詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

一方井亜稀『白日窓』

2014-09-02 09:34:06 | 詩集
一方井亜稀『白日窓』(思潮社、2014年07月25日発行)

 一方井亜稀『白日窓』の文体は、私の感覚ではなかなかつかみにくい。何かが見えそうで、何かが見えない。格子戸のすきまから世界を見ているような感じがする。でも、その見える/見えないが、なぜかおもしろい。
 この「見える/見えない」はどこから来るのだろうか。
 「失われた住居」の書き出し。

部屋には名前がついていた
ありとあらゆるところから
藻が生えている
空き地にひとつの草は生え
修復されない窓から
入り込む無数の線
花を捉える光が風に揺れ
のつなぎ目から
ほつれた
維管束の
はぐれた残像の
記憶と

 「のつなぎ目から」という1行の、切断と接続のちぐはぐさ(?)がおもしろい。一瞬の「空白」がある。「無呼吸」のような「間合い」がある。
 一方井は、ことばをつなぎながら、その「つなぎ目」を意識している。
 似た表現が「残花」にもある。

ぬかるんでゆく土壌の
影は疾うに掻き消され
指名されないものたちが
通過するのを見逃す朝の
のつなぎ目にほどけてゆく

 ここでは「の」が前の行と重複している。
 しかし、それは「学校文法」だから「重複」なのであって、一方井の文法(一方井語文法)では、重複ではないのだろう。
 末尾の「の」は何かと何かを結びつけるものではない。「ぬかるんでゆく土壌の」の「の」は「影は疾うに掻き消され」の「影」を結びつけて「土壌の影」という「名詞」になるわけではない。ことばは「ぬかるんでゆく土壌の」でいったん終わる。そこでひとつの「文」が終わる。そして、その文のもっているエネルギーが「影は疾うに掻き消され」という運動へと変化することを促している。それはエネルギー伝達の「接点」のようなものである。「接点」ががっちりかみあうと、前の行のエネルギーが次の行のなかを動くことでさらに強力になり、その次の行を突き動かす--そういう感じでことばが動いていっていると私には感じられる。
 「通過するのを見逃す朝の」もそうやって動こうとした。
 しかし、その1行のエネルギーの値が大きくなりすぎた。それがある値を超えると、ことばが暴走するというか、制御が乱れる。その瞬間に、それまでの「接点」だったものが、「切断点」にかわってしまうようなところがある。「接点」が「切断点」にかわるとき、それが「つなぎ目」として見えてくる。何のつなぎ目かというと、それまで書いてきた運動の、

そのつなぎ目

 「そのつなぎ目」から「そ」が取れてしまう。これは「そ」が先行することばのなかに飲み込まれているからである。
 前へ前へと進んでいたことばが、瞬間的に、「切断」を受け入れて、「切断」を振り返る。振り返るけれど、逆戻りをするのではなく、そこからまた前へ、まだ存在しない行へと動いていく。
 その「接続」。
 ここでも「そ」は取れてしまう。いや、すでに先行する行に取られてしまって「そ」は存在しないのだが、その存在しないはずの「そ」は、これからあらわれる行(ことば)のなかへ見えないまま飛び移ってしまう。
 「ある『そ』」と「ない『そ』」が、ほどかれていく、ほつれていく、というのはこういうことかなあと思って、私は読む。
 一方井のことばの動きが、あれっ、これはどういうことかな、と思ったときは、

のつなぎ目がほつれ(ほどかれ)

 という行を補って読むと、とても気持ちよく読むことができる。あ、ここで切断と接続がおこなわれているのだ。それを一方井はわかっているので省略しているのだ。「のつなぎ目がほつれ(ほどかれ)」というのは、一方井の「肉体(思想/世界との向き合い方)」そのものなのだ。

 そう「誤読」した上で言うのだが、一方井の「切断/接続」には、すこし物足りないところがある。そのとき「切断/接続」の近くにあらわれてくるものが、「はぐれた残像」(失われた住居)、「見逃す朝の」(残花)と「視覚」に重点がありすぎるように思える。
 一方井のことばは「視覚」が強すぎるように思える。
 こんなことは、好みの問題だから、どうすることもできないものなのだが、私はほかの感覚(聴覚や嗅覚、触覚)がからんでくると、もっと世界が豊かになるような感じがするので、余分なことながら書いてしまう。

 で、少し脱線して、その「視覚」のことに関係するのだが、「after 」のなかの「いつかの暗殺シーンを映したブラウン管も」という表現が、私には非常に気になった。「ブラウン管」? いま、そんなものがあるの? ことばが「いまの生活」とは違うところからあらわれてきていないか。
 ことばが、「過去」によりかかりすぎていないか。すでにあることばではなく、まだないことばを探すようにしたらいいのではないか、と思ってしまった。
 「white hole」の「flow」の次の部分。

まなざしだけが待望された。遺影である。その先に海があるということが筋書きの徹底的な根拠になった。そこに辿り着くために、穴を掘ることが黙認される。その際、穴を掘る手つきは静謐であることが求められたが、発掘なのか、埋葬なのかは厭わない。知らないまなざしへ身を晒すということが渇望される。

 これではまるで無声映画(サイレントムービー)ではないか。
 一方井は「字幕」の多い、サイレントムービーを「詩」として書いているような感じがするのである。
 その際、「のつなぎ目」はカメラからカメラへの切り換えということになるが、そこにことばがどっとあふれてくるのは、ちょっとつらい。
 あ、「感覚の意見」だらけの感想になってしまった。
 ことばがもっと少なければ、もっともっとおもしろいのに、と言うのは私の「願望」であって、一方井が書きたいこととは関係がないかもしれないが。

白日窓
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思潮社
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北川透『現代詩論集成1』(2)

2014-09-02 09:31:06 | 北川透『現代詩論集成1』
北川透『現代詩論集成1』(2)(思潮社、2014年09月05日発行)

一 政治的共同性を騙る者たち

 鮎川信夫と北川透が対談したときのことを書いている。「思想的な肉眼の成熟」(現代詩手帖、1980年04月号)。黒田三郎について語り合った部分がある。これに対して何人かのひとが北川(鮎川)批判をしている。それに答えているのが、この文章。
 
 上手宰が北川と鮎川を「屍肉に群がるハイエナの饗宴」と呼んだ。これに対して、北川は書いている。

鮎川信夫やわたしを薄汚い歯をむき出しにしたハイエナにしたら気持ちがいいだろうが、同時にそんな比喩を使ったら、黒田三郎を屍肉や腐肉にしてしまうことにこの男は気づきもしないのだ。彼は鮎川やわたしをはずかしめているだけでなく、黒田三郎をも汚しているのである。(67ページ)

 論理的だね。反論するとき(怒るとき)もなお論理を忘れないのが北川の文章の特徴かもしれない。
 たしかに北川と鮎川を「ハイエナ」という比喩で批判するとき、黒田三郎が「屍肉、腐肉」という比喩になってしまうというのは、おかしい。ほんとうに黒田三郎に対する尊敬の気持ちがあるなら、そういう比喩は生まれない。
 上手宰は、北川と鮎川を批判しようという気持ちが強すぎて、黒田に対する尊敬を忘れてしまったのだろう。
 おもしろいのは、北川のこのあとのことばの展開。
 怒っているとき、どんなに論理的(理性的)になろうとしても、怒りの方が論理を上回る。そうすると、どうなるか。論理が拡大され、ことばが暴走するというか、さらに先へと進んでゆく。(上手宰のことばも、そんなふうに読めないことはない。)
 北川の場合は、こんなふうである。

それにこの男は知らないらしいが、日本語では、たった二匹のハイエナに対して、《群がる》とか《饗宴》ということばは使わない。もし《群がる》とか《饗宴》ということばを使えば、詩人会議を含めて、黒田三郎について追悼文や発言を寄せたすべての人のイメージになってしまう。(67-68ページ)

 わっ、おもしろい、と私はうれしくなる。
 ここでも北川は「論理」を守り通す。「論理」を踏み外さない。「群がる」「饗宴」というのは複数(少なくとも、二人では足りない)の行為である。その「複数」を根拠にすると、「ハイエナ」は北川、鮎川以外のひとの比喩にもなる。
 これは、詭弁のたぐいかもしれない。
 でも、それがいい。
 上手宰は「日本語」の「意味」を間違えている、と指摘するだけではなく(「ハイエナ」の比喩は、上手宰が比喩のつかい方を間違えているのだが……)、その「間違ったつかい方」を拡大し、ことばの「射程」を広げることで、「間違い」をいっそう鮮明に指摘する。
 そうか、ことばというのは、そこに使われているときだけに限って「意味」を判断するのではなく、そのことばを、そのことばのベクトルにしたがって拡大して見せるとき、問題点がよりはっきりするのか。
 「論理」というのは、運動だから、その運動の延長線上をみなければならない。
 北川は、そう考えているのだと思う。
 そういう北川の「論理」の動きが見えるからおもしろい。
 この場合「ことばの意味(定義)」を厳密に押さえる、「群がる」「饗宴」は何人の人間に対して使うか、というような視点の置きかたは、北川が文献を取り上げるとき、その時代を特定する姿勢に通じる。それはどういう状況もとに生まれてきたことばなのか、それを明確にした上で、そのことばのもっている運動領域(可能性/射程)をさぐる。そして、論理を動かすこと(北川の想像力で、その論理を引き継ぐこと)で見えてくる運動領域(射程)で、問題になっていることばを評価する。

 北川の批評の姿勢の「根本」を見るような気がする。 

(この文章は、書いたものを間違えて削除したために書き直した。最初に書いたときのものよりも、どうしても「飛躍」が多くなっている。--言い訳にすぎないけれど、書いておく。)
北川透 現代詩論集成1 鮎川信夫と「荒地」の世界
北川透
思潮社

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(164)(未刊11)

2014-09-02 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(164)(未刊11)   2014年09月02日(火曜日)

 「人知れずこそ」は「不明瞭」な詩である。

現実の言動全部を集めても
かつての私の姿はうかがい知れぬ。
私の行動も生きかたもこれをゆがめる邪魔物があった。
ものを言おうとしかけたら邪魔物がよく口をふさいだ。
私のもっとも目だたぬ行動、
私のいっとうベールをかぶせた書き物、
--他に私をわかる手がかりはなかろう。

 「かつての私の姿」とはどんなものなのか、ここには書かれていない。何か言おうとしたら、何かが口をふさいだ。「邪魔物」とは「良識」かもしれない。「良識」に反することを「目だたぬ」ようにしてやってきた。しかし、「私」はことばを言わなかったが、ことばを書いた。「書き物」のなかに、「私」がベールをかけてきた(隠してきた)「私」がいる。
 男色とからめて読むと、男色とは知られないように行動してきた。しかし男色のことは詩のなかに書いてある。それが「私をわかる手がかり」になるだろう、ということか。
 しかし、ほんとうにベールがかけられているだろうか、カヴァフィスの詩には。そういうふうには思えない。むしろ、あからさま、むきだし、という感じがする。
 「口をふさぐ」と「書き物」の対比の方が私にはおもしろく感じられる。カヴァフィスは「声」に出して男色のことは言わない。「現実」のなかで、仲間ではない人間に対しては「声」をつかって男色のことは言わない。また、その世界でも「声」をつかってだれかを誘ったのではないかもしれない。「書き物」で、つまり「声」をつかわないことばで、自分の思いを伝えたのかもしれない。たとえば詩を書いて。
 そう思うと、カヴァフィスの「声(口調)」への執着、あるいは嗜好のようなもののきっかけが見えるような気がする。「声」に出したかった。でも出さなかった。そのかわり、「声」を聞きつづけた。「他人の声」のなかに「自分の声」を聞き、それを代弁させた。他人を(歴史を)書くふりをしながら、カヴァフィスは自分を語りつづけたと告白しているのかもしれない。

いや、私の真の姿など知る価値はない。
そんな関心努力にはおよばぬ。
後世、完全に近い社会に
私のそっくりさんが必ずあらわれて
自由奔放に行動する。

 その行動のなかで、カヴァフィスのことばはほんとうに解放される。カヴァフィスは自分のことばが、「他人」のなかで解放されて詩になることを知っていた。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社
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