岸本美奈子「寓話」ほか(「カラ」17、2014年09月01日発行)
岸本美奈子「寓話」はとても短い詩である。
文章が「倒置法」なのか、それとも「末尾」が切断されたまま中断しているのか。読み方はいろいろできると思う。
私は、ことばが動いたまま、それを並べたのだと感じた。「倒置法」とか「切断」(中断)などということは考えずに、ただ、ことばが動くままに動かした。「意識の流れ」というのとも違うけれど、まあ、意識なの流れなんだろうなあ。
1行目の「幸せ」と2行目の「さみしさ」は、ふつうの感覚(流通感覚/常識?)では矛盾というか、同類の「感じ」ではない。「幸せ」なら、ふつうは「さみし」くはない。けれど感情というのはもともと矛盾したことろがあって、感情には矛盾がないとも言える。好きだけれど、嫌い。嫌いだけれど、好き(許してしまう)。--というようなことは誰でもが経験する。感情は整理できないものなのだ。
「さみしさ」を感じることができる「幸せ」というものがあるだろうし、「幸せ」を感じながらその静けさ(落ち着き)を「さみしい」と思うこともあるだろう。
「矛盾」ではなく、そういうことってあるなあ、と思う。
それが1、2行目。
それからあと、私はごく単純に、岸本は寝転びながら教科書を読んでいる姿を想像した。その想像には、私の体験が重なる。教科書を読むのがいやになって、ふと教科書から目を離すとレースのカーテンが見えた。それはこんな昼下がり(と勝手に思う)、ひとりで教科書を読んでいる私の「さみしさ」のように静かに揺れている。でも、カーテンが揺れるのを「さみしさ」と感じることができるのは「幸せ」というものかもしれない。側にはコップに入れた炭酸水が弾けている。
私の書いたことは違った順序でおきるかもしれない。順序は違っても、たぶん、同じだ。そこでおきていることは一瞬のこと。順序をきちんとととのえて言わないとつたわらないような複雑なことではない。どんな順序にでも置き換えられる。順序は、読者に任されている。--その「自由」な感じ、適当な感じに、あ、これが詩だなと思う。
「論理」は「こと」の順序を正確にしないと、きっと違った「こと」になってしまう。しかし、詩は「順序」を解放するものなのだ。何かがおきる。その順序を解きほぐして、順序に縛られるまえの状態、未生の状態、混沌の状態にもどすものなのだ。
この感じは「草原」にも通じる。
通じると入っても「草原」は、それほど自由な感じがしない。1行1行が「論理的」に見える。「意味」がありそうに見える。「論理」をばらばらにして、「順序」で「意味」をととのえようとしていない。逆か。「意味」をばらばらにして、「順序」で「論理」をととのえようとしていない。
--というようなことは、まあ、なんとでも言えるなあ。
でも、この詩の魅力が「ばらばら」な感じ、「順序」を読者に任せきっているところにあるというのは、似ている。
私は「寓話」の方が好きだが、なぜかと言うと、全体が具体的で、一瞬のうちに全体をつかみとれるからだ。「全体」を「誤読」できる。
「文意」は「草原」の方が「論理的」に見えるが、ほんとうに論理的であるかどうかはわからない。こういう「偽装」のようなものが全体を支配しているのを感じ、「誤読」すると、「誤読だ」と指摘されそうで、窮屈な感じがする。
ただことばをほうり出しただけの「寓話」方が「自由」の度合い大きくて、気持ちがいい。「寓話」(寓意)というものを、私はぜんぜん感じないので、まあ、私の読み方は間違っているのだろうけれど。
岸本美奈子「寓話」はとても短い詩である。
そこに幸せを感じる。
レースカーテンのさみしさを知る。
寝転びながら
わたしは教科書から目を離し、
炭酸水が弾けるとき、
文章が「倒置法」なのか、それとも「末尾」が切断されたまま中断しているのか。読み方はいろいろできると思う。
私は、ことばが動いたまま、それを並べたのだと感じた。「倒置法」とか「切断」(中断)などということは考えずに、ただ、ことばが動くままに動かした。「意識の流れ」というのとも違うけれど、まあ、意識なの流れなんだろうなあ。
1行目の「幸せ」と2行目の「さみしさ」は、ふつうの感覚(流通感覚/常識?)では矛盾というか、同類の「感じ」ではない。「幸せ」なら、ふつうは「さみし」くはない。けれど感情というのはもともと矛盾したことろがあって、感情には矛盾がないとも言える。好きだけれど、嫌い。嫌いだけれど、好き(許してしまう)。--というようなことは誰でもが経験する。感情は整理できないものなのだ。
「さみしさ」を感じることができる「幸せ」というものがあるだろうし、「幸せ」を感じながらその静けさ(落ち着き)を「さみしい」と思うこともあるだろう。
「矛盾」ではなく、そういうことってあるなあ、と思う。
それが1、2行目。
それからあと、私はごく単純に、岸本は寝転びながら教科書を読んでいる姿を想像した。その想像には、私の体験が重なる。教科書を読むのがいやになって、ふと教科書から目を離すとレースのカーテンが見えた。それはこんな昼下がり(と勝手に思う)、ひとりで教科書を読んでいる私の「さみしさ」のように静かに揺れている。でも、カーテンが揺れるのを「さみしさ」と感じることができるのは「幸せ」というものかもしれない。側にはコップに入れた炭酸水が弾けている。
私の書いたことは違った順序でおきるかもしれない。順序は違っても、たぶん、同じだ。そこでおきていることは一瞬のこと。順序をきちんとととのえて言わないとつたわらないような複雑なことではない。どんな順序にでも置き換えられる。順序は、読者に任されている。--その「自由」な感じ、適当な感じに、あ、これが詩だなと思う。
「論理」は「こと」の順序を正確にしないと、きっと違った「こと」になってしまう。しかし、詩は「順序」を解放するものなのだ。何かがおきる。その順序を解きほぐして、順序に縛られるまえの状態、未生の状態、混沌の状態にもどすものなのだ。
この感じは「草原」にも通じる。
船に乗るのは、左肩の後ろが注意したので止めた。
なんとなく、もよおしたから、その場を離れた。
全てがそうなるはずだった、とは言い切れない。
誰もがそうなるはずだった可能性の世界にいた。
草原を走り出す縛られていた足は縺れてしまえばいいのにそうはさせない。
片時も後ろを向いてはならない掟に反抗期の自分を閉じ込めて。
安らぎの膝を想い出し硬い草原で静かに息をする。
通じると入っても「草原」は、それほど自由な感じがしない。1行1行が「論理的」に見える。「意味」がありそうに見える。「論理」をばらばらにして、「順序」で「意味」をととのえようとしていない。逆か。「意味」をばらばらにして、「順序」で「論理」をととのえようとしていない。
--というようなことは、まあ、なんとでも言えるなあ。
でも、この詩の魅力が「ばらばら」な感じ、「順序」を読者に任せきっているところにあるというのは、似ている。
私は「寓話」の方が好きだが、なぜかと言うと、全体が具体的で、一瞬のうちに全体をつかみとれるからだ。「全体」を「誤読」できる。
「文意」は「草原」の方が「論理的」に見えるが、ほんとうに論理的であるかどうかはわからない。こういう「偽装」のようなものが全体を支配しているのを感じ、「誤読」すると、「誤読だ」と指摘されそうで、窮屈な感じがする。
ただことばをほうり出しただけの「寓話」方が「自由」の度合い大きくて、気持ちがいい。「寓話」(寓意)というものを、私はぜんぜん感じないので、まあ、私の読み方は間違っているのだろうけれど。