体」のなかで、どんな「声」が響いているのか、それを聞いてほしいとファーストシーンは言っていると思った。
ことばとしては、字幕の聖書のことばかもしれない。あるいは、修道士たちが読む聖書に書かれていることばかもしれない。彼らは一人の部屋でも読むし、図書館みたいなところでも教典(でいいのかな?)を読んでいる。あるいは、そこに書かれていることばを書き写している。そのとき、たしかに「ことば」は修道士の「肉体」のなかで明確に響いているのかもしれないが、私にはよくわからない。
私が感じたのは、彼らの沈黙のおかげで、まわりに多くの音が生きているという現実である。修道院の鐘の音は、修道院だからあたりまえだが、そのほかにマントのようなものを作るために布を裁つ、そのときの鋏の音。それに先立つ布を広げる音。裁つために線を引く音。あるいは建物の内部を歩く足音。ドアを開け閉めする音。料理をつくる音。暮らしは音に満ちている。
その音は修道士にとっては「雑音」だろうか、それとも「神の声」だろうか。私は、その音を聞いたが、彼らの耳はそれを聞いているのだろうか。これが、私にはわからない。ただ、沈黙が、その音を透明にしている。美しい音楽のようなものに変えていると感じる。(ジャック・タチの日常音を音楽につかう映画の手法に似ている--というか、ジャック・タチの音のつかい方がおもしろいと思っているために、そんなふうに感じるのか、はっきりしないのだが。)
さらには自然の音、草木がゆれる音、雨の音も聞こえるが、これは「暮らしの音」に比べるととても小さく聞こえる。「暮らしの音」に人間を感じ、そこに何かを感じ取りたいと思っているために、私の耳にそう聞こえるだけで、ほかの人には「自然の音」もはっきりと聴こえているかもしれない。
映画は、その沈黙のまわりに共存している「音」については何の説明もしない。
あるいは、とてもかわった説明の仕方をしている。
映画は修道士たちの沈黙と同時に、その日常の光と影(闇)を影像にして見せる。これが修道士たちの聞いている「音」のように、私には感じられた。
影像には、いくつかの種類がある。ひとつは、冒頭のシーンのように、何が映し出されているかわからないくらいにアップのものが多い。その画質は荒れていて、見ていると目がちらつくことがある。図書館の小さな明かり(ろうそく?)、ストーブの火、雨が水面につくりだす同心円の輪。降ってくる雪のアップ。対象に接近し(クローズアップし)、その対象を突き抜けて、その向こう(彼岸)を見るという迫り方でもある。その「彼岸」から、「声」になろうとしているのに、まだ、どんな「声」になっていいのかわからずに苦しんでいる「音」がざわざわと動いているように思える。粗い影像の粒子が、「音」のはじまりのように「見える」。(聞く、と、見る、がどこかで混じりあう感じがする。)
二つ目は、部屋に差し込んできた太陽の光がつくりだす色の変化。壁の色、ドアの色、床の色が、光のあたっている部分と影では違っている。同じものなのに光によって見え方が違う。その「違い」のなかに、私は沈黙の「和音」を聞いたように感じた。これは、とても美しい音楽だと感じた。音は聞こえないが、沈黙が響きあっていると感じた。
三つ目は図書館のシーンが印象的だが、深い闇。その闇のなかで、修道士たちはスポットライトのような照明を利用して書物を読んでいる。まわりを真っ暗にして、ことばに集中している。集中するこころをまもる闇。ほんとうの沈黙という感じ。この沈黙と拮抗するようにして、光のなかでことばが動いている。その「声」を修道士たちは聞いている。私はキリスト教徒ではないので、その「声」を聞きとることはできないが、修道士たちが闇に守られて、闇によって「世間」から遮断されて、「聞いている」ということがわかる影像である。
さらにもうひとつ。空を動く雲、星、光の影像。そこにも「音」があるはずなのだが、それは大きすぎて聞こえない。全身が包まれてしまって、包んでいるものが何かわからない感じ。この「わからない」がつくりだす「沈黙」。
修道士たちは「見る」ことを「音」を聞いている。「見る」ことと「聞く」ことが、「肉体」の奥で融合して、世界となっている。そう感じさせる。
しかし、これは映画が「見る」ことを主とする「芸術」だからかもしれない。「沈黙」と「沈黙と拮抗する声(肉体の中にある声/あるいは神の声)」を影像で表現するとこうなる、と監督は言っているのかもしれない。
でも違うかもしれない。この映画には盲目の修道士が出てくる。彼は、私がいま書いたような「影像」は見えない。その彼にとって「沈黙」と「声」はどう向き合っているのか。答えを出さず、フィリップ・グレーニングは観客に、ただ問いかける。あなたなら、どんなふうにして修道士の聞いている「声」を表現するか。
これは、むずかしい。私には、答えられない。そういう「答えのない」何かを、この映画は観客に見せる。そういうものが実際に存在するのだと、実在の修道院を映し出すことで私たちにつたえている。「わからないもの」も、世界には実際に存在するということをつたえている。
(KBCシネマ1、2014年09月10日)