一方井亜稀『白日窓』(思潮社、2014年07月25日発行)
一方井亜稀『白日窓』の文体は、私の感覚ではなかなかつかみにくい。何かが見えそうで、何かが見えない。格子戸のすきまから世界を見ているような感じがする。でも、その見える/見えないが、なぜかおもしろい。
この「見える/見えない」はどこから来るのだろうか。
「失われた住居」の書き出し。
「のつなぎ目から」という1行の、切断と接続のちぐはぐさ(?)がおもしろい。一瞬の「空白」がある。「無呼吸」のような「間合い」がある。
一方井は、ことばをつなぎながら、その「つなぎ目」を意識している。
似た表現が「残花」にもある。
ここでは「の」が前の行と重複している。
しかし、それは「学校文法」だから「重複」なのであって、一方井の文法(一方井語文法)では、重複ではないのだろう。
末尾の「の」は何かと何かを結びつけるものではない。「ぬかるんでゆく土壌の」の「の」は「影は疾うに掻き消され」の「影」を結びつけて「土壌の影」という「名詞」になるわけではない。ことばは「ぬかるんでゆく土壌の」でいったん終わる。そこでひとつの「文」が終わる。そして、その文のもっているエネルギーが「影は疾うに掻き消され」という運動へと変化することを促している。それはエネルギー伝達の「接点」のようなものである。「接点」ががっちりかみあうと、前の行のエネルギーが次の行のなかを動くことでさらに強力になり、その次の行を突き動かす--そういう感じでことばが動いていっていると私には感じられる。
「通過するのを見逃す朝の」もそうやって動こうとした。
しかし、その1行のエネルギーの値が大きくなりすぎた。それがある値を超えると、ことばが暴走するというか、制御が乱れる。その瞬間に、それまでの「接点」だったものが、「切断点」にかわってしまうようなところがある。「接点」が「切断点」にかわるとき、それが「つなぎ目」として見えてくる。何のつなぎ目かというと、それまで書いてきた運動の、
「そのつなぎ目」から「そ」が取れてしまう。これは「そ」が先行することばのなかに飲み込まれているからである。
前へ前へと進んでいたことばが、瞬間的に、「切断」を受け入れて、「切断」を振り返る。振り返るけれど、逆戻りをするのではなく、そこからまた前へ、まだ存在しない行へと動いていく。
その「接続」。
ここでも「そ」は取れてしまう。いや、すでに先行する行に取られてしまって「そ」は存在しないのだが、その存在しないはずの「そ」は、これからあらわれる行(ことば)のなかへ見えないまま飛び移ってしまう。
「ある『そ』」と「ない『そ』」が、ほどかれていく、ほつれていく、というのはこういうことかなあと思って、私は読む。
一方井のことばの動きが、あれっ、これはどういうことかな、と思ったときは、
という行を補って読むと、とても気持ちよく読むことができる。あ、ここで切断と接続がおこなわれているのだ。それを一方井はわかっているので省略しているのだ。「のつなぎ目がほつれ(ほどかれ)」というのは、一方井の「肉体(思想/世界との向き合い方)」そのものなのだ。
そう「誤読」した上で言うのだが、一方井の「切断/接続」には、すこし物足りないところがある。そのとき「切断/接続」の近くにあらわれてくるものが、「はぐれた残像」(失われた住居)、「見逃す朝の」(残花)と「視覚」に重点がありすぎるように思える。
一方井のことばは「視覚」が強すぎるように思える。
こんなことは、好みの問題だから、どうすることもできないものなのだが、私はほかの感覚(聴覚や嗅覚、触覚)がからんでくると、もっと世界が豊かになるような感じがするので、余分なことながら書いてしまう。
で、少し脱線して、その「視覚」のことに関係するのだが、「after 」のなかの「いつかの暗殺シーンを映したブラウン管も」という表現が、私には非常に気になった。「ブラウン管」? いま、そんなものがあるの? ことばが「いまの生活」とは違うところからあらわれてきていないか。
ことばが、「過去」によりかかりすぎていないか。すでにあることばではなく、まだないことばを探すようにしたらいいのではないか、と思ってしまった。
「white hole」の「flow」の次の部分。
これではまるで無声映画(サイレントムービー)ではないか。
一方井は「字幕」の多い、サイレントムービーを「詩」として書いているような感じがするのである。
その際、「のつなぎ目」はカメラからカメラへの切り換えということになるが、そこにことばがどっとあふれてくるのは、ちょっとつらい。
あ、「感覚の意見」だらけの感想になってしまった。
ことばがもっと少なければ、もっともっとおもしろいのに、と言うのは私の「願望」であって、一方井が書きたいこととは関係がないかもしれないが。
一方井亜稀『白日窓』の文体は、私の感覚ではなかなかつかみにくい。何かが見えそうで、何かが見えない。格子戸のすきまから世界を見ているような感じがする。でも、その見える/見えないが、なぜかおもしろい。
この「見える/見えない」はどこから来るのだろうか。
「失われた住居」の書き出し。
部屋には名前がついていた
ありとあらゆるところから
藻が生えている
空き地にひとつの草は生え
修復されない窓から
入り込む無数の線
花を捉える光が風に揺れ
のつなぎ目から
ほつれた
維管束の
はぐれた残像の
記憶と
「のつなぎ目から」という1行の、切断と接続のちぐはぐさ(?)がおもしろい。一瞬の「空白」がある。「無呼吸」のような「間合い」がある。
一方井は、ことばをつなぎながら、その「つなぎ目」を意識している。
似た表現が「残花」にもある。
ぬかるんでゆく土壌の
影は疾うに掻き消され
指名されないものたちが
通過するのを見逃す朝の
のつなぎ目にほどけてゆく
ここでは「の」が前の行と重複している。
しかし、それは「学校文法」だから「重複」なのであって、一方井の文法(一方井語文法)では、重複ではないのだろう。
末尾の「の」は何かと何かを結びつけるものではない。「ぬかるんでゆく土壌の」の「の」は「影は疾うに掻き消され」の「影」を結びつけて「土壌の影」という「名詞」になるわけではない。ことばは「ぬかるんでゆく土壌の」でいったん終わる。そこでひとつの「文」が終わる。そして、その文のもっているエネルギーが「影は疾うに掻き消され」という運動へと変化することを促している。それはエネルギー伝達の「接点」のようなものである。「接点」ががっちりかみあうと、前の行のエネルギーが次の行のなかを動くことでさらに強力になり、その次の行を突き動かす--そういう感じでことばが動いていっていると私には感じられる。
「通過するのを見逃す朝の」もそうやって動こうとした。
しかし、その1行のエネルギーの値が大きくなりすぎた。それがある値を超えると、ことばが暴走するというか、制御が乱れる。その瞬間に、それまでの「接点」だったものが、「切断点」にかわってしまうようなところがある。「接点」が「切断点」にかわるとき、それが「つなぎ目」として見えてくる。何のつなぎ目かというと、それまで書いてきた運動の、
そのつなぎ目
「そのつなぎ目」から「そ」が取れてしまう。これは「そ」が先行することばのなかに飲み込まれているからである。
前へ前へと進んでいたことばが、瞬間的に、「切断」を受け入れて、「切断」を振り返る。振り返るけれど、逆戻りをするのではなく、そこからまた前へ、まだ存在しない行へと動いていく。
その「接続」。
ここでも「そ」は取れてしまう。いや、すでに先行する行に取られてしまって「そ」は存在しないのだが、その存在しないはずの「そ」は、これからあらわれる行(ことば)のなかへ見えないまま飛び移ってしまう。
「ある『そ』」と「ない『そ』」が、ほどかれていく、ほつれていく、というのはこういうことかなあと思って、私は読む。
一方井のことばの動きが、あれっ、これはどういうことかな、と思ったときは、
のつなぎ目がほつれ(ほどかれ)
という行を補って読むと、とても気持ちよく読むことができる。あ、ここで切断と接続がおこなわれているのだ。それを一方井はわかっているので省略しているのだ。「のつなぎ目がほつれ(ほどかれ)」というのは、一方井の「肉体(思想/世界との向き合い方)」そのものなのだ。
そう「誤読」した上で言うのだが、一方井の「切断/接続」には、すこし物足りないところがある。そのとき「切断/接続」の近くにあらわれてくるものが、「はぐれた残像」(失われた住居)、「見逃す朝の」(残花)と「視覚」に重点がありすぎるように思える。
一方井のことばは「視覚」が強すぎるように思える。
こんなことは、好みの問題だから、どうすることもできないものなのだが、私はほかの感覚(聴覚や嗅覚、触覚)がからんでくると、もっと世界が豊かになるような感じがするので、余分なことながら書いてしまう。
で、少し脱線して、その「視覚」のことに関係するのだが、「after 」のなかの「いつかの暗殺シーンを映したブラウン管も」という表現が、私には非常に気になった。「ブラウン管」? いま、そんなものがあるの? ことばが「いまの生活」とは違うところからあらわれてきていないか。
ことばが、「過去」によりかかりすぎていないか。すでにあることばではなく、まだないことばを探すようにしたらいいのではないか、と思ってしまった。
「white hole」の「flow」の次の部分。
まなざしだけが待望された。遺影である。その先に海があるということが筋書きの徹底的な根拠になった。そこに辿り着くために、穴を掘ることが黙認される。その際、穴を掘る手つきは静謐であることが求められたが、発掘なのか、埋葬なのかは厭わない。知らないまなざしへ身を晒すということが渇望される。
これではまるで無声映画(サイレントムービー)ではないか。
一方井は「字幕」の多い、サイレントムービーを「詩」として書いているような感じがするのである。
その際、「のつなぎ目」はカメラからカメラへの切り換えということになるが、そこにことばがどっとあふれてくるのは、ちょっとつらい。
あ、「感覚の意見」だらけの感想になってしまった。
ことばがもっと少なければ、もっともっとおもしろいのに、と言うのは私の「願望」であって、一方井が書きたいこととは関係がないかもしれないが。
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