詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」へのレビュー

2014-09-07 10:05:22 | その他(音楽、小説etc)
アマゾンに「谷川俊太郎の『こころ』を読む」のレビューがアップされています。
筆者は下呂のイクローさん、タイトルは「詩の「感想」(実況中継)がもう一つの詩になっている, 2014/9/4」。
URLは、
http://www.amazon.co.jp/%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E4%BF%8A%E5%A4%AA%E9%83%8E%E3%81%AE%E3%80%8E%E3%81%93%E3%81%93%E3%82%8D%E3%80%8F%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80-%E8%B0%B7%E5%86%85-%E4%BF%AE%E4%B8%89/product-reviews/4783716943/ref=dpx_acr_txt?showViewpoints=1

ぜひお読み下さい。

なお、アマゾンではなかなか本が講読できない状態です。
書店にもあまり出回っていません。
講読希望の方は谷内修三までメール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお届け先の住所と氏名をお知らせ下さい。
定価1800円(税抜き、郵送料無料)でお届けします。(振込に費用がかかるため、書店経由と料金的にはあまりかわりません。割引にはなりませんが……。)
ご要望があれば、「○○○○様+谷内修三+日付」の署名をして発送します。宛て名、日付をメールに書いてください。
「リッツォス詩選集」(作品社、中井久夫との共著)も定価4400円(税抜き、郵送料無料)で取り次ぎます。
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北川透『現代詩論集成1』(6)

2014-09-07 10:03:39 | 北川透『現代詩論集成1』
北川透『現代詩論集成1』(6)(思潮社、2014年09月05日発行)

 Ⅱ「荒地」論 戦後詩の生成と変容
 五 <経験>の意味

 「経験」ということばを北川透はかなり風変わりな感じで定義しているように私には思える。

わたしは、戦争体験のような共通性にかかわるものを体験と呼び、詩人の個別性にかかわるものを経験と呼ぶことにしたい  (125 -126 ページ)

 うーん。私自身は、共通性にかかわるものを「共通体験(共通経験)」、個人的なものを「個人的体験(個人的経験)」と呼んでいる(と思う)。「共通」「個人的(個別的)」ということばがあるのに、それを省略して「体験」「経験」ということばで「共通性」と「個別性」をわけるのか……。ちょっと、ややこしい。
 人によっては「肉体」をつかって何かしたとき「体験」と呼び、「精神」をつかって何かしたとき「経験」と区別する人もいる。「一日 100キロ走破体験」「一日一冊読書経験」という具合に。(でも、私は「読書」に対しても「読書体験」とつかってしまうなあ。--というのは、まあ、北川の「論理」とは関係ないことだが。)

 なぜ、北川は、こういう「定義」をしたのか。
 先の文章につづいて、北川は書いている。

詩論のなかで、体験にしろ経験にしろ、これらのことばが詩の概念を成立させるに重要な契機をもたされたのは、わが国の詩史上でおそらく戦後になってからであり、しかも、それは「荒地」派の詩人の出現を待つほかなかったと言える。たとえば、萩原朔太郎の『詩の原理』を開いてみればよい。彼の理論構成は、形式と内容、主観と客観というような二分法的思考によって成り立っているが、しかし、その内容とか主観とかが、経験というような概念とはまったく無縁に立てられているのを、わたしたちは見ることになるだろう。(126 ページ)

 そうだったのか、と私は驚く。
 同時に、朔太郎の「形式と内容」「主観と客観」という「二分法的思考」は、北川の「体験と経験」の「二分法的思考」とは重なるのか、重ならないのか、それが気がかりである。朔太郎に「形式」「客観」と呼ばれているものが「共通体験」、「内容」「主観」と呼ばれているものが「個別経験」という具合になるのか、ならないのか。
 ことばが違うから、私の疑問はきっと無意味な疑問だと思うが、ふと、気になってしまう。
 また、北川が「形式と内容」「主観と客観」という「二分法的思考」を「理論構成」ということばでつかみ取っていることにも興味をもった。「理論」から「論理」ということばを思い出し、「理論構成」とは「論理」を動かしていくときの方法のことかな、とも考えた。
 北川はどんな「論理」であっても、それをだれかが動かしているとおりに動かしてみて、その運動の射程(運動可能領域)を確認しているが、朔太郎を読むときでも、「理論」を動かしてみて、それが「二分法的思考」であることを確認したのだと思う。確認できたから「二分法的思考」と呼んでいるのだと思う。
 このあと北川は西脇順三郎を引用し、西脇は「超自然と自然主義」という「二分法的構成」で詩のことばを見ているととらえている。そして、

<自然主義>が経験意識の世界であるとすれば、<超自然主義>は《経験を表現するのではなく、経験と相違する若しくは経験に関係なきものを表現の対象とする》世界である。西脇において、ポエジーの価値が、もっぱら経験を無化するところに求められているのは、言うまでもない。(126 ページ)

 と書いている。
 なんだかややこしくなってきたが、私は、ここに「経験意識」ということばがつかわれていることに注目した。「経験」とは「意識」なのである。
 北川が「経験」を「意識」ととらえていると感じた。
 「体験」は「共通」しているが、つまり、戦争というような人をまるごとのみこんでしまう事件は人にとっては「個別」のできごとではなく、「共通」しているが、その「共通体験」のなかであっても、「意識」は「個別的」なものであるというところから、「体験」と「経験」を分けているように感じた。
 ここから進んで、北川は、「荒地」はようするに「意識」というものを詩に持ち込んだと言いたいのだろうと、私は考えた。「荒地」の詩によって、日本の現代詩は「意識」をテーマにするようになった。そう言いたいのだろうと思った。「体験」をそのまま書くのではなく、「体験」したときの「意識」を書く。「体験」を「経験」に昇華させたものが「意識」(経験意識)ということになるのか。「意識」をどこまでも書いていこうというのが「荒地」の詩人ということになるのか……。
 そう考えたとき、しかし、私のことばは、そこで立ち止まってしまう。
 西脇について語るとき「経験」ということばは出てきたが、「体験」は出てきていない。「体験」はどこに消えたのか。

 「体験」ということばは、このあと

わたしたちが現在、詩に関する論議のなかで、体験とか経験という概念を抵抗なく用いることができるようになったことの恩恵のいくらかは、確実に「荒地」派に負っていると言わなければなるまい。( 126ペー)

 と出てくるが、その後は、やはり見えなくなる。もっぱら「経験」ということばがつかわれて、鮎川信夫の「経験とは何か」を引用しながら、北川のことばは次のように動く。

この文章で目立つ特質は、形式や方法よりも素材と経験を重視する論理が、《われわれのための倫理》を《社会の中に確立》し、《社会に対するわれわれの責任がいつも問われなければならない》文脈において導き出されていることであろう。つまり、「荒地」や鮎川信夫における経験の概念は、単にモダニズムが欠いていた経験の回復という意味ではなく、宗教やイデオロギイでは代置できない詩固有の倫理の確立という論理をともなっていたと考える必要がある。(127 ページ)

 私なりに「誤読」すると、「経験」とは「意識」であり、「意識」とは「宗教やイデオロギイとは違った倫理」ということになる。「荒地」は「荒地固有の倫理」を「経験」として表現しようとした、と北川は言っているように思える。
 それはそれで、わかるのだが(私の「わかる」は勝手な思い込みであって、「正しい理解」とは関係ない)、うーん、気になるなあ。
 「体験」はどこへ消えたのか。
 「荒地」の「経験」を「意味」を明確にしようとして、それの対立概念(?)である「体験」をどこかに置き去りにしていないか。「荒地」の詩人そのものになって「経験」にことばが集中しすぎていないか。
 これはしかし、北川が「荒地」の「理論」をそのまま動かしてみたら(つまり、「荒地」の「理論」を追体験してみたら)、そうなった、ということかもしれない。「荒地」の「理論」は「論理」として矛盾していないと確認した、ということかもしれない。

詩固有の倫理の確立という論理

 という具合に「論理」という表現が出てくる。
 北川はあくまで「論理」を見きわめようとしている。



 このあと北川は、「荒地」派の作品を引用しながら論を進めている。そのなかに「体験」ということばは「経験」と組み合わさった形で出てくるが、同時に、その組み合わせに「仮構」ということばも出てくる。
 「仮構」というのは、私の感覚では「意識(精神)」の運動である。
 これまで見てきた北川の文章から言えば、「経験」は「個人的意識」というものだから、「仮構」はその「個人的意識」をより分かりやすくする形で動くだろう(と、私は想像する。)つまり、「体験」を振り捨てて、より「経験(意識)」をより鮮明にするように動くのが「仮構」の運動であるように思える。「体験」を「仮構」によって「経験(意識)」に昇華する、あるいは止揚する?

 うーん、「体験」の「意味」は、どうなるのだろう。



北川透 現代詩論集成1 鮎川信夫と「荒地」の世界
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(170)(未刊17)

2014-09-07 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(171)(未刊17)   2014年09月07日(月曜日)

 「テオフィロス・トレオロゴス」は史実を書いている。中井久夫の注釈によれば、「最後のビザンツ皇帝コンスタンティノス十二世パレオロゴスの一族であり、文法家、人文学者、数学者であった。一四五三年の最後のコンスタンティノポリス攻囲戦の折りはシリヴリア門を守り、最終段階では皇帝の側で勇敢に戦って倒れた。」

最後の年であった。最後のギリシャ皇帝であった。
ああ、皇帝側近の悲しい会話。
テオフィロス・トレオロゴス卿は
望み果て悲傷に堪えずして叫ばれた。
「余は生よりも死を選ばん」

 舞台の一場面を見るよう。ことばがひきしまっている。「余は生よりも死を選ばん」という文語体の響きが音をひきしめているが、なにより効果的なのが二行目の「ああ、皇帝側近の悲しい会話。」である。どんな会話か書いていない。ただ「悲しい」というそっけない形容詞がつけられている。この省略法はカヴァフィスの詩に多くみられるものだが、この詩ではほんとうに効果的だ。省略することで、テオフィロス・トレオロゴスの最後の叫びだけが「肉声」として響きわたる。「文語体」の声なのに、「口語」としてはっきり声が聞こえる。
 トレオロゴス「卿」なのだから、庶民とは違って日常的にそういう話し方をしていたのかもしれないが、その「口語」は、単に声だけではなく、その立ち姿まで感じさせる。つまり、とても「肉体的」である。
 だが、二連目はどうか。

テああ、オフィロス・トレオロゴス卿。
わが民族の多数の受難。切ない願い。
ああ、夥しい疲労--。
不正と迫害に力尽きた民族を
おんみの悲劇の十文字が要約する。

 形容詞が多すぎる。いや、名詞そのものが多いのか。ひきしまった感じがしない。
 たぶん一連目が芝居で言えば主役が動いているのに対して、二連目では主役が動いていないからである。「コーラス」が主役のいなくなった舞台で主役を描写している。主役が不在である。そのことが全体をあいまいにしている。
 コーラスは、みんなが知っている「共通体験」をことばにするのだが、そこに主役がいないときは、「観念」ではなく、違う何かが必要なのかもしれない。具体的な「もの/こと」を描写する。その描写の中から「観念」に抽象化される前の何かが動きださないことには芝居にならないのかもしれない。
 一連めだけで終わった方が詩としてはよかったかもしれない。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(169)(未刊16)

2014-09-07 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(169)(未刊16)   

 「亡命者たち」の注釈に中井久夫は「アラブによる占領後のさびれたアレクサンドラ。時代は、ミハイル三世の、共同皇帝パシリス(東ローマ帝国マケドニア朝の建設者)による暗殺後ほどない頃である」と書いている。

まだこれでもアレクサンドリアだ。
直線道路を終点の競馬場までちょっと歩こう。
ほら見えてきた、宮殿や記念碑が。まだ立派なもんだ。
戦火をこうむっても、
昔より小さくなったといっても、
素敵な街さ。

 注釈がないと「まだこれでも」の意味がわからないが、こういう突然のはじまりはカヴァフィスの特徴である。わからなくてもいい、わかるひとに向けてだけ書いている、というのがカヴァフィスのスタイルだ。
 それはこの「まだこれでも」が口語でもあるということだ。
 話し相手がいる。相手に話している。当然、ふたりは共通の「過去」を持っている。同じ時代を生きている。言わなくてもわかることがある。「まだこれでも」は、同じことがわかっているからこそ言えることばである。
 「ほら見えてきた、」も、場(街)への馴染みを感じさせる。「知っている」という感覚があふれている。「知っている」を共有するのがカヴァフィスの詩である。
 「立派なもんだ」「街さ」という語尾から口語とわかるものもあるが、「まだこれでも」のように、これといった特徴のない言い回しも、やはり口語であることに注意して読むとカヴァフィスの「呼吸」のようなものがわかる。
 「亡命者」は何をするか。

教会問題を論じることもある。
(ここの連中はどうもローマよりだな)
ときには文学も。
ノンノスの詩を読む日もある。
素敵なイマジャリー、リズム、言い回し、調和。

 「意味」ではなく、イマジャリー(イメジャリー)、リズムや言い回し、その調和を読む。これはカヴァフィスの本質と重なる。カヴァフィスはことばのリズムや言い回しによって、詩を演劇の一シーンのようにしている。リズムや言い回しによって、その話者の「過去」(肉体)を再現している。リズムや言い回しを工夫することで、登場人物の説明を省略している。
 その際「調和」を忘れないようにしている--そうつけくわえる必要がある。


リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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