詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

タイフン・ピルセリムオウル監督「私は彼ではない」(★★)

2014-09-16 12:24:40 | 映画

 そっくりな人間を「瓜ふたつ」というが、この映画は、「そっくり」をめぐって物語がはじまる。しかし、おもしろいのは最初だけである。
 中年の男が朝起きて鏡をのぞく。自分の顔をしげしげと見つめたあと鏡を立ち去ると、当然、その鏡からも顔は消える。--そのあと、鏡のなかだけに顔があらわれる。この影像がこの映画のすべて。
 鏡のなかに自分の影像がある(あった)ことを知っているのは男だけである。鏡のなかの影像は「意識/記憶」を象徴している。記憶が、男自身を確かめる。そうすると世界はどうなるか。
 意識が現実の「反芻(反復)」だとすれば、その「反芻」から現実をみつめるとき、また反芻(反復)が起きる--か、どうかは知らないが、この映画監督はそう考えて、影像とストーリーを構成する。
 男は職場で女と出会う。女の夫は服役中である。男は夫の「代用」として生きることになる。映画では夫は男そっくりという想定だが、これは男の意識(鏡のなかの男)が男を夫そっくりに仕立てるのである。男はだんだん夫になる。そして夫になって、女に誘われて海に行くが、夫が女を殺そうとしたように、男は女を溺死させる。事故か殺人かわからないように映画は描いているが、意識にとっては「事実」など、どうでもいい。意識は(脳は)現実を自分のつごうのよいように解釈してしまう。書き換えてしまう。女の死は、女が「夫に溺死させられそうになったことがある」という台詞の反芻(反復)にすぎない。女が溺死するとしたら、そのとき男はどんな行動をとるだろうか。もし、夫が女を殺したとして、女が死んだあとどうするか。女を溺死にみせかけるだろう。そうしないと殺人でつかまってしまう。
 このあと、男は「夫」になって、逃亡する。逃亡先に女そっくりの女に出会う。海辺でのデートは、男が女の家を最初に尋ねたときの、「鏡像」になっている。家では男がスクリーンの左側、女が右側に座っている。海辺では女が左側、男が右側。家では女が右手を男の手の上に重ねる。海辺では男が右手を女の手の上に重ねる。これは、男の意識が女を反芻(反復)しはじめた証拠である。男は、もう男ではない。女になっている。女の側から世界が見つめなおされる。
 男は眠っているときに、刑務所から逃亡した夫と勘違いされ逮捕されるが、夫が逮捕され、夫から自由になるというのが女の夢(意識)である。夫の方は女が死んで、自分が自由になる夢を見ていた。
 そのあと、どうなるか。
 映画の最初のころのシーンが反芻される。男は仲間といっしょに売春をしていた。仲間は逃げ、男だけが警察につかまる。留置場で男は見知らぬ男に会う。その男は靴で鉄格子を叩いて刑務官に殴られるが、朝起きると靴を片方残して消えている。そのシーンが反復される。
 男はふたたび留置場に入れられる。そこに見知らぬ男がいる。その男も最初の男のように靴を脱いでいる。鉄格子を叩くのか。ラストシーンは鉄格子を叩く音でおわるが、これは主人公が鉄格子を叩いているのである。最初に見た男を反芻しているのである。抗議の鉄格子を叩く音が弱々しいが、これは「反芻」だからである。(もし男がほんとうに脱獄した犯人(夫)と間違えられたのなら、逮捕されたとき、他のだれかといっしょの留置所などに留置されるのではなく、もっと厳重な管理のもとにおかれるはずである。)
 こういう「意識」をテーマにした映画は、私は嫌いである。とてもつまらない。「意識」というのはどんなに違っているようであっても、だれの非常に似通っている。それこそ「瓜ふたつ」である。男が思うこと、女が考えることは大差ない。いっしょになりたい(セックスしたい)、殺してでもわかれたい……。
 この映画は、まあ、こういう映画をつくってしまう監督だからそうなるのだろうが、小道具に「意味」をばらまく。最初の「鏡(鏡像)」がそうだが、ほかに靴(スリッパ)が重要な役割を果たしている。主人公は女の家で夫のスリッパを履く。夫の車から夫の吐いていた靴を見つける。履いてみると自分にぴったり。これを巧くできた伏線と見るか、あざとい作為と見るか。私は、あざとい、と見る。ほんとうに「偽物」になりたいなら、ひとは「違い」乗り越えて動く。靴なんか合わなくても、あわせてしまう。ぶかぶかでも履いてしまう。あるいは、小さすぎるときは同じ形、色の靴を探し出して履くという具合に。そういう「ズレ」があってこそ人間は動く。座る位置の左右を入れ換えることだけというのは「意識」の動きであって肉体の動きではない。鏡に映せば、それだけで左右は違うのだから。
 (アジアフォーカス福岡国際映画祭、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ13、2014年09月15日)
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谷川俊太郎『二〇一四年 夏のポエメール』

2014-09-16 11:26:02 | 詩集
谷川俊太郎『二〇一四年 夏のポエメール』(ナナロク社、2014年08月25日発行)

 谷川俊太郎『二〇一四年 夏のポエメール』は『ごめんね』という詩集の他に、「絵日記+封筒」「絵はがき五枚」「旗(絵・和田誠)」「お面」「DVD」などが箱に入ったもの。

詩と詩的な素敵なものを、箱に入れて読者にプレゼントするという長年の夢が実現しました。値段がついているのが、玉にキズですが、買って下さってありがとう! 俊

 という「おたより」がついている。「おたより」は紙飛行機にできるように、裏側に折れ線が書いてある。
 うわーっ、うれしいな。
 でも、困ったなあ。紙飛行機にして折ったら、「おたより」を読むときに紙飛行機を伸ばさないといけない。折ったり伸ばしていたらぼろぼろにならない?
 絵はがきも、出してしまったら手元に残らない。絵日記も応募したら(何点か「谷川さんとの宴」で披露されるらしい)手元に残らない。
 セットの商品が、だんだん「欠陥商品」になってしまうよ。大事なものなのに、だんだんなくなってしまうよ。

 と、書いて気づく。

 そうか、詩というのは大事なものをだれかに届けること、プレゼントすることなのだ。大事なことば、大好きなものを、だれかに手渡すということが詩そのものなのだ。手渡したことば(もの)がその人にとどき、その人がまただれかに手渡す。そうしてだんだん広がっていく--そういうことが詩なのだ。書かれたことば、大好きなもの以上に。

 さて、絵はがき。だれに出そうか。絵日記に何を書こうか。紙飛行機、どこで飛ばして迷子にしようか。わくわく、どきどきするね。



 詩集の感想を書いておこう。(奥付には、昔懐かしい「検印紙」がはってある!)好きな詩が多くて困るが、タイトルになっている「ごめんね」。

ごめんねって言ったら
君が小さくうなずいてくれたので
もう一度ごめんねって言った
初めのごめんねは昨日の君に
あとのごめんねは今の君に

昨夜は一晩中夢の中で
僕は悪くないと思っていた
僕には僕の理由があるって
でも今朝目が覚めたら
もう夢は覚えていなかった

夢のフィルターに濾過されて
気持ちのゴミが流されて
純粋なごめんねだけが残っていた
手紙でも電話でもダメだと思って 朝
君の部屋まで四キロ走ってノックした

 いいなあ、この感じ。こんなふうにしたかったけれど、できなかったなあ。あのとき、こんなふうにすればよかったのにと思い出しながら、いいなあ、好きだなあ、この詩。そう思う。
 でも、私は詩を読むだけではなく、自分でも詩を書いているし、詩の感想も書いているので「いいなあ、いいなあ」と言ったあと、どこがよかったのだろうと考えたりもする。谷川さん、この詩は、谷川さんのいまを書いているわけじやないでしょ、と意地悪も言いたくなってくる。
 最初に読んだとき、ぱっと思い浮かんだのは思春期の少年のこころ。中学生のころを思い出した。好きな女子がいて、なにかの行き違いでけんかする。ひどいことも言ってしまう。「ごめんね」と言いたいけれど、言えずに我をはる。その少年が次の日、「ごめんね」と言いたくなって君を尋ねる。
 でも、「君の部屋」? 中学生の女子も「部屋」を持っているかもしれないけれど、それは「部屋」というより、家族といっしょに住んでいる家だね。中学生なら「君の家」を尋ねる。「部屋」じゃなくてね。
 そうだとしたら、私が「少年」と思ったのはだれ? 青年? 相手はアパートかどこかに住む若い女性? そうかもしれないなあ。
 「走って」というのは、どういうことかな?
 私は自分の「体験(記憶)」から言うと、中学生ならば「走って」は「自転車で走って」。自分の足でそのまま走って、とはならないなあ。
 もし青年なら? 走っては車かもしれない。手も車で走ってでは、四キロは微妙な距離だなあ。少年が自転車で走るような「緊張感」、どきどき感がない。
 そういうことを考えると、この詩は、何か変。

夢のフィルターに濾過されて
気持ちのゴミが流されて
純粋なごめんねだけが残っていた

 わかるけれど、こんな「比喩」をわざわざ考えたりしないね。真剣に「ごめんね」と言いたいときは。早く会いたい、早く「ごめんね」と言いたい気持ちだけがある。--この三行は、あのときのことを思い出して、ことばをととのえている。いまではなく「過去」を書いている。
 一連目の、

初めのごめんねは昨日の君に
あとのごめんねは今の君に

 こういう分析(?)も、実際に「ごめんね」と言っているときは思いつかない。あとで思い出していることである。ことばをととのえている。ことばは、そのときの「こころ」のまま動いているのではなく、ととのえられたことばが「こころ」を動かしている。
 2連目はまるごと、ととのえられたことばであって、こころは、ことばを置き去りにして走り出している。こころが走っていくので、肉体がそれを追いかけていく--そういう感じなのに、書かれていることばは、その順序が逆になっている。

 でも、これが詩なのだ。
 こころが動いて、何かして、それをことばで書きあらわしたとき、そのことばは詩なのだけれど、ことばはいつでも遅れてやってくる。何かしているときは肉体の方が夢中になって動いていて、ことばはまだ生まれていない。あとになって、まだ肉体が覚えていることをことばでととのえなおして、あのときのことを思い出す。思い出すためには、ことばはととのえなければならないのだ。人間の「頭」はとっても悪くて、ごちゃごちゃしたままでは何かを思い出せない。ととのえられたものでないと、ついていけない。こころは、何が起きているかわからなくても肉体を動かしてしまうけれどね。
 ととのえられたことば、ことばをととのえる工夫が詩である。
 「ポエメールの箱」に戻って言うと……。
 だれかに何かを届けるときは、形をととのえる。手紙を書くときは、文字をととのえる。形がととのっていようがいまいが、こころはこころなのだけれど、そしてととのえる暇のないときの方が生のこころなのかもしれないけれど、それをととのえる。ととのえるという行為のなかに、相手に対する「思いやり」のようなものがにじむ。
 私たちは、そういうものとも触れ合っている。ととのえることのなかに、何か、その人独自の人間性があらわれていて、それに触れる。ただ「裸のこころ」にだけ触れるのではなく、配慮というものにも触れる。成長に触れるのかもしれない。生なむき出しのこころから、それをととのえるまでに必要だった時間--その間の成長というものに触れるのかもしれない。

 不思議なことに、この配慮、工夫、ことばのととのえ方があってはじめて、私は、この詩の主人公を「中学生の少年」と思う。「初めのごめんねは昨日の君に/あとのごめんねは今の君に」という中学生の私には思いもつかない時間の感覚をとおって、あのときは「初め」と「あと」という区別もできなかったから「ごめんね」が言えなかったのかもしれないと思う。「初め」と「あと」が書かれているから、それよりも前の「ごめんね」ということばが生まれてくる前のところまで帰ることができる。
 谷川の詩はいつでもそうだが、そのことばが「生まれる前」まで私を運んで行ってくれる。そして、そこから私は「生まれ変わる」。
 新しく生まれる。
 私はこんな純粋な、そしてこんな正直な少年なんかではなかった。
 けれど、谷川の詩を読むと、私は純粋で正直な中学生の少年として、この詩の中で動くことができる。自分が経験してきたこと(経験したかったこと)なのに、いま、ここで経験しているみたいにこころがさわぐ。
 そこには青年時代のこともまぎれこむ。詩の中で、1連目、2連目、3連目と進むに従って、自分自身が成長している。(あ、「成長」ということば、「ととのえる」ということばについて考えたときもでてきたなあ。何かが、つながっている。)
 「ごめんね」と言いたかったあらゆることがまぎれこむ。「君」とけんかしたときのことだけではなく、ほかの人とけんかしたときのこともまぎれこむ。「ごめんね」と言えばよかったのに、言えなかったすべてのことが紛れ込む。
 つぎに「ごめんね」と言いたくなったら、こうしようと思う。
 「時間」を忘れてしまう。

 「時間」と「当時」が違う--そう文句を書きながら、その「違い」があるからこそ「当時」へ返っていくことができると気づく。
 詩は不思議だ。
 谷川の詩は、どこかに矛盾のようなもの(いま指摘した「中学生が思うはずのないこと」のようなもの)が書かれているけれど、それが「いま」の私を濾過する。余分なゴミを流し去り、気持ちの源流へと誘う。
 谷川の詩のなかで、私は新しく生まれ、新しく成長する。



谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

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購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
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伊東光晴『アベノミクス批判 四本の矢を折る』

2014-09-16 09:42:36 | その他(音楽、小説etc)
伊東光晴『アベノミクス批判 四本の矢を折る』(岩波書店、2014年07月30日発行)

 伊東光晴『アベノミクス批判 四本の矢を折る』はタイトル通りの本である。
 安倍の経済政策がどんなふうに間違っているかということを、数値やさまざまな分析(伊東以外の人の分析を含む)を整理して、とてもわかりやすく書いている。経済政策だけではなく、外交、さらには本人の「資質」そのものをも批判している。
 その文章のなかに、経済だけではなく、ことばの問題(人間の生き方の問題)がすばやく差し挟まれているところがあり、それが「知識(頭)」をととのえてくれると同時に、なにか、「肉体」になじむ。「そのとおり」と言いたくなる。私は伊東の文章が大好きだが、それは鋭い分析と同時に、人間の生き方を感じさせるものがあるからだ。
 たとえば、「労働政策」を批判した文章。「非正規雇用」について触れた部分。

 怒りをおぼえるのは、社会が多様化し”多様な生き方を求める”時代になったと言い、そのことが非正規に働く人がふえている原因だと言う厚生労働省の人がいることである。( 107ページ)

 ものの見方、社会のとらえ方はさまざまである。しかし、それは最初から「さまざま」ではない。どんな「言い方」をするかで「さまざま」が違ってくる。
 たとえば非正規雇用労働者がふえているのは、賃金を安く抑え経営負担を軽くするためであるという「言い方」ができる。一方、そういう経営者の狙いを隠して、逆に「会社に勤務時間をしばられて働くことよりも、時には残業をしなければならないというような仕事を嫌い、自分で労働する時間をフレキシブルに決定して自由時間を活用することを好む若者が増えているからだ」ということもできる。
 「言う」(ことばにすること)で、社会の見え方が違ってくる。
 こういうことを伊東は「厚生労働省の人」が「言っている(本文は「言う」)」と書くことで明確にしている。これはとても大事なことだ。ひとは、ことばによって、なにかを隠す。「意味」をつたえるとともに、なにかを隠す。
 それが問題だ。
 ここでは伊東は「怒りをおぼえるのは」と感情を率直に語っているが、この「怒り」が随所に見える。伊東は「怒り」ながら、「アベノミクス」が、その「美しいことば」で何を隠しているかを具体的に、つまり事実を指摘するだけではなく、同時に、「ことばの問題(どんなふうに嘘をついているか)」としても取り上げている。正しいことばの動き方とはどうあるべきか、という問題を取り上げている。
 昔のことばで言えば「道」の問題である。「どの道」を歩くか。どう歩くか。
 そこが重要である。
 先の「非正規雇用」についての文章の前には、次の文章もある。人が、何を、どう言うか(何を隠し、何を伝えるか)の具体例である。「道」の具体例である。

 ある地方の話である。経済団体の会合で、東京から招かれた経済同友会系の実業家が講演し、派遣社員を活用したことにより、不況での対応が可能になった等の話をし、別の経営者が、学校に申し込んで新卒者をとるのではなく、いったん派遣会社を通じて大学卒を雇うことの利点を述べたという。そこにいた公立大学の学長が、たまらず発言を求めた。こうしたことが、新卒者の地位を下げ、若年者の非正規雇用の比率を高めているのである。( 106ページ)

 実業家は「非正規雇用」を活用し人件費を抑えることができたと語り、別の経営者は「非正規雇用」を推進する方法を披露している。大学に求人情報を出すのではなく、派遣会社に求人情報を出す。「正規雇用」を最初から除外するのである。
 こういう「事実」(ことばの操作、情報の操作)を、大学の新卒者はどれだけ知っているだろうか。知らされているだろうか。
 情報はいつでも「公開」されると同時に「隠される(操作される)」ものなのだ。

 「ことば」とは「考え方(思想/生き方)」の問題でもある。「安倍政権が狙うもの」という章のなかでは、次のように書く。

 安倍内閣はグローバル時代に即した人材をつくるための教育振興を推し進めるという。国際化のための教育は英語の重視だけではない。何をどのように考える人間なのか、それが最も重要であり、領土教育で互いに口論し殴り合う若者をつくるのが国際化に即する教育であるはずがない。( 125ページ)

 「何をどのように考える人間なのか」。これは、そのままこの本(伊東)の姿勢でもある。安倍政策の何をどのように考えるか。それは「知識」ではない。ことばを動かし、確かめることである。「道」であり、「実践」である。
 --と、ここまで書いてきて、私は、なぜ伊東の文章が好きなのか、わかった。「どのように考えるか」ということがいつも明確に書かれているからだ。何をどのように実践するか、が明確に書かれている。実践は常に「肉体」によって具体化される。「肉体」が動くのが「実践」である。
 そして、この「どのように」に眼を向けるとき、伊東の「思想(肉体)」を特徴づけることばがあることにも気づく。「道」のつくり方を特徴づけることばがあることに気がつく。「思想」の根本を明確にすることばがあることに気づく。
 「領土問題」に触れた部分。

橋本内閣の池田外務大臣が(尖閣列島を)日本の領土であると言っても矛盾はないかもしれないと外務省は主張するだろう。しかし、中国側の主張を並べ二四年前の決着に言及しないのは、公平ではない。( 133ページ)

 「公平」。これが伊東の「思想」の中心にあると思う。経済に関しては、人が働き、金を稼ぎ、日々を暮らす。そのとき、富はどのように分配されるのが「公平」なのか。その「公平」のためには何をすればいいのか。何を「どのように」考えていけば、「公平」が実現されるのか。安倍のやろうとしていることは「公平」からどれだけ遠いことなのか--そういう指摘を伊東はしている。また外交については、他者の主張をどれだけ聞き入れ、自分の考えと共存させるか、共存のためにはどんなふうに考えをととのえるべきなのか--そういう問題を、歴史を踏まえながら(先人の「道」のつけ方を辿りながら語っている。
 伊東の文章には、私はいつも目を開かれるが、それは「公平」をめざす姿勢にゆるぎがないからだ。

 (私のきょうの「日記」は本の「内容(概要)」の紹介にはなっていないが、伊東のしている分析の紹介はすでに多くの人がしていると思うので、あえて書かなかった。伊東の何を私が信頼しているか、ということを書いてみた。)




アベノミクス批判――四本の矢を折る
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岩波書店

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(179)(未刊・補遺04)

2014-09-16 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(179)(未刊・補遺04)

 「永遠」は古代インドの叙事詩「バガヴァッド・ギーター」に題材をとっていると中井久夫は注釈に書いている。

インドのアルジュナは、人々の側に立つ優しい王、
殺戮を憎む王だった。一度も戦争を仕掛けなかった。
そこで、恐ろしい戦争神はご機嫌斜め。
(神の栄光は目減りし、神殿には人が寄らなくなった。)

 一行目と二行目は「事実」の描写になるのだろうか。そのあとの展開がおもしろい。「そこで、恐ろしい戦争神はご機嫌斜め。」はやはり「事実」の描写なのかもしれないが、「主観」を「ご機嫌斜め」という具合に「俗語」で語るのが愉快だ。「神」がとても人間臭くなる。「そこで」というつなぎことばもおもしろい。理由を受けるのだから、「それで」(戦争を仕掛けなかったので)ということばが自然なのだろうが、「それで」では「心情(心理)」になりすぎるかもしれない。「心理」をあたかも「事実」のように、外から描写しているのが、また「神話的」な感じで、さっぱりしている。
 四行目の「目減り」ということばもリアルな感じがする。経済活動、取り引きという感じだ。神と人間は「信仰」というより「取り引き」なのか。生々しく、俗っぽく、人間っぽい。神が神ではなく人間と対等になっている。
 だから、つづく五行目。

怒りにあふれて神はアルジュナの宮殿に足を踏み入れた。

 この「怒り」ということばがいきいきしてくる。まるで人間の反応である。そして、人間そっくりに、宮殿に「足を踏み入れた」。天から下りてくるというよりも、地上を歩いて、門を開ける、ドアを開ける感じがする。

王はおののいて神に言上。「大神さま、
お許し下さい。私には一人のいのちも奪えませぬ」
神は叱りつけた。「おまえはわしよりも正しいと思いおるのか。言葉に迷わされるな。
いのちなど奪わぬ。生まれた者がそもそもなく、
死ぬ者も全然おらぬ。わかったか」。

 「言葉に迷わされるな」とは「間違うな」という意味だろう。「迷って、違った言葉をいうな」。なぜなら、ことば(世界のあり方)は神がつくるものであって、人間が判断することではないということなのだろう。
 人間は何もしない。するのは神である。人間にすることがあるとすれば、神を理解すること。最後の「わかったか」は、その念押しだ。
 神の「主観」がいきいきと描写されている。

カヴァフィス全詩集
コンスタンディノス・ペトルゥ カヴァフィス
みすず書房

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社

「リッツォス詩選集」(中井久夫との共著、作品社)が手に入りにくい方はご連絡下さい。
4400円(税抜き、郵送料無料)でお届けします。
メール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせ下さい。
ご希望があれば、扉に私の署名(○○さま、という宛て名も)をします。
代金は本が到着後、銀行振込(メールでお知らせします)でお願いします。
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