詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岸本美奈子「寓話」ほか

2014-09-27 12:55:41 | 詩(雑誌・同人誌)
岸本美奈子「寓話」ほか(「カラ」17、2014年09月01日発行)

 岸本美奈子「寓話」はとても短い詩である。

そこに幸せを感じる。
レースカーテンのさみしさを知る。
寝転びながら
わたしは教科書から目を離し、
炭酸水が弾けるとき、

 文章が「倒置法」なのか、それとも「末尾」が切断されたまま中断しているのか。読み方はいろいろできると思う。
 私は、ことばが動いたまま、それを並べたのだと感じた。「倒置法」とか「切断」(中断)などということは考えずに、ただ、ことばが動くままに動かした。「意識の流れ」というのとも違うけれど、まあ、意識なの流れなんだろうなあ。
 1行目の「幸せ」と2行目の「さみしさ」は、ふつうの感覚(流通感覚/常識?)では矛盾というか、同類の「感じ」ではない。「幸せ」なら、ふつうは「さみし」くはない。けれど感情というのはもともと矛盾したことろがあって、感情には矛盾がないとも言える。好きだけれど、嫌い。嫌いだけれど、好き(許してしまう)。--というようなことは誰でもが経験する。感情は整理できないものなのだ。
 「さみしさ」を感じることができる「幸せ」というものがあるだろうし、「幸せ」を感じながらその静けさ(落ち着き)を「さみしい」と思うこともあるだろう。
 「矛盾」ではなく、そういうことってあるなあ、と思う。
 それが1、2行目。
 それからあと、私はごく単純に、岸本は寝転びながら教科書を読んでいる姿を想像した。その想像には、私の体験が重なる。教科書を読むのがいやになって、ふと教科書から目を離すとレースのカーテンが見えた。それはこんな昼下がり(と勝手に思う)、ひとりで教科書を読んでいる私の「さみしさ」のように静かに揺れている。でも、カーテンが揺れるのを「さみしさ」と感じることができるのは「幸せ」というものかもしれない。側にはコップに入れた炭酸水が弾けている。
 私の書いたことは違った順序でおきるかもしれない。順序は違っても、たぶん、同じだ。そこでおきていることは一瞬のこと。順序をきちんとととのえて言わないとつたわらないような複雑なことではない。どんな順序にでも置き換えられる。順序は、読者に任されている。--その「自由」な感じ、適当な感じに、あ、これが詩だなと思う。
 「論理」は「こと」の順序を正確にしないと、きっと違った「こと」になってしまう。しかし、詩は「順序」を解放するものなのだ。何かがおきる。その順序を解きほぐして、順序に縛られるまえの状態、未生の状態、混沌の状態にもどすものなのだ。

 この感じは「草原」にも通じる。

船に乗るのは、左肩の後ろが注意したので止めた。
なんとなく、もよおしたから、その場を離れた。
全てがそうなるはずだった、とは言い切れない。
誰もがそうなるはずだった可能性の世界にいた。
草原を走り出す縛られていた足は縺れてしまえばいいのにそうはさせない。
片時も後ろを向いてはならない掟に反抗期の自分を閉じ込めて。
安らぎの膝を想い出し硬い草原で静かに息をする。

 通じると入っても「草原」は、それほど自由な感じがしない。1行1行が「論理的」に見える。「意味」がありそうに見える。「論理」をばらばらにして、「順序」で「意味」をととのえようとしていない。逆か。「意味」をばらばらにして、「順序」で「論理」をととのえようとしていない。
 --というようなことは、まあ、なんとでも言えるなあ。
 でも、この詩の魅力が「ばらばら」な感じ、「順序」を読者に任せきっているところにあるというのは、似ている。

 私は「寓話」の方が好きだが、なぜかと言うと、全体が具体的で、一瞬のうちに全体をつかみとれるからだ。「全体」を「誤読」できる。
 「文意」は「草原」の方が「論理的」に見えるが、ほんとうに論理的であるかどうかはわからない。こういう「偽装」のようなものが全体を支配しているのを感じ、「誤読」すると、「誤読だ」と指摘されそうで、窮屈な感じがする。
 ただことばをほうり出しただけの「寓話」方が「自由」の度合い大きくて、気持ちがいい。「寓話」(寓意)というものを、私はぜんぜん感じないので、まあ、私の読み方は間違っているのだろうけれど。

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(190)(未刊・補遺15)

2014-09-27 09:27:27 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(190)(未刊・補遺15)2014年09月27日(土曜日)

 「一九〇六年六月二七日午後二時」は公開処刑の様子を描いている。息子が処刑される場に立ち会った母親の姿。

「ああ、たったの十七年。十七年だ。一緒にいたのは!」
息子が絞首台の階段を登らされ、
十七歳の若い無実の首にロープが廻され、
絞められて、若い形の良い身体が
中空にあわれに垂れさがって、
暗い怒りのすすり泣きがたえだえに聞こえてきた時、
犠牲の母は大地に転がりまわった。
彼女の嘆きはもう歳月ではなかった。
「たったの十七日」と彼女は号泣した。
「おまえとおれたのはたったの十七日だったよお」

 「十七年」が「十七日」にかわっている。区別ができなくなっている。混乱している。それが母親の嘆きの深さを語っている。
 原文がわからないので推測だが、この「十七年」と「十七日」は「十七年」と「十七」かもしれない。後の嘆きは「歳月」をあらわす序数詞をもたないかもしれない。どのような時間の「単位」を選ぶかは、読者に任されているかもしれない。それを中井久夫は、対比が明確になるように「日」を補って訳したのかもしれない。
 この母の激しい動き(精神の混乱)を描くと同時に、カヴァフィスは、絞首刑にあった青年の姿も描いている。

十七歳の若い無実の首にロープが廻され、
絞められて、若い形の良い身体が
中空にあわれに垂れさがって、

 この描写は母親の描写に比べると、とても静的である。この「静」があって、母の「動」の激しさがより際立つ。
 また「若い形の良い身体」という表現がなまめかしい。美しい身体には死が似合う。それも不幸な死が似合う。これはカヴァフィスの好みなのかもしれない。
 若者の死に向き合いながら、こういう「感想(思い)」が動くのは不謹慎かもしれない。けれど、感情というのはいつでも不謹慎なものである。つまり、その場の「雰囲気」にあわせるよりも、まず自分の欲望にしたがって動くものである。
 それは母親の激情と同じである。母親は、そんなふうに大声で嘆くことがその場にふさわしいことかどうかなど考えない。その姿が息子の精神にどんな影響を与えるか、その母の姿をみた息子がどう思うか、など考えない。また、その場に居合わせた他人がどう思うかも考えない。同情するのか、批判するのか。そこには「主観」しかない。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社

「リッツォス詩選集」(中井久夫との共著、作品社)が手に入りにくい方はご連絡下さい。
4400円(税抜き、郵送料無料)でお届けします。
メール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせ下さい。
ご希望があれば、扉に私の署名(○○さま、という宛て名も)をします。
代金は本が到着後、銀行振込(メールでお知らせします)でお願いします。
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たとえばもっとほかの方法で

2014-09-27 01:15:44 | 
何かを書くにしても、たとえばもっとほかの方法で書けばよかったのだ、
隣に座っていたあるひとが私に耳打ちした。
直接的に非難すると、意味は通じても感情がつたわらないのだ、
(私は恍惚も深遠も信じているわけではないのだが、

その声は私の鼓膜のなかよりも外の方に大きく響いた。
もしかするとそれは何度も発表されてきた意見かもしれない
と思い、顔をそのひとに向けると、そこにはもう誰もいなかった。
                              ということを
たとえばもっとほかの方法で書くことはできるだろうか。

*

新詩集『雨の降る映画を』(10月10日発行、象形文字編集室、送料込1000円)の購読をご希望の方はメール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせください。
発売は限定20部。部数に達し次第締め切り。

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