監督 クリント・イーストウッド 出演 ジョン・ロイド・ヤング、エリック・バーゲン、マイケル・ロメンダ、ビンセント・ピアッツァ、クリストファー・ウォーケン
映画を見ていて、途中で不思議な気持ちになった。映画を見ている感じがしない。主人公たちが生きている、それを直接見ている気持ちになる。「フォー・シーズンズ」を私は知らない。「シェリー」はどこかで聞いたことがある。ほかの曲もかすかに聞いた記憶はあるという程度だ。そして、彼らはもう「過去の人」(ロックの殿堂入りをしたグループ)なのだが、「過去」という感じがしない。「いま」という感じがする。一瞬一瞬に、どきどき、はらはらしてしまう。ときどき、ばかだなあ、と思ってしまう。胸が熱くなったりもする。
なぜなんだろう。映画が終わってからしばらく考えたがわからなかった。
こういうとき、私は、どのシーンがいちばん印象的だったかを思い出してみる。そして、なぜ印象的だったのかを考えてみることにしている。
いちばん印象的だったのは、彼らが「シェリー」をはじめて歌うシーンだ。電話機に向かって、四人ができたての曲を練習もせずに歌いだす。レコード・プロデューサーに聞かせるためだ。その曲は、バスのなかで突然ひらめいた曲。15分前にできた曲。作曲者はもちろん自信があるのだが、初見でヴォーカルが飛びつき、その歌いだしに仲間が反応し、歌いだす。
探していたものを発見し、それに夢中になって、形をつくっていく。その、止めることのできない衝動、本能のようなものが輝いている。
この映画の魅力は、ここにある。何かを発見し、それに夢中になること。「過去」を描いているのに、それは「思い出」ではなく、「発見」。「発見」の瞬間をつぎつぎに積み重ねてゆく。新曲に行き詰まったとき、テレビを見る。女が殴られる。泣くか。「大人の女は泣かない。」テレビを見ていたひとりがそう言う。その瞬間に、そのフレーズが音楽になった響く。
何かに偶然出会い、その瞬間に、何ごとかひらめく。あ、これがおもしろい。これがいい。気に入った。これが好き。そのこころが動いたものへ向かって、こころを集中させる。こころを形にしていく。その瞬間、ひとは、たぶん「自分」というものの「枠」を超える。「自分」がなくなる。「自分」を捨てて、わけのわからない何かに向かって動いていく。
これは人間の、一種の本能だ。美しい欲望だ。
女を見て、美しいと思う。セックスしたいと思う。独特の声を聞いて、この声はすごいと思う。この声で歌を歌ったら、曲はどんなふうに響くだろうか、と思う。それを確かめてみたい。女とセックスをしたい--というのは「自分」を捨てることではなく、自分の欲望を実現することという見方があるかもしれないが、やはり「自分」を捨てること。「自分」を見失ってしまうこと。「自分」を見失いながら、動いてしまうことだ。たとえばヴォーカルの男は結婚していて妻子がある。それでも別な女性にひかれてしまう。セックスし、結婚まで夢みてしまう。「恋」してしまう。「愛」してしまう。「自分」を超えて、新しい「自分」になろうとする。
恋のような「わけのわからなさ」(血迷いごと?)だけではない。
グループのリーダーが莫大な借金をつくる。どう解決するか。そのときヴォーカルのとった生き方は、その借金を背負う(肩代わり)するということである。もっとほかの生き方、他人の借金など気にしないで「自分」の人生を堅実に生きるという方法もあるはずなのに、どうなるかわからないことをしてしまう。「自分」を超えて、何かをしてしまう。それを「友情」とか「恩義」とか、別のことばでいうことはできるが、たぶん、そういう「ことば」ではほんとうのことはつかみきれない。したいから、する。それだけなのだ。その瞬間に感じた何か、これをするべきなのだ、ということが突然ひらめき、将来を考えずに、それをしてしまう。いや、将来は、考える。借金を返済すれば、何かが解決すると、考える。そして、それがどんな結果に何か考えずに、動きはじめる。
あらゆることが「初めて」のことなのだ。
人生は、あらゆることが初めてである。「フォー・シーズンズ」の「過去」、誰もが知っている「過去」さえも「初めて」のこととして、この映画のなかでおきている。そのために、昂奮する。
イーストウッドは「ワンテイク」主義のようにいわれることがある。どのシーンも一回しかとらない。それがこの映画を美しくしているほんとうの力かもしれない。
あらゆることは、その瞬間におきる。繰り返してみても、それは最初の瞬間にはかなわない。「初めて」こそが人間を動かしている。
これは最後のシーンに象徴的に表現されている。「いちばん幸福だったのは」という問いにヴォーカルが言う。「街頭の下で自分たちのハーモニーをつくっていたとき」、つまり、このグループの出発のとき。「シェリー」を無伴奏で歌い、ハーモニーを、「フォー・シーズン」の「音」をつくっているとき。まだ形のないものが「初めて」生まれてくる。その誕生に立ち会える。自分たちで生み出しているのだけれど、その生み出したものは、まるで自分で生まれてきたみたいに生き生きと動いて行ってしまう。それを追いかけるようにして生きる。
これは音楽だけではなく、あらゆる芸術につながる喜びだ。
その「シェリー」のハーモニーを作り上げるシーン、4人の歌が街に流れ、そこに映画の登場人物が次々に現れ、歌い踊る、舞台ミュージカルのエンディングのようなラストシーン。これは、現実にはありえないのだけれど、あ、これが彼らの夢みていた「音楽」なのだと、納得してしまう。一緒に歌い、踊りだしたくなる。楽しい。何があっても、音楽があって、ダンスして、みんなが生きている。「初めて」のように歌を歌い、初めてのように踊り、それが初めてなのに完璧に調和する。
いいなあ。
何度でも見たくなる。私は、眼が悪いこともあって、最近は二度、三度と繰り返して映画を見ることがなくなってしまったが、この映画は見たい。何度でも見たい。毎日でも見たい。何度も何度も「初めて」を味わいたい。
「初めて」の「意味」にこだわりすぎて、影像のことを書きそびれたが、どの影像も美しい。特に最初のシーンがすばらしい。ニューヨークの空が映し出され、カメラがだんだん下におりてきて、ふるい街角を映す。そのとき空の色はモノクロに近い感じだ。街におりてきても、通りも壁もウインドーもモノトーンに近い。最初の散髪屋のシーンもセピア色、あるいはモノトーンに近い。髭を剃るためのシャボンや床屋のおやじの白い服がモノトーンを強調する。それが徐々に色づいてくる。その感じが時代は「過去」なのだけれど、生きている人間にとってはすべての瞬間が「いま」なのだ、そこに生きている人間には血が流れているのだと静かに語りかける。剃刀の刃でクリストファー・ウォーケンが血を流すシーンが象徴的だ。
どのシーンもむだがなく、さらに思い入れたっぷりになりそうなところもさらりと動かしている。どんな瞬間にも「時間」を止めない。あるシーンに特別の「情感」をこめない。「見せ場」をつくらない(役者に「熱演」をさせない)。見終わったあとで、あ、あれはああいうことだったのか……と思えばそれでいいという感じである。考えてみれば、人生は、そういうものだね。どんなことも「一瞬」のうちにおきる。過ぎ去ったあとで、あれはああだったのか、と思い起こすだけである。ある瞬間を、時間を止めて「熟考」などできない。新しい「初めて」をつぎつぎに繰り返すしかない。
あ、また、同じことを書いてしまった。
(2014年09月28日、ユナイテッドシネマ・キャロルシティ・スクリーン6)
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映画を見ていて、途中で不思議な気持ちになった。映画を見ている感じがしない。主人公たちが生きている、それを直接見ている気持ちになる。「フォー・シーズンズ」を私は知らない。「シェリー」はどこかで聞いたことがある。ほかの曲もかすかに聞いた記憶はあるという程度だ。そして、彼らはもう「過去の人」(ロックの殿堂入りをしたグループ)なのだが、「過去」という感じがしない。「いま」という感じがする。一瞬一瞬に、どきどき、はらはらしてしまう。ときどき、ばかだなあ、と思ってしまう。胸が熱くなったりもする。
なぜなんだろう。映画が終わってからしばらく考えたがわからなかった。
こういうとき、私は、どのシーンがいちばん印象的だったかを思い出してみる。そして、なぜ印象的だったのかを考えてみることにしている。
いちばん印象的だったのは、彼らが「シェリー」をはじめて歌うシーンだ。電話機に向かって、四人ができたての曲を練習もせずに歌いだす。レコード・プロデューサーに聞かせるためだ。その曲は、バスのなかで突然ひらめいた曲。15分前にできた曲。作曲者はもちろん自信があるのだが、初見でヴォーカルが飛びつき、その歌いだしに仲間が反応し、歌いだす。
探していたものを発見し、それに夢中になって、形をつくっていく。その、止めることのできない衝動、本能のようなものが輝いている。
この映画の魅力は、ここにある。何かを発見し、それに夢中になること。「過去」を描いているのに、それは「思い出」ではなく、「発見」。「発見」の瞬間をつぎつぎに積み重ねてゆく。新曲に行き詰まったとき、テレビを見る。女が殴られる。泣くか。「大人の女は泣かない。」テレビを見ていたひとりがそう言う。その瞬間に、そのフレーズが音楽になった響く。
何かに偶然出会い、その瞬間に、何ごとかひらめく。あ、これがおもしろい。これがいい。気に入った。これが好き。そのこころが動いたものへ向かって、こころを集中させる。こころを形にしていく。その瞬間、ひとは、たぶん「自分」というものの「枠」を超える。「自分」がなくなる。「自分」を捨てて、わけのわからない何かに向かって動いていく。
これは人間の、一種の本能だ。美しい欲望だ。
女を見て、美しいと思う。セックスしたいと思う。独特の声を聞いて、この声はすごいと思う。この声で歌を歌ったら、曲はどんなふうに響くだろうか、と思う。それを確かめてみたい。女とセックスをしたい--というのは「自分」を捨てることではなく、自分の欲望を実現することという見方があるかもしれないが、やはり「自分」を捨てること。「自分」を見失ってしまうこと。「自分」を見失いながら、動いてしまうことだ。たとえばヴォーカルの男は結婚していて妻子がある。それでも別な女性にひかれてしまう。セックスし、結婚まで夢みてしまう。「恋」してしまう。「愛」してしまう。「自分」を超えて、新しい「自分」になろうとする。
恋のような「わけのわからなさ」(血迷いごと?)だけではない。
グループのリーダーが莫大な借金をつくる。どう解決するか。そのときヴォーカルのとった生き方は、その借金を背負う(肩代わり)するということである。もっとほかの生き方、他人の借金など気にしないで「自分」の人生を堅実に生きるという方法もあるはずなのに、どうなるかわからないことをしてしまう。「自分」を超えて、何かをしてしまう。それを「友情」とか「恩義」とか、別のことばでいうことはできるが、たぶん、そういう「ことば」ではほんとうのことはつかみきれない。したいから、する。それだけなのだ。その瞬間に感じた何か、これをするべきなのだ、ということが突然ひらめき、将来を考えずに、それをしてしまう。いや、将来は、考える。借金を返済すれば、何かが解決すると、考える。そして、それがどんな結果に何か考えずに、動きはじめる。
あらゆることが「初めて」のことなのだ。
人生は、あらゆることが初めてである。「フォー・シーズンズ」の「過去」、誰もが知っている「過去」さえも「初めて」のこととして、この映画のなかでおきている。そのために、昂奮する。
イーストウッドは「ワンテイク」主義のようにいわれることがある。どのシーンも一回しかとらない。それがこの映画を美しくしているほんとうの力かもしれない。
あらゆることは、その瞬間におきる。繰り返してみても、それは最初の瞬間にはかなわない。「初めて」こそが人間を動かしている。
これは最後のシーンに象徴的に表現されている。「いちばん幸福だったのは」という問いにヴォーカルが言う。「街頭の下で自分たちのハーモニーをつくっていたとき」、つまり、このグループの出発のとき。「シェリー」を無伴奏で歌い、ハーモニーを、「フォー・シーズン」の「音」をつくっているとき。まだ形のないものが「初めて」生まれてくる。その誕生に立ち会える。自分たちで生み出しているのだけれど、その生み出したものは、まるで自分で生まれてきたみたいに生き生きと動いて行ってしまう。それを追いかけるようにして生きる。
これは音楽だけではなく、あらゆる芸術につながる喜びだ。
その「シェリー」のハーモニーを作り上げるシーン、4人の歌が街に流れ、そこに映画の登場人物が次々に現れ、歌い踊る、舞台ミュージカルのエンディングのようなラストシーン。これは、現実にはありえないのだけれど、あ、これが彼らの夢みていた「音楽」なのだと、納得してしまう。一緒に歌い、踊りだしたくなる。楽しい。何があっても、音楽があって、ダンスして、みんなが生きている。「初めて」のように歌を歌い、初めてのように踊り、それが初めてなのに完璧に調和する。
いいなあ。
何度でも見たくなる。私は、眼が悪いこともあって、最近は二度、三度と繰り返して映画を見ることがなくなってしまったが、この映画は見たい。何度でも見たい。毎日でも見たい。何度も何度も「初めて」を味わいたい。
「初めて」の「意味」にこだわりすぎて、影像のことを書きそびれたが、どの影像も美しい。特に最初のシーンがすばらしい。ニューヨークの空が映し出され、カメラがだんだん下におりてきて、ふるい街角を映す。そのとき空の色はモノクロに近い感じだ。街におりてきても、通りも壁もウインドーもモノトーンに近い。最初の散髪屋のシーンもセピア色、あるいはモノトーンに近い。髭を剃るためのシャボンや床屋のおやじの白い服がモノトーンを強調する。それが徐々に色づいてくる。その感じが時代は「過去」なのだけれど、生きている人間にとってはすべての瞬間が「いま」なのだ、そこに生きている人間には血が流れているのだと静かに語りかける。剃刀の刃でクリストファー・ウォーケンが血を流すシーンが象徴的だ。
どのシーンもむだがなく、さらに思い入れたっぷりになりそうなところもさらりと動かしている。どんな瞬間にも「時間」を止めない。あるシーンに特別の「情感」をこめない。「見せ場」をつくらない(役者に「熱演」をさせない)。見終わったあとで、あ、あれはああいうことだったのか……と思えばそれでいいという感じである。考えてみれば、人生は、そういうものだね。どんなことも「一瞬」のうちにおきる。過ぎ去ったあとで、あれはああだったのか、と思い起こすだけである。ある瞬間を、時間を止めて「熟考」などできない。新しい「初めて」をつぎつぎに繰り返すしかない。
あ、また、同じことを書いてしまった。
(2014年09月28日、ユナイテッドシネマ・キャロルシティ・スクリーン6)
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