詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡田哲也『酔えば逢いたい人ばかり』

2014-09-23 09:49:24 | 詩集
岡田哲也『酔えば逢いたい人ばかり』(南日本新聞開発センター、2014年08月28日発行)

 岡田哲也『酔えば逢いたい人ばかり』はサブタイトルがついている。「薩摩焼酎讃歌」。その通りの内容である。
 「鰯と焼酎」という作品を読んでみる。

モンペ姿の棒手振りのおばさんが
無塩の鰯を持ってきた夜は
鰯のナマスや煮付けが 食卓をにぎわせた

父は七輪を横座のかたわらに置き
それに鰯をのせ
焼酎をちびりちびりとやった

片ひらを食べると裏がえす
その時わたしは父の膝にあがりこみ
あああん と口をあける
すると父はわたしに鰯の身を あてがうのだった

コイツ ウマイコト ヤリヤガッテ
その時の兄たちの燠火のような眼差しが
今でもわたしを火照らせるときがある

 昔の思い出、昔の光景を書いている。いまは、こういう家族の食卓は見ることができないだろうと思う。父が家長として存在していた時代だ。父の贅沢も、自分だけのために鰯を焼き、焼酎を飲む。妻が魚をあぶってくれるわけではない。手酌ならぬ手料理(?)である。
 この詩のおもしろいところは、

片ひらを食べると裏がえす

 この一行。それまでも具体的な描写ではあるが、「流通光景」という感じがする。「肉体」の動きが紋切り型である。想像がつく。けれど、この一行は違う。なんというか、ものを食べるときの「呼吸」がある。
 で、その「呼吸」があるからこそ、そのタイミングをみはからって「わたし(岡田)」は父の膝の上に上がり込む。あぐらをかいた膝、その窪みに入り込む。最初の半身を食べている間は入り込めない。邪魔になるから。それに、父親が「特権」を利用している最中だからである。魚をひっくりかえす一瞬は、食べるのも飲むのも一瞬途切れる。魚の世話をする(?)、不思議な間合いだ。ちょっと食べるのを忘れる瞬間といっていい。もちろん、残りを食べるために裏返すのだが、食べるときの橋の動きとは違う。
 「わたし」はそれをしっかり見ていて、その「間合い」を逃さない。そして、ぱっと行動し、「間合い」を自分の方に引き寄せてしまう。口をあけて、声を出して、鰯をせがむ。それに父がつられる。「呼吸」があってしまうのだ。

コイツ ウマイコト ヤリヤガッテ

 というのは、ひとりだけ鰯を貰いやがって、食べやがって、ということもそうなのだけれど、「間合いを盗む」その感覚を悔しがっているのだ。

 岡田は、こんな具合に他人と「呼吸をあわせる」(間合いを盗み取る)のがうまい人間なのだと思う。
 この詩集にはいろいろな人が登場するが、その人たちが、妙に近しい。岡田と不思議な一体感を持っている。それは岡田が彼らと「呼吸をあわせている」からである。岡田は誰も批判・非難しない。「呼吸をあわせて」いっしょに生きる。「間合い」を盗み、他人との「間」を消してしまうのである。

この世は おかげさまがお天道様で おたがいさまがお月様
だから 四の五の悩むな 地団駄ふむな
裏目が出ようと なるがまま                 (「新酒のころ」)

 これは、岡田の「発明」したことばではなく、岡田のまわりで言われていたことなのだろう。自分で何かをするのではなく、その場にあわせて、「なるがまま」。「なるがまま」に「呼吸する」。どんなことがおきても「間合い」があっていれば、呼吸が苦しくなることはない。生きて行ける。
 この三行は、次のようにも言いかえられもする。

この世は おかげさまがお天道様で おたがいさまがお月様
だから 星屑になろうと 腰抜かそうと
酔いがさめたら あるがまま

 「なるがまま」は「あるがまま」。
 岡田は「あるがまま」を肯定している。「あるがまま」を批判したり、ととのえようとはしない。「あるがまま」に「呼吸をあわせる」。
 それでいい。それがいい。
酔えば逢いたい人ばかり―薩摩焼酎讃歌
岡田 哲也
南日本新聞開発センター

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(186)(未刊・補遺11)

2014-09-23 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(186)(未刊・補遺11)

 カヴァフィスは「ローエングリン」がよほど好きだったらしい。「疑惑」というタイトルで、もっ一篇詩を書いている。それが「疑惑」である。(中井久夫の訳は書き出しが二字下げになっている部分があるのだが、行頭をそろえた形で引用する。)

して最悪のことを語らむ者は誰ぞ。
(言わざれらば良きものを)。
告げ来るは誰ぞ(耳貸さぬぞ。
聴かぬ。奴はだまされたるに相違ない)
不当な告発。して、次に
呼ばう声、呼び出し係の繰り返し呼ばう声。
ローエンリングの栄光の到来--
白鳥、魔剣、聖杯--
してついにその決闘、
テルラムント ローエンリングを倒しぬ。

 最後の一行は、ワーグナーの歌劇とは趣が違う。歌劇ではローエンリングがテルムラントを倒し、エルザの弟にかけられていた魔法も解くのだが、……これはカヴァフィスの別の見方かもしれない。
 テルムラントは決闘でローエンリングに負けるが、最後、「身元」を明かしたローエンリングはエルザのもとを去っていく。結局、テルラムントが勝ったのだ、とカヴァフィスは見るのかもしれない。

 ローエンリングが「身元」を隠していたように、カヴァフィスも「身元」を隠して恋をしたのだろうか。いくつもの恋をしながら、結局、カヴァフィスはその恋を「世間」に認められなかった。受け入れなれなかった。(か、どうかは、私は知らないのだが、たぶん「男色」は、世間に受け入れられる情況ではなかったと思う。)
 「身元」を追求する(その人が誰であるかを知りたい)というのは人間の欲望だろうけれど、本音(主観)が必ず幸福を連れてくるとはかぎらない。

 詩人としての名声を得たカヴァフィス。けれど、彼は「名声」よりも恋の成就をもめていたかもしれない。「身元」を詮索せずに生きる恋。
 「身元」を隠すという行為、ローエンリングに自分自身を重ね合わせているのかもしれない。

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