詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透『現代詩論集成1』(3)

2014-09-03 08:54:00 | 北川透『現代詩論集成1』
北川透『現代詩論集成1』(3)(思潮社、2014年09月05日発行)

 Ⅱ「荒地」論 戦後詩の生成と変容
 二 「荒地」の文明批評的な性格をめぐって

 北川は「荒地」の理念化を「詩の文明批評論的主張」と定義している。(74ページ)。そのうえで鮎川信夫の「Xへの献辞」を取り上げ、書いている。

ここには、「荒地」の詩人たちの多くを戦場に拉致せしめ、また、同時代の親しい者たちを死に至らしめ、国土を荒廃せしめた、この日本とは何かというまなざしがみごとなほど欠けていたのである。(82ページ)

 ここに、私はいちばん衝撃を受けた。
 北川の書いていることとは直接関係がないのだけれど、「荒地」の詩人のことばを読んで私が感じたのはことばが「日本くさくない」ということだった。このとき私が「日本くさい」と感じていたのは、たとえば三好達治や島崎藤村などの詩人のことばのリズムのことである。そういうものからは遠い。翻訳っぽい。しかも、それは「理屈」っぽい、いいかえると「精神」っぽい。「知的」という言い方もできるかもしれない。--これは、私が「荒地」を読んだ20代の初めの頃の印象である。
 で、そのことと、北川の次の指摘が、私の中では不思議に交差する。

(レトリックのレベルの問題)それに限って見るなら、この<滅び><絶望><疲労><汚辱><黄昏><死の滴り><腸><黒い蝙蝠傘><死滅>というような語彙が、「荒地」の修辞的共同性を形づくっていたことは明らかだろう。それらに更に<屈辱><残酷><墓地><孤独><灰塵><飢餓><不眠><文明>というような語をつけ加えてもよい。それらの特色を一言でいえば、あの《破滅的要素に浸れ、それが唯一の道である》というスペンダーのことばの実感となろうか。(84ページ)

 詩は「意味」(理念)ではなく、まず、そこにあることばが呼び起こす何か、ことばの喚起力から生まれてくる。
 ひらがなではなく、リズムのよい(歯切れのよい)漢字が次々に呼び掛け合うようにしてイメージを広げていく。それに私はひかれた。そして、そのいままで見たことのない漢語の運動を知的・精神的と感じた。
 そのとき私は北川の書いている「意味」とは違うのだけれど、「この日本とは何か」ということをすっかり忘れていた。そんなことなど考えなかった。「この日本とは何か」ということを考えない部分で、私は「荒地」と「表層的」に出合っていた。
 そんなことを思い出した。
 このとき、私は、北川が指摘していることとはズレるのだけれど、「この日本とは何かというまなざし」(いま、ここ、あるいはいまここを支える過去をみつめること)を完全に忘れていた。
 言い換えると。
 「荒地」の詩人たちが欠く過激なことば、そのことばの組み合わせを私は知らなかった。また、こんな過激なことばが現実にひしめいている、とも知らなかった。びっくりしながら、私は、この過激なことばの奔流をみつめることが「現代」をみつめること、現代を考えること、瞬時に思い込んでしまった。
 私は「詩学」に投稿することから詩を書きはじめたのだが、最初に投稿した作品に、飯島耕一は「トンボもセミもいる詩だね」云々といった。私は実際にトンボもセミもいる田舎にいて詩を書いていたので、仰天してしまった。そうか、そういうものは「現代詩」ではなくて、「荒地」のように書かないと「現代詩」ではないのだな、と思った。
 自分のいる「暮らし」をみつめることを忘れ、過激な漢字熟語の向こう側に「現代詩」があると、単純に信じ込んだ。

 「荒地」の「文明批評」という視点は、そのころの私にはとうてい思いもつかない視点で、ただ過激なことばのかっこよさに魅了されていた。「いま/ここ」を忘れて、「荒地」のことば見て、それを模倣していた。模倣というより、盗作していた。そして、ますます「この日本とは何かというまなざし」(いま、ここをみつめること)を忘れてしまうのだが、そういうことを誘発することばの力が詩なのだな、といまでも思う。
 自分の生活(世界)を確認するというよりも、自分の知らない世界を、まず「ことば」で見てしまう--それが詩なのだと思う。そういうことを教えてくれたのが、私にとっての「荒地」だったなあ、と思う。

 私の書いていることは、「北川透の批評」に対する批評でもなんでもない。北川透の批評をどういうものであると分析する(意味を理解する)というものでもない。ただ、北川透を読みながら、ふと浮かんできたことを書いている。
 書きつづけている内に、何か「批評」めいたことに辿り着くかもしれないが、私は、それをめざしていない。ただ、読んで、何を思ったか、何を思い出したか、そういうことだけをだらだらと書いてみたいと思っている。
北川透 現代詩論集成1 鮎川信夫と「荒地」の世界
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谷川俊太郎の『こころ』を読む
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(165)(未刊12)

2014-09-03 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(165)(未刊12)   

 「愛の物語を聞けば」は、カヴァフィスが何よりもことばの世界を重視していたことがわかる。

きみよ、大いなる愛の物語を聞けば、すべからく審美家として感動せよ。
これだけは忘れるな、きみが気ままでずっと幸せだったのは、
きみの想像力がずいぶん創り出してくれたおかげなのだ。

 「愛の物語を聞けば」の「聞く」という動詞。「聞く」のは「他人の愛の物語」である。自分で体験するのではなく、間接的に体験する。ことばをとおして。
 このとき、カヴァフィスが「読む」ではなく「聞く」ということばをつかっているのは、詩人が「音(声)」こそがことばだと感じていた証拠になるだろう。「音(声)」は聞いた先から消えていく。それを消えないようにするには、自分の「肉体」で反復するしかない。耳と口をつかって、ことばを動かす。「声」に出す。実際に他人に聞こえるように言わなくても、自分に聞こえるように「肉体」のなかで「声」を出す。
 「肉体」のなかでひびく「声」。これは「想像力」と呼ばれるものかもしれない。自分の「肉体」のなかで、ことばが「声」になってひびく。他人には聞こえないが、自分には聞こえる「声」。それが「想像力」の出発点である。
 カヴァフィスは、その「無音の声=想像力の声」をいちばんすばらしいものだと言う。次のように。

何よりもまずこれだ。あとはきみも人生の中で
けっこう楽しんだ経験に過ぎぬよ。

 「愛の物語」を構成することば、その「想像力の声=無音の声」を自分の「肉体」で「無音」のまま反復し、そこにあるリズムとメロディー、ハーモニーに感動するとき、「きみ」自身の「経験」が花が開くように開く。
 そして、カヴァフィスは、ちょっと残酷(?)なことも言う。

それほど大したものではなくて手頃な現実、
きみの味わった愛とさほど変わらぬ愛だよ。

 「物語」のなかの「愛」と、「きみ」が知っている「愛」とさほどかわらない。これは「大いなる愛の物語」にとっては残酷極まりないことばだが……。
 逆に言えば、「きみ」の「愛」も、ことば次第で「大いなる愛の物語」なるということでもある。ことばが「手頃な現実」をたった一つの全体的な「現実」、つまり詩に変える。そして、それを詩に変えるためには「審美眼」が必要である。審美家になって、ことばの細部をしっかりみつめる。強いことばで「愛」を語るとき、それは「大いなる」ものとして誕生する。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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野村喜和夫「詩論のエートス、詩学のパトス」ほか

2014-09-03 01:19:54 | 詩(雑誌・同人誌)
野村喜和夫「詩論のエートス、詩学のパトス」ほか(「現代詩手帖」2014年09月号)

 野村喜和夫「詩論のエートス、詩学のパトス」は谷川俊太郎をめぐる五冊の本を対象として書かれた文章である。そこに、私の『谷川俊太郎の『こころ』を読む』も含まれているのだが、私は野村の文章の書き出しに驚いてしまった。

 詩論と詩学と、詩をめぐる言説にはこのふたつの区域がややあるように思う。

 これに似たことは、神山睦美が阿部嘉昭の『換喩詩学』について触れた「希望もなく死んだ人々に宛てられた希望の手紙とは何か」のなかにも書かれている。

詩の批評が詩学とか詩論といったものを内にはらんでいなければ成立しない

 えっ、そうなのか。
 私は、こういう考えがあることをまったく知らなかった。なぜ詩の批評はあんなにややこしいことばかり書いてあるのか、長い間疑問だったが、そうか「詩学」「詩論」をめざしていたのか。
 あ、でも「詩学」「詩論」って何?
 野村はていねいに書いてくれているのだが、私は覚えていない。つまり、身につかなかった。私の考えていることとあまりにかけ離れているので、読む先から忘れてしまった。覚えているのは「詩学」「詩論」のふたつがあるということだけだ。

 野村の文章で印象深かったのは四元康祐『谷川俊太郎学』について書かれた部分である。

井筒俊彦の言語哲学を援用しつつ、谷川俊太郎の詩の行為の核心を、「本来分節化が不可能なはずの絶対無文節(無分節?--谷内注)--それは同時に言語の母胎でもあるのだが--を言語化する」試みと捉えるあたりは、田原とともに、この国民詩人をはじめて世界文学的視野へと解き放つ意味深いページであるといえよう。

 むむむむ。井筒俊彦の言語哲学を援用しない形で「この国民詩人をはじめて世界文学的視野へと解き放つ」ことはできないのかなあ。谷川は「未生」ということばをよくつかっているけれど、その「未生」と「分節化以前」とは、どう違うのかなあ。
 どうも、よくわからない。
 谷川以外のだれそれの哲学を援用して語ることが「学」というものなのかな? 常にだれそれの哲学と比較しないことには「学」は成り立たないのかな?
 また井筒俊彦を援用することで谷川俊太郎のことばを「世界文学的視野へと解き放つ」というのは変じゃないかなあ。
 逆は、どうなんだろう、と私はすぐに思ってしまう。
 つまり、谷川の詩を援用して井筒俊彦の「言語哲学」を解説し、井筒の考えたことを発展させたときは、いったいどうなるのかな。谷川が井筒哲学を「世界的哲学視野へと解き放つ」ことになる? それとも井筒哲学を「日本的哲学視野へと解き放つ」? あるいは「日本的哲学視野へと収斂させる」?
 私はむしろ、近所のスーパーで話しているひとの会話、バスの中で話している女子中学生の会話を援用して谷川のことばの魅力に迫った方が、はるかに「哲学的」だと思うなあ。そしてはるかに「世界的視野」だと思うなあ。どこの外国の街のスーパーへ行っても、買い物をしている顔見知りは同じように話している。どこの外国の街の電車やバスにのっても人は同じように自分に密着したこと(思想)を話している。

 野村は私の文章を「低空飛行」と呼んでくれている。
 これは、うれしかったなあ。私は「高空飛行(?)」というようなものを考えたことはない。ただ歩きたい。だから「低空飛行」というのも、まだ飛んでいることになるのだから、反省しないといけないのだが。
 私はただ歩いて、深い溝に出合ったら、思い切って飛び越すか、あるいは時間がかかっても遠回りするかだな。近くに板があれば橋を造るかもしれないけれど、最初に渡るのは飛び越すよりも怖いな、きっと。



 神山睦美の書いていることにも、私は疑問をもった部分がある。(部分だけ取り上げるのは「論理」のねじまげになってしまうかな?)

「共苦(コンパッション)」や「利他行為」への感染ということが問題となるのは、思想が意味よりも価値を、欠くことのできないものとするからなのである。

「共苦(コンパッション)」や「利他行為」ということが、思想と表現にとって最重要課題となるのである。

 「思想」を神山がどう定義しているのかよくわからないが、私の考えでは「思想」というのは「みんなが幸せになれたらいいのになあ」という願い以上のものはない。そしてその「幸せ」というのは、苦しまずに手に入るものだったら、とってもうれしい。私はずぼらだから、そう考えてしまう。「共苦」がどういうことかわからないが、「苦」という文字を見ただけで近づきたくない感じがする。--いやな思想だと思う。
 「共楽」ならいいのになあ。
 私の見方では二十世紀最大の「思想家」はボーボワールである。なぜかというと、彼女の「女も幸せになりたい。女が差別されるのはおかしい」という「思想」だけが実現した思想だからである。マルクスの思想さえ実現できなかった。共有されなかった。しかし、「男女差別は間違っている」というボーボワールの思想は、世界中とは言わないが、世界のすみずみまで行き渡ろうとしている。
 思想は、だれもが話していることばにならないと思想とは呼べないのじゃないだろうか。
 「思想が意味よりも価値を、欠くことのできないものとするからなのである」という文を読んで、「意味」と「価値」の違いをわかるひとが何人いるだろうか。

 もっとふつうの日本語で書いてくれないかなあ、と頭の悪い私は思ってしまう。



 ところで、鼎談で池井昌樹が私の書き方を「徒手空拳」と言っているんだけれど、人を愛するとき、ひとは裸になるんじゃないのかな? それから性交するんじゃないかな? もし武装して性交したら、それは強姦。まあ、器具をつかってというのもあるだろうけれど、それは嗜好の問題。ふつうは、ただ裸になる。無防備になって、愛する。
 詩の批評をするとき(感想を書くとき)も、私は裸になって、ひとのことばと向き合いたい。それまで読んできたものは全部捨て去って、そこにあることばと向き合いたい。
 頼るものが何もないから、どこへ行くかわからない。そこへ進んでいるのがいいことなのか、悪いことなのか、わからない。でも、自分にとって「気持ちいい」かどうかは、わかるな。「気持ちいい」と思った方向へ、どんどん進んで、自分がどうなってもかまわない、ただ「このひと(このことば)」についていく覚悟をすることが愛なんだから、私は「徒手空拳」と言われても、それがあたりまえじゃないの? と思うだけである。
 といいながら。
 裸になるのは難しいね。裸になったつもりでも、どこかに「隠しているもの」が残るし、裸になるとき、その服を脱ぐ手つきには誰それの手つきが入り込む。つまり、裸も実は誰それの裸を真似しているだけという恐れがある。
 どこまで脱いでも、裸にはなれない。そうわかっていても、裸になるようにこころがけたいと私は思っている。
現代詩手帖 2014年 09月号 [雑誌]
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