詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透『現代詩論集成1』(9)

2014-09-20 09:12:26 | 北川透『現代詩論集成1』
北川透『現代詩論集成1』(9)(思潮社、2014年09月05日発行)

 Ⅱ「荒地」論 戦後詩の生成と変容
 八 俗なる市民の行方 黒田三郎覚書

 北川の黒田三郎批判はどのようなところから生じているのか。

彼は、中原中也を批判するときに、《文明批評家としての詩人》というような概念に拠っている。それはまた、ニーチェやキルケゴールなどの知の集積を背景にした《非民衆的な、反民衆的とさえみられる生き方》という論理とも重なっている。しかし、このモティーフが、エッセイにおける、ある一面での強調にもかかわらず、実際の作品ではほとんど力をもっていないのはなぜか、ということにも考えを及ばせておかねばならない。その理由をわたしは、戦後における黒田の詩の磁場が、<民衆→市民><生活><日常言語>の、あまりに揺るぎない関数として成立してしまったところに見ている。(188 - 189ページ)

 「概念」「知の集積」か。「知の集積」は「非民衆的、反民衆的」か。「概念」もきっと、そうなのだろう。そのとき「知/概念」とは何か。ニーチェやキルケゴール。ようするに西洋の哲学(あるいは哲学言語)のことだ。
 北川は『黒田三郎日記』<戦後篇>を読み、黒田がキルケゴールやニーチェ、さらにカフカ、サルトルなどを読んでいることを知った。こういう西洋の哲学のことばを「思想的な蓄積」( 182ページ)と呼んでいる。
 うーん、そうなのだろうか。
 それは、「思想的蓄積」ではなく、「知の蓄積」なのではないだろうか。黒田はそこに書いてあることを読み、知っている。けれども、それは黒田の「思想」ではなかったということなのではないのか、と私は思ってしまう。
 読んで知ってはいるけれど、黒田の「思想」にはなりえなかったのではないだろうか。(だから、詩としては書くことができなかった。詩の方が黒田のほんとうの「思想」をあらわしているのではないのか。)
 北川は、また、こう書いている。(引用は前後するが……。)

黒田の戦後とは、いわば資質としての体験的発想が、まさしく<生活><民衆>、そして<実用性>ということばで語られた<話体的言語>との関数においてこそ、出現したところに見定められねばならない。( 187ページ)

 「話体的言語」とは日常的に話されていることば、民衆の口語に近いことばということか。この対極にあるのがきっと「知の集積としての言語」(西洋の哲学書のなかにあることば)ということなるだろう。
 黒田は、批評では「知の集積」としての「西洋哲学の言語(概念)」をつかって「思想」を語っていたが、詩はそのときの「理念」ではなくて、「日常のことば(庶民的、生活的なことば)」になっている。「理念」から離れてしまっている。
 そういうことを北川は批判しているように見える。

 北川は、「荒地」に「理念」のことばの運動の可能性を見ている。
 そういう「可能性」からみると、黒田は逸脱している。「荒地」的ではない。鮎川信夫的ではない、ということになる。
 でも、これは批判されることなのだろうか。
 北川の文章を読みながら、私が感じた疑問は、そこにある。

黒田が<荒地>の共同理念に、論理として一方で加担しながら、しかし、感受性の領域で《俗なる市民》に固執したのは、もとより、そこに原型的、あるいは資質的な発想があったからである。( 191ページ)

 「感受性」「資質」と北川が呼んでいるもの--それは「知の集積」ではないように見えるが、「智恵の集積(暮らしのなかで引き継がれてきて生き方/日々のしのぎ方)」かもしれない。そして、それは「西洋哲学の概念」とは違うかもしれないが、やはり「思想(哲学)」ではないのだろうか。日本で暮らしている黒田が、その暮らしのなかで自然に身に着けた「智恵」(生き方)も、「思想」ではないのか。

 私は、たぶん読み違えているのだと思う。
 「荒地」があらわれてきたときの「戦争/戦後」の時代、彼らの肉体が潜り抜けてきた現実、そしてその現実を批判的に切り抜けていくために必要としたものを見落としているのだと思うが、それでも何か違和感が残る。
 「俗なる市民」の「俗」が気になるのかもしれない。
 この「俗なる市民」の「俗」の反対のことばは何だろうか。「知の集積」の「知」かもしれない。「概念」かもしれない。あるいは「理念」かもしれないなあ。北川はそういうものを「聖」(俗の反対)とは呼んでいないが、そう呼んでいないだけに(無意識なだけに)、それが少し怖い。
 私の考えでは「無意識」とは「肉体になじんでしまっているもの/肉体になってしまっているもの」、つまり「思想」だからだ。自分が信じる「聖」とは違うもの、「聖」の範疇に入らないものを、「俗」と呼び捨てることにならないだろうか--それが不安だ。
 北川は書いてはいないのだが(私は北川の忠実な読者ではないので、読み落としているかもしれないが)、北川は「理念/知/論理」を「聖なるもの(人間のめざすべきもの)」という視点で世界を見ていないだろうか。そして、「理念/知/論理」を指向しないものを「俗」と呼んでいないだろうか。
 私の見方は、戦争の中心を形作っている「死」を見落としている(「荒地」の詩人たちが「死」と向き合っている、「死」と向き合って、それをどう自己に引き受けるかということを問題を見落としている)のかもしれないが、とても気になる。
 「死」の前で「聖」「俗」の区別はあるか。
 たぶん、「死」を浄化するものが「聖」であり、人間の「思想」は「死」を浄化するものでなければならない--という考え方は、うーん、ことばの上では、わからないわけではないが、私は積極的に与するという気持ちになれない。


北川透 現代詩論集成1 鮎川信夫と「荒地」の世界
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(183)(未刊・補遺08)

2014-09-20 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(183)(未刊・補遺08)2014年09月20日(土曜日)

 「カルデアのイメージ」は神が人間をつくる前の地上のことから書きはじめている。「カオス」の状態。

その時 戦士は禿鷹の身体を持ちて、
 人々は人の身体と
大鴉の頭を持てり。人の頭を持てる
 大きく背高き雄牛のたぐいもありき。
日も夜も吠えやまぬ犬は四つの身体を持ち、
 尾は魚の尾なりき。神エアとその他の神は
これらの物を掃滅したまいてから
 楽園に人を置きたまえり。
(ああ、人はみじめに楽園を追われたることよな)。

 最後の一行はアダムとイブのことを書いているのだろうけれど、私は、まったく違う読み方をしてみたくなる。この詩に書かれていることばをまったく違う意味に読み取りたい気持ちになる。
 楽園に「人」を置く前の「カオス(混沌)」の時代の方が「楽園」のように見えないだろうか。「楽園」の定義はむずかしいが、「禿鷹の身体」を持っていたり、「大鴉の頭」を持っていたりする「異形」の「人々」、あるいは「四つの身体」と「魚の尾」を持つ犬という不思議な生き物。その整頓されない形の方が、とてもエネルギーに満ちていて楽しそうではないか。
 人は、その世界で、いろいろな形の生き物に接触し、そこから「生きる」ことを吸収した方がおもしろかったのではないだろうか。可能性がいろいろあったのではないのだろうか。それらの「生き物」を「掃滅」したあとに置かれたのではなんだかつまらない。
 もし、それらが生きていたら、その不思議な生き物といっしょに生きていたなら、イブはヘビにそそのかされなかったかもしれない。ヘビくらいの単純な生き物のことばに耳を傾けなかったかもしれない。

(ああ、人はみじめに楽園を追われたることよな)。

 最後に、括弧の中に隠されるように洩らされる「本音/主観」。それまでの文体が「文語」風なのに対して、この一行は「ことよな」と「口語」的である。「口調」が聞こえる。その口調は、なにかしら「悪」というか、ととのえられる前の「混沌」の方をなつかしがっているような気がする。

 私の読み方は間違っているかもしれない。
 間違いを誘う魅力が、この詩にはある。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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