詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アレハンドロ・ホドロフスキー監督「リアリティのダンス」(★★★)

2014-09-24 22:56:24 | 映画
監督 アレハンドロ・ホドロフスキー 出演 ブロンティス・ホドロフスキー、パメラ・フローレス、イェレミアス・ハースコビッツ、アレハンドロ・ホドロフスキー



 軍事政権下のチリの田舎町が舞台。子どもの視線と大人の視線、幻想(?)と現実がいりまじっていて、なんとも奇妙な映画である。
 「寓意」を感じる。
 で、この「寓意」を印象づけるののひとつが強靱な色である。
 ポスターにもなっている幼少期のアレハンドロ・ホドロフスキーと現在のアレハンドロ・ホドロフスキー監督が一緒に映っているサーカス小屋のシーン。少年は水色の服に金髪、監督は黒い服に白髪、背景は赤いテント。どの色にも濁りがない。汚れをはねつける強さがある。純粋がそのまま持続して結晶したような色だ。
 その色を見ていると、「寓意」とは結局、純粋化された「虚構」であることがわかる。現実の存在は、それ自身の色を持ちつづけようとしても他のなにかと接触することで汚れてしまう。色の輪郭があいまいになってしまう。そういう汚れを排除して、現実を純粋化して動かすと「虚構」になる。世界を動かしているものの「運動」そのものが浮かび上がる。「現実」の「ほんとう」の姿が「虚構」のなかに浮き彫りになる。
 もうひとつ、「寓意/虚構」を強調するものがある。
 母親の歌。母親の台詞は全部、歌になっている。ミュージカルのよう。現実にはそんなふうに歌う人間などいない。だから、これは「嘘(虚構)」なのだとわかるのだが、この歌もまた「色」と同じように、世間の汚れを拒み、純粋を守り通したひとつの形である。感情の純粋さ、一途さが歌になっている。
 象徴的なのが夫(少年の父親)が感染症(チフス?)に倒れたシーン。母親は夫に水をのませる。水は、尿。彼女自身の肉体で濾過した水。水を飲ませ、水で体を洗い、裸で夫を抱きしめる。そのときも彼女は歌いつづける。あらゆるものを受け入れ、あらゆるものを与える。そのとき、彼女の声が美しく響く。
 さらに、もうひとつ不思議なことがある。「寓意」につながるのかどうか、よくわからないのだが……。
 最初に幼年期の監督と、現在の監督が出てきて、少年に向かってものの見方を説明する。それを見ると、この映画の主人公は少年であり、監督の自伝映画のように見える。しかし、映画が進むと、主人公はいつのまにか少年ではなく、父親になっている。そして、その父親は、少年の知らないところで大統領暗殺をもくろんでいる。未遂に終わるが、実際に射殺しようとする。そして、その後、指が動かなくなり、少年とも妻とも違う場所で生きることになる。強かったはずの父は、そこでは弱い人間になっている。弱い人間になって苦悩している。あるいは、苦悩にめざめ、苦悩を受け入れていると言えばいいのか。
 それは軍事政権下のチリの「現実」だったのだろうと思う。その「現実」が少年の視点の「枠」から離れて、独立して動いている。少年の視点とは無関係のところで、父親の視点だけで動いている。
 これはなんとも奇妙な映画のつくり方だが、その奇妙なところが、逆にリアリティーになっている。ひとつの視点ではとらえられないものがある。そのことを語っている。ひとつの視点だ語ろうとすると矛盾する。だから、ひとつの視点を捨てて、父親の苦悩は苦悩として純粋に描くという方法をとっているのだ。
 この変な構造の世界をしっかりとつなぎとめるのが母親というのも、またおもしろい。夫は妻のもとへ、少年のもとへ戻る。その弱くなった夫を妻はそのまま受け入れる。--これは、チリの激変を受け止め、しっかり支えたのは、女性たちであるということを暗示しているのかもしれない。男は、理想のために(?)苦悩し、傷つき、敗北しながら勝利した。(最後に軍事政権が倒される。)女性たちは、その敗北し、勝利し、つまり傷ついた男を支え、新しい方向へ動きだすのを支えた。--こういうことは具体的には描かれているわけではないが、妻の描き方を見ると、そういう気がする。台詞を全部歌で歌ってしまう女。その「現実離れ」した姿が、結局「現実」を全部受け入れる方法だった。
 そして、その「現実離れ」した生き方があるために、映画で描かれるすべてが「リアリティー」あふれるものになる。炭鉱事故で身体障害になってしまった人に暴力と差別で向き合うということさえ、目を背けてはならない現実としてそこに描かれる。映画はリアルな人間の「本能」だけを鮮烈に描き、そのためにとった方法(たとえば障害者への差別や暴力)さえもエピソードに変える。
 強靱な精神力がつくりあげた、強靱な感覚の世界だと感じた。
                      (2014年09月24日、KBCシネマ2)

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粒来哲蔵『侮蔑の時代』(8)

2014-09-24 09:19:15 | 詩集
粒来哲蔵『侮蔑の時代』(8)(花神社、2014年08月10日発行)

 「妄執 1」は「作家故梅崎光生氏に」というサブタイトルがついている。私は梅崎光生の作品は読んだことがない。知らないことには触れずに、「妄執 1」を読むと、気になることがある。
 最初に蔓と木のことが書いてある。

 妄執は人を殺す。たとえば熱帯のある種の蔓は、恰好の巨木の幹
に凭りながらそれを巻き、巻き攀じて成長し、身をひねり、ねじり
にねじって遂に宿主の巨木を悶死させるという。
 腐ったまま菌類の餌食と変り果てた巨木の骸の洞から、どうかす
ると当の蔓の新芽の葉先が、木洩れ日を浴びてくねくねと体をくね
らせながら、なおも新たに身を委ねるに適わしい頃合の樹幹を探る
姿勢を見ると、それはもはや妄執としかいいようがない。

 これは大変美しい描写だ。美しいというのは、そこに書かれていることを超えて、それ以上のことを思うからだ。巨木と蔓のことが書いてあるだけなのだが、それが人間の姿に見えてしまう--人間の姿が見えたとき、そしてそれが「裸」の人間の姿だと、私は美しいと思ってしまう。「裸」というのは本能むき出しということである。ただ本能のままに生きている無防備の強さを私は美しいと感じる。
 だから、このあと詩が、

 見るがいい、新芽の葉先はまるでどこそこの女の光る舌のようだ。
もしかすると巻かれ巻かれて巨木は愉悦のうちに倒壊したのではあ
るまいか……。

 とつづくとき、いままで読んできたことが男と女の愉悦の行為のように思える。果てた後もなあ、さらなる愉悦を求めてうごめく本能、愉悦によってめざめた愉悦を見るような感じになる。こんな本能なら知らなければよかった、知ってしまったらもっと追い求めたくなる本能ならば。いや、まだ知り尽くしてはいない、知り尽くすまで追い求めなければ本能を生きたということにはならない。
 で、私はその先、どうしても男と女のことが書いてあるのだと思ってしまう。書いてあってほしいと思うのだが、ここから先が違うのである。
 一行空きのあと、詩は一転してルソン島をさまよう兵士のことを書きはじめる。彼は歯ブラシを大事にしている。いつでも歯を磨かずにはいられない。食べるものがなくなり、人肉を食う。食うが、体のなかの何かがそれを吐き出させる。吐いた後、男はさらに歯を磨く。
 そうやっているうちに、男は捕虜になる。缶詰の空き缶を差し出して米軍の給仕を受ける捕虜たち。それを自分の姿として見るようになる。
 その最後の段落。

 月夜だった。鎌の形の月の下で男は歯を磨かねばと思った。男は
上衣の内ポケットから歯ブラシを取り出そうと幾分身をかがめ、手
間どりながらも歯ブラシを引き出そうとした--がその時、俘虜監
視の米兵が、男が拳銃を取り出す仕草と見てとった。彼の銃が鳴り、
男の手の中のうす青い歯ブラシの柄は粉砕した。弾丸は男の胸を貫
き、男は血反吐を吐いて死んだ。米兵が来て男の屍を見下ろしてか
ら靴先で男を転がした--歯は磨けずじまいだった。

 男は歯を磨くことに固執した。そのために米兵から銃殺された。--このことと、最初に書いてあった蔓と巨木、巨木と蔓の関係がうまく重ならない。私のなかでは、何かがすれ違ってしまう。
 男にとって歯ブラシとはなんだったのか。蔓だったのか、巨木だったのか。男が巨木で歯ブラシが蔓だったのか。あるいは男が蔓で、歯ブラシが巨木だったのか。たぶん、こういう区別は無用なのだろう。区別がなくなっているのだ。
 セックスも、愉悦の瞬間、誰が誰であるかわからない。エクスタシーは自分からでてしまうこと。もう自分ではないのだから、それが誰であるか問うてもはじまらない。
 男が歯ブラシであり、歯ブラシが男なのだ。ほかには何もない。男と歯ブラシは、蔓と巨木を区別のできない「一体」とした、役割分担をしないまま「演じている」。「寓意」を生きている。
 引用しなかったが、ルソン島をさまよう途中に、

       男は歯を磨いた--というより口中でカチカチと歯
列をたたく歯ブラシの健気さに己の位相を確かめた。

という文が出てくるが「健気さ」と「己の位相」が「ひとつ」であるように、「寓意」のなかで「男」と「歯ブラシ」が区別のできないものになっているのだ。
 ルソン島をさまよっているとき、男は「愉悦」を生きているわけではない。けれど、男と歯ブラシは「愉悦」と同じものを生きていたのだ。「一体感」を生きてきた。--一体であることによって、互いを支えあって生きてきた。「片方」だけでは生きていけないのだ。

 読み返し、自分のなかでことばを動かし、考えると、そういうことがわかる。そして、これはすごい詩だと思うのだが、私は何かが怖くて、その「すごさ」の中へすーっと入っていくことができない。
 粒来が抱え込んでいる「怨念」のようなものに身がすくんでしまう。
 これを、私は受け止めなければいけないのだろうか。
 うーん、わからない。

 最後の一文、「歯は磨けずじまいだった。」も、すごいなあ。
 「男は」歯を磨けずじまいだった、のか。あるいは「歯ブラシは」歯を磨けずじまいだった、のか。
 常識的な「意味(文法)」にしたがえば、「男は」かもしれないが、「男」はすでに「歯ブラシ」と一体になっている(区別できない存在なのだから)、「歯ブラシは」とする方が、「妄執」に近いだろう。その「歯ブラシ」は、倒れた巨木から新しく芽生えた歯先のように、別な「男」を探しはじめる。
 そして、その探し当てられた「男」が粒来なのだ。
 だから、こうして詩を書いているのだが--と感想を書けば書くほど、何か、怖くなる。こんなすごい詩、こんなほんとうのことを書かれては困る、と臆病な私は思ってしまう。歯を磨くことがこわくなる。歯を磨くことが自分を生きる唯一の生き方になってしまうのは、こわいことだ。
 だが、極限では、そういう生き方しかできないのか。
 --これだな。私が「怨念」と感じてしまうのは。そういう「極限」を強いたものへの激しい怒り。怒りと読んでしまうと「既成の、流通の感情」になってしまってこわくないので、私は「怨念」と呼ぶ。粒来の書いているものを。

蛾を吐く―詩集
粒来哲蔵
花神社

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(187)(未刊・補遺12)

2014-09-24 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(187)

 「将軍の死」には複数の「声」があるように思える。

死は手を伸ばして
名将の眉に触れた。
夕刊が記事を載せた。
見舞い客が家に満ちた。

 この一連目はリズムがあって、省略と飛躍が各行を刺戟し合って、とても生き生きしている。特に「夕刊が記事を載せた。」が刺戟的だ。感傷を「事実」が洗っていく。「夕刊」という即物的なもの、俗物的なものが名将とぶつかる瞬間が、斬新で気持ちがいい。追いかけるようにやってくる「見舞い客が家に満ちた。」も乱暴でにぎやかだ。現代の詩であることを強く印象づける。

そと見は--沈黙と不動が彼をおおう。
内側は--生への羨望、死への脅え、愛欲のしがらみ、
愚かなしがみつき、腹立ち、畜生の思いの膿みただれた魂。

 これはあまりにも「現代詩」ふうのことばだが、動きが停滞していて、歯切れが悪い。カヴァフィスの特徴である世界を叩ききったような鮮やかさがない。
 最終連も、カヴァフィスらしくない。

重々しくうめいた。最後の息を吐いた。市民は口々に嘆いた。
「将軍去って市に何が残るか。
ああ、徳は将軍の死とともに絶えた」と。

 説明になってしまって、「主観」が動いていない。「市民は口々に嘆いた。」はカヴァフィスの「声」好みをあらわしているが、ことばが「声」になっていない。主観になっていない。「意味」になってしまっている。
 未刊詩篇の、補遺の作品は、習作という印象が強い。

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