そっくりな人間を「瓜ふたつ」というが、この映画は、「そっくり」をめぐって物語がはじまる。しかし、おもしろいのは最初だけである。
中年の男が朝起きて鏡をのぞく。自分の顔をしげしげと見つめたあと鏡を立ち去ると、当然、その鏡からも顔は消える。--そのあと、鏡のなかだけに顔があらわれる。この影像がこの映画のすべて。
鏡のなかに自分の影像がある(あった)ことを知っているのは男だけである。鏡のなかの影像は「意識/記憶」を象徴している。記憶が、男自身を確かめる。そうすると世界はどうなるか。
意識が現実の「反芻(反復)」だとすれば、その「反芻」から現実をみつめるとき、また反芻(反復)が起きる--か、どうかは知らないが、この映画監督はそう考えて、影像とストーリーを構成する。
男は職場で女と出会う。女の夫は服役中である。男は夫の「代用」として生きることになる。映画では夫は男そっくりという想定だが、これは男の意識(鏡のなかの男)が男を夫そっくりに仕立てるのである。男はだんだん夫になる。そして夫になって、女に誘われて海に行くが、夫が女を殺そうとしたように、男は女を溺死させる。事故か殺人かわからないように映画は描いているが、意識にとっては「事実」など、どうでもいい。意識は(脳は)現実を自分のつごうのよいように解釈してしまう。書き換えてしまう。女の死は、女が「夫に溺死させられそうになったことがある」という台詞の反芻(反復)にすぎない。女が溺死するとしたら、そのとき男はどんな行動をとるだろうか。もし、夫が女を殺したとして、女が死んだあとどうするか。女を溺死にみせかけるだろう。そうしないと殺人でつかまってしまう。
このあと、男は「夫」になって、逃亡する。逃亡先に女そっくりの女に出会う。海辺でのデートは、男が女の家を最初に尋ねたときの、「鏡像」になっている。家では男がスクリーンの左側、女が右側に座っている。海辺では女が左側、男が右側。家では女が右手を男の手の上に重ねる。海辺では男が右手を女の手の上に重ねる。これは、男の意識が女を反芻(反復)しはじめた証拠である。男は、もう男ではない。女になっている。女の側から世界が見つめなおされる。
男は眠っているときに、刑務所から逃亡した夫と勘違いされ逮捕されるが、夫が逮捕され、夫から自由になるというのが女の夢(意識)である。夫の方は女が死んで、自分が自由になる夢を見ていた。
そのあと、どうなるか。
映画の最初のころのシーンが反芻される。男は仲間といっしょに売春をしていた。仲間は逃げ、男だけが警察につかまる。留置場で男は見知らぬ男に会う。その男は靴で鉄格子を叩いて刑務官に殴られるが、朝起きると靴を片方残して消えている。そのシーンが反復される。
男はふたたび留置場に入れられる。そこに見知らぬ男がいる。その男も最初の男のように靴を脱いでいる。鉄格子を叩くのか。ラストシーンは鉄格子を叩く音でおわるが、これは主人公が鉄格子を叩いているのである。最初に見た男を反芻しているのである。抗議の鉄格子を叩く音が弱々しいが、これは「反芻」だからである。(もし男がほんとうに脱獄した犯人(夫)と間違えられたのなら、逮捕されたとき、他のだれかといっしょの留置所などに留置されるのではなく、もっと厳重な管理のもとにおかれるはずである。)
こういう「意識」をテーマにした映画は、私は嫌いである。とてもつまらない。「意識」というのはどんなに違っているようであっても、だれの非常に似通っている。それこそ「瓜ふたつ」である。男が思うこと、女が考えることは大差ない。いっしょになりたい(セックスしたい)、殺してでもわかれたい……。
この映画は、まあ、こういう映画をつくってしまう監督だからそうなるのだろうが、小道具に「意味」をばらまく。最初の「鏡(鏡像)」がそうだが、ほかに靴(スリッパ)が重要な役割を果たしている。主人公は女の家で夫のスリッパを履く。夫の車から夫の吐いていた靴を見つける。履いてみると自分にぴったり。これを巧くできた伏線と見るか、あざとい作為と見るか。私は、あざとい、と見る。ほんとうに「偽物」になりたいなら、ひとは「違い」乗り越えて動く。靴なんか合わなくても、あわせてしまう。ぶかぶかでも履いてしまう。あるいは、小さすぎるときは同じ形、色の靴を探し出して履くという具合に。そういう「ズレ」があってこそ人間は動く。座る位置の左右を入れ換えることだけというのは「意識」の動きであって肉体の動きではない。鏡に映せば、それだけで左右は違うのだから。
(アジアフォーカス福岡国際映画祭、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ13、2014年09月15日)