詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粒来哲蔵『侮蔑の時代』(6)

2014-09-18 10:15:07 | 詩集
粒来哲蔵『侮蔑の時代』(6)(花神社、2014年08月10日発行)

 「哺育」は「天道虫」のことを書いているのか。そういう虫がいると聞いたことがあるような、ないような。背中にくぼみがあって、そこに別の虫が寄生している。それを背負ったまま大きくなった天道虫の「おれ」。そこに寄生している虫もだんだん大きくなって、やがて「おれ」の背の底部を割ってかじり始めた。

 突然おれの背の凹みから這い出た名も知らぬ漆黒の虫の巨大な頭
部が、カチカチと打ち鳴らす●み歯がおれの目一杯にひろがった。
何のことはない。おれは自らの死をもたらすものをいとおしみ、情
を注いてはぐくんで来たのだった。奴の両顎がおれの胴を絞めにか
かった。おれの背にある日凹みをうがち、それへ死を産みつけた奴
の顔が、おぼろげながら判って来た。おれは笑った。おれ自身のお
どおど顔が奴の目に映っている。その顔がおれの優しさと律儀さを
笑っている。と、--奴の歯牙がおれの両眼を突き刺した。
    (谷内注=「●み歯」の●は「金」偏に「交」のつくり)

 寄生と、それを育てるときの気持ちがていねいに書かれてきて、最後に、食われてしまうようすになるのだが、この部分がおかしくて、かなしい。

                 おれは笑った。おれ自身のお
どおど顔が奴の目に映っている。その顔がおれの優しさと律儀さを
笑っている。

 この部分が、特に印象に残る。「優しさ律儀さ」を自分自身で笑う。それがなかったら「おれ」は寄生されたままではななかっただろう。虫を振り落とし、自由に生きたかもしれない。まさか自分が「餌」になってしまうとは知らずに生きてきた--その「優しさと律儀さ」。
 これは現代の「格差社会」の寓話になるかもしれない。寓話として読むことができるかもしれない。やがて食いつぶされるだけなのに、律儀にはたらきつづけるしかない「非正規雇用」という名の酷い労働形態。いつでも廃棄されてしまう存在。自分が生きるのではなく、他者が生きる。他者が生きるために、その犠牲になる存在。
 ここにも「怨念」のようなものを感じる。「おれは笑った」に「怨念」を感じる。「怒った」よりも激しい「怨念」を感じる。
 なぜだろう。
 「絶対的な絶望」がある。

 「絶対的な絶望」というものを私はしたことがない。「 死をかけた絶望」を私はしたことがない。生きているのだから。
 粕谷も生きている。しかし、生きながら、その「絶対的絶望」をことばとして出現させてしまう。
 今回の詩集には、何か、粕谷が書いている以上のものがある。それは「書いている」ではなく「書かされている」という感じがする。私が「書かされている」のではないのだが、不思議な力が粕谷に憑依している。
 こんな書き方は(感想)は私の好みではないのだが、そう思う。

 いままで書いて来なかったもの、書いてきたけれど、そのことばからすりぬけてしまったものが(すりぬけされてしまったものが)、粕谷に逆襲してきて、乗り移っている感じがする。
 そして、その憑依してきたものに乗っ取られるだけではなく、粕谷はそれを鍛え上げてきた「文体」をつかって闘っている。負けまいとしている。その厳しい「闘争」も感じる。「闘争」の奥にたぎるエネルギーの美しさを感じる。「美しさ」と思わず書いてしまうのは「文体」の推進力がとぎすまされているというか、むだがないからだろう。
 とても不思議な詩集だ。

儀式―粒来哲蔵詩集 (1975年) (天山文庫〈5〉)
粒来 哲蔵
文学書林 落合書店

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(181)(未刊・補遺06)

2014-09-18 09:23:28 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(181)(未刊・補遺06)2014年09月18日(木曜日)

 「忘却」は四行の短いスケッチである。

  温室に閉じ込められた
ガラス・ケースの中の花たちは
  陽の輝かしさを忘れ
露けき涼風の吹き過ぎ行く心地を忘れている。

 「花」は何の花だろうか。カヴァフィスは明示せず、一般名詞のままにしている。これはカヴァフィスの「修飾語」の排除を好む気質のあらわれかもしれない。表面的な「個別性」よりも、その内部を支配している「普遍的」な運動を書きたいのかもしれない。
 花は、内部で何が起きたときに花になるのか。
 この詩では、逆説的に書かれている。
 太陽の輝かしさ、涼風の心地よさを「忘れる」ときに、花になる。温室の、しかもガラスケースに納められた花になる。
 自然の花はそれとは逆に、太陽の輝かしさを「覚え」、涼風の心地よさを「覚える」ときに花になる。花自身の「肉体」で「覚える」。外部にあるものを内部に取り込み、「覚える」。そして、花になる。

 この詩のことばのなかを動いているものにあわせて、「混乱」を読み直すとどうなるだろうか。
 「魂」が「肉体」の内部にあって、「肉体」の外にあるものを取り込んだとき「魂」は「魂」になるのではないだろうか。「魂」が「肉体」の外側にさまよい出るのではなく、内部にとどまり、「魂」の手には届かないものを「肉体」の手を借りて、「肉体」の内部に取り込んだとき、「魂」が「ほんとうの魂」に生まれ変わる--そういうことを書きたかったのかもしれない。
 「魂」は「肉体」からはじき出され、「魂」の欲するものを探している。しかし、それは「やっては来ない」。そして夢をかなえられなかった「魂」は「肉体」に返っていくだけである。「肉体」に返った「魂」は、やがて求めて手に入れることのできなかったものを「忘れる」。そうし、「ガラス・ケース」のなかの「魂」になってしまう。
 ほんとうは違う動き方、生き方があるのだ。けれどカヴァフィスはまだそれを手に入れるための方法を知らない。詩は、そのどうやってことばを動かせば必要なものが手に入るのか、わからないまま、さまよっている。

 あるいは自然のやさしさと暴力から隔離されている花を見て、その花はまだほんとうの美しさに達していない。本能を生きる美しさを手に入れていないよ--とささやきかけているのかもしれない。出ておいで、と誘っている、あるいはそそのかしているのかもしれない。そうならば、この詩は、触れることのできない相手をうたった男色の詩になる。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社

「リッツォス詩選集」(中井久夫との共著、作品社)が手に入りにくい方はご連絡下さい。
4400円(税抜き、郵送料無料)でお届けします。
メール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせ下さい。
ご希望があれば、扉に私の署名(○○さま、という宛て名も)をします。
代金は本が到着後、銀行振込(メールでお知らせします)でお願いします。
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パオロ・ソレンティーノ監督「グレート・ビューティー 追憶のローマ」(★★★★)

2014-09-18 00:41:22 | 映画
監督 パオロ・ソレンティーノ 出演 トニ・セルビッロ、カルロ・ベルドーネ、サブリナ・フェリッリ


 どうしてもフェリーニの「甘い生活」を思い出してしまう。畸型(と言っていいのかどうかわからないが、巨大に太った女、小人の女)や、ふつうはありえない場所での目立つ動物(雪の中の孔雀や廃墟の中のキリン)の影像。世界をサーカス(あるいはカーニバル)として見る視線が共通するからだろう。ただし、「グレート・ビューティー 追憶のローマ」の方が倦怠感が強い。それだけ時代が経過しているということか。フェリーニのころは、まだ倦怠も新しかったということか。
 それにしてもローマには倦怠が似合うなあ。ローマ帝国というのは、いまも生きているという感じがする。あまりにも偉大すぎる。もう、ローマにはすることがない。
 ということが、かつて偉大な小説「人間装置」を書いた主人公の姿と重なる。彼自身が偉大な遺産にあえいでいる。食いつくそうにも(食いつぶそうにも)、なぜか、食いつくせない。小説一作で、主人公のような生活ができるのかどうか、日本では不可能だろうけれど、ローマなら可能なのかもしれない。まわりの貴族(大金持ち)が主人公のパトロンになるからだ。貴族は金を使うことしかすることがないから、主人公にも金を注ぐ。つまり、それなりの仕事を与える。具体的にはジャーナリストの仕事を与える出版社が描かれているだけだが、主人公とまわりの人間の描写を見ていると、ほかにもそういうパトロンがいるのだろうという匂いが伝わってくる。一方で、金を失った落ちぶれていく貴族もいるが、主人公のまわりは、つかってもつかっても使い切れない金に飽き飽きしている。その浪費に、主人公はまきこまれて、やっぱりうんざりしている。
 まあ、こういうことは、どうでもいいな。
 この映画は、影像がともかく美しい。そしてその美しさは、カメラの視点で美しく見せる美しさではない。カメラは演技をしていない。--というと、カメラ(撮影者)に叱られそうだが、ローマという存在そのものが美しいのだ。どうとっても美しくしか撮れない。--というようなことはないのだが、そう感じさせるくらいに美しい。そこが、すばらしい。そこにある遺跡、建物、都会のすべてが、どのようにして美になってきたかを知っていて、その「時間」に共鳴するようにカメラを動かしている。「ローマ(都市)」の「時間」が演技するのを、カメラはそのまま「時間」の演技に任せている。
 冒頭に日本人の観光客が出てくるが(どう見ても中国人だが)、その観光客がカメラを持っている。その観光客が写した写真と比較してみるといい。映画には出て来ないから、自分がローマに行ったときに撮った写真と見比べてみるといい。明らかに違うはずだ。
あるいは、自分の記憶にあるローマと比較してみるとわかるはずだ。明らかに違うはずだ。
 日本からローマへ行ってローマの写真を撮ると、それはローマの「表面」しか映らない。「歴史(時間)」が映らない。ローマ帝国の時代から同じ建物を見つづけた人間の「視力」にはかなわない。ローマ人は、「時間」を見ている。時間を潜り抜けてきて存在するものを見ている。
 あ、これでは抽象的すぎるか。
 映画に即して言えば、主人公は、現実を生きながら「過去」をときどき思い出す。過去の「時間」を見る。たとえば、こどもたちが庭で鬼ごっこをする。そこに主人公は自分がこどもだったときの姿を見ているのだが、それは説明されない。主人公にとって、そしてローマ人にとって、現実を見ながら「過去」の「時間」を見るというのは、あたりまえのことなのだ。主人公が遊び回った庭が、いま、こどもたちが遊び回った庭である。その庭は「同じもの」ではないが、遊び回るこどもを受け入れる(こどもを遊ばせる)という「時間」のなかで「ひとつ」になる。主人公は、いまのこどもだけではなく、また自分のこども時代の姿だけではなく、もっと昔のこども(こどもという永遠)をそのまま見ている。
 こういうことのハイライトは、主人公がキャリアウーマン風の女と口論するシーンに象徴的に描かれている。女は、「母親と女の両方をこなしてきた」と自慢するが、主人公は女の「正体」をあばいて見せる。それは主人公が実際に見聞きした女の正体であるというよりも、永遠に変わらない「既成事実」としての正体なのである。言いかえると、主人公はその女の「過去」を知っているのではなく、いま目の前にいるような女になるためにはどういう「過去」が「ある」かを知っている。どういう「過去」が女をこんな女に作り上げるかを、「歴史(時間)」として知っている。それは主人公だけではなく、その場にいたすべての人間が知っている。知らないのは、「自分は特別である」と錯覚している女だけである。
 「時間」が「人間」をつくる。「時間」が「人間」を美しくする。その「時間」というものを主人公は知っている。この映画は知っている。
 そして、この倦怠に満ちた映画を、倦怠だけに終わらせていないのは、主人公の「過去の特別な時間」である。これは映画のオチのようなものであって、あまりおもしろくないのだが……。彼には忘れられない恋がある。実らなかった恋が、主人公を絶対的な倦怠からすくっている。主人公が天井に見る青い海がその象徴だが、これが非常に美しい。(ここから書きはじめると、また別の感想になるのだが、今回は書かずにおいておくことにする。)
                      (2014年09月17日、KBCシネマ2)


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