詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透『現代詩論集成1』(10)

2014-09-30 10:51:21 | 北川透『現代詩論集成1』
北川透『現代詩論集成1』(10)(思潮社、2014年09月05日発行)

 Ⅱ「荒地」論 戦後詩の生成と変容
 九 死者の棲む境からの帰還 北村太郎覚書

 「北村太郎覚書」に触れる前に「八 俗なる市民の行方 黒田三郎覚書」について書きそびれたことを少し補足。
 黒田三郎の詩について書かれていることがらで気になって仕方がないのは、黒田の「日常」を展開していったとき、それがどうして「俗」になるのか、あるいは「俗」では何が問題なのかがよくわからないということである。
 別な言い方をすると。
 北川は上手宰の論を批判するとき、上手の論そのものを展開して、上手こそが黒田を「腐肉」と読んでいると批判している。同じ方法を黒田の「日常」を描く方法でも展開できないのはなぜなのか、ということが問題として残る。
 「理念」と「日常(具体)」を比較して「日常」を「俗」と呼んでも、それが批判になるのかどうか私にはわからない。黒田の「日常」の描き方、それを積み重ねることで到達できる世界と、「理念」を踏まえた「日常」の描き方を対比し、「理念」から出発しない「日常」の描き方は「俗」になる、という形をとらないなら、それは「俗」を証明したことにはならないのではないだろうか。



 北村太郎について書かれた文章では、私は、次のところでつまずいてしまった。

《修辞の意味》が《存在》ということばであらわされること(正確には<存在>が修辞によってあらわされると言うべきだろうが)には、北村の思想が示されていると見てよいのである。( 205ページ)

 丸括弧内は北川が北村の「思想」について言いなおしている部分(補足している部分)なのだが、北村が

《修辞の意味》が《存在》ということばであらわされる

というのなら、「修辞の意味」が「存在」なのであろう。「修辞」以外に「存在」というものはない、ということにならないのか。

<存在>が修辞によってあらわされる

では、「正確」というよりは、「誤解」を招かないか。
 つまり、ある存在があり、それに対する修辞というものがある。「<存在>が修辞によってあらわされる」では、「修辞されることで、存在は、存在として浮かび上がる」ということにならないか。
 「美しい箱」ということばを仮定してみる。「箱」が「存在」であり「美しい」が「修辞」。
 北村は「修辞(美しい)」、「美しい」は修辞する行為(認識)こそが「存在している」のであって「箱」は存在しない(存在するにしろ、それは「美しい」と認識することの下位に置かれる)という「認識論」を展開していると思う。
 けれども北川の言い直しでは、「存在(箱)」が「修辞」によってあらわされると「誤解」されないだろうか。北川は「箱」を認識する「人間存在」のあり方が「美しい」という修辞行為によってあらわされると言いたいのだと思うけれど……。

 私は北村太郎をほとんど読んでいないので、よくわからないのだが、北川が引用している詩を読むと、なんだか落ちつかない。

 おおあの朝の充ちあふれた存在(あるもの)よ
 それがいまわかった
 釣りあげた魚をたたき殺して
 両手でつかんだときの
 固いあるものすべての色とない音
 思いがけない神のお許しのようなもの
 滅びることがたしかな一つのもの……             (「存在」部分)

 これは一九六四年の作品であるが、「存在」は、題名にはルビがふられていないが、作中では《あるもの》と読ませている。この《あるもの》とは、確実に手でつかむことができるような固い実在であり、しかも、神の許しのような形而上学的な影をもち、滅びることがたしかなものである。おそらく読者の誰もが、引用部分三、四行目の具体的な経験のことばから、この《存在(あるもの)》のリアリティを感じとることだろう。しかし、実は、その部分は、詩人の直接体験のことばではなく、修辞レベルの表現だったのである。そのことを北村は「ヘミングウェイの短編について」で明らかにしているわけだが、(略)  
 (205 - 206ページ、ルビを丸括弧であらわしたため原文とは表記が違っています)

 「ヘミングウェイ云々」はようするにヘミングウェイの短編を読み、そこにある表現にインスピレーションを得て書いた「修辞」であり、実体験ではないということを意味するのだが。
 その前半部分の「存在(あるもの)」についての把握が私と北川ではかみ合わない。北川は、「確実に手でつかむことができるような固い実在であり……」と抽象的なままことばを重ねているが、私は「存在(あるもの)」とは単純に「人間」のことだと思った。引用では省略したが、ヘミングウェイが小説のなかで「彼」と読んでいる男。それを北村は「存在(あるもの)」と書き直している。それだけのように思える。
 「存在」とは北村にとっては「人間存在(認識する主体)」であり、ふつう私たちが「人間」と呼んでいるもの。それを「存在」と言いかえるのは「認識する/修辞する主体」と言いたいためではないのか。「認識/認識行為(動詞)」が「存在」と言えばわかりやすいのに、北村は「認識」のかわりに「修辞」ということばをつかっているためにわかりにくくなっているような気がする。
 
 ことばの「定義」が、どうもかみ合わない。私は北川の書いていることの前でつまずいてしまう。私が北村をよく読んでいないためにおきる単なる「読解不足」なのだと思うけれど、少し気になる。
 たとえば、「荒地」との「詩的共同性」についてふれた部分。

北村太郎は、論理ではなく、イメージにおいて、あるいは修辞性において、もっとも個性的にうたうことができた詩人だからである。( 210ページ)

 この部分の「論理」と一般的にいう「論理」というよりも、「荒地の理念(鮎川信夫がリードした理念)」という感じのことを指していると思う。北村は、そういう「理念」からは離れる形で、人間をとらえなおしている。「理念」ではなく、人間が「存在(もの)」を、あるいは「世界」をどう表現できるか、その表現の仕方(修辞の仕方)に「人間存在」の全てがあらわれる。修辞の仕方を「理念」で統一することも可能かもしれないが、北村はそういう「理念の統一」を望まなかったということではないのか。

北村太郎における「荒地」以後とは、その破滅的観念を思想的に解体することではなく、あたかもそれが自然過程のよう、おのれの言語から、観念性を抜き取っていった過程と見ることができる。( 213ページ)

これらの詩句がみずみずしく張りつめているのは、観念を脱色した感覚が、いわば初めてのように、手の及ぶ範囲の世界を触覚し、観察しているからだ。( 214ページ)

 うーん、「観念性」というのものは、どんなところにもあるのではないだろうか。どこにでも「観念性」を見出すことはできるだろう。「観念性」のない表現というのはありえないだろう。
 ある表現に「観念性」がないとするなら、「観念」の定義が書いた人(北村)と読んだ人(北川)とのあいだで一致していないということだけのように私には思える。書いた人の「観念」と合致する「観念」を読んだ人がもっていないとき、そこに書かれている「観念」は見落とされる。ひとはだれでも自分の知っていること以外は知らないし、自分の見たいもの以外は見ない。
 北村が取り除いたのは、「荒地」の「理念(鮎川信夫がリードした理念)」という気がする。北村は、確立された「理念」によって世界をとらえるのではなく、自分の「感覚」で世界にふれ、そのとき動くことばの形(認識の形、その認識をあらわすための修辞)に「人間」そのものがあらわれる、「存在」があるということを実践したのではないのか。
 北川の北村論を読んでいると、そんなことを感じてしまう。北川の見ているのとは違った北村が見えてきてしようがない。



 誰の詩についても同じことがいえると思うが、その詩のなかに書かれている「感性」を動かしてみて、それがどこへゆくのかを確かめることは非常にむずかしい。そこに書かれている「感性」が自分の好みかどうかということは言えるが、その「感性」が次にどう動くかは、その「肉体」にしかわからない。「感性」は一瞬一瞬生まれるものだから、「矛盾」というものがない。
 「論理」は「感性」と違って動かしてみることができる。あるルールに従ってつくられている。出発点(土台)があって、その上にことばを積み重ねていく。「論理」は一瞬一瞬生まれ変わるものではなく、生まれ変わらないのが「論理」なのだ。「変わらない」を前提としているから、「変わる」と「矛盾」と非難されたりする。「齟齬」を来していると批判されたりする。
 「論理」は「頭」で処理することができるが、「感性」は「頭」だけでは処理しきれない。ここに詩を読むとき(批評するとき)のむずかしさがあると、私は感じている。

北川透 現代詩論集成1 鮎川信夫と「荒地」の世界
北川透
思潮社

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(193)(未刊・補遺18)

2014-09-30 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(193)

 「貨幣」はインドの文字を刻んだ貨幣について書かれた詩である。ただし、実際にその貨幣を手にしての詩ではなく、それについて書かれた本を読んでいるのだろう。「この物知りな本は」ということばが詩の中にあるから。その貨幣は、王国の名前が刻んであり、それは「この物知りな本」によれば、

エプクラチンタザ、ストラタガ、
マナントラザ、エアマイアザ。

 こういう固有名詞を並べる時、詩人は何を思っているのだろう。音のおもしろさ、知らない音に触れた時の不思議な感じが、それをそのまま引用させているのだと思う。そういう知らないものに触れた後、知っていることがあらわれると、「肉体」のなかに何かがめざめる感じがする。

だが この本はまた見せてくれる、
もう片面、そう、裏側に、王の姿を。
おお、ギリシャ人ならここで眼がぴたりと止まる。
そして感動する。ヘルマイオス、エウクラティデス、
ストラトン、メナンドロスとギリシャ語が続くからには。

 「音」のなかには「意味」以上のものがある。土地の名前、人の名前、その「音」から、それがどこか、何に帰属しているかがわかる。
 この詩は、インドの貨幣のなにかギリシャに通じる音(名前)を見つけ、インドとギリシャの交流(つながり)を発見し、喜んでいる詩であるという具合に読むことができるが、そういう「意味」よりも、私はカヴァフィスは音の発見に喜んでいるように感じる。
 インドにはインドの音があり、ギリシャにはギリシャの音がある。ギリシャの音はもちろんカヴァフィスには馴染みのものだが、インドの音に触れた後ギリシャの音に触れると、瞬間的に「眼がぴたりと止まる。/そして感動する。」ということが起きる。この瞬間のことをこそ、カヴァフィスは描きたかったのだろうと思う。
 それに先立つ一行、

もう片面、そう、裏側に、王の姿を。

 このリズムの躍動感。こころがすばやく動いている感じがそれを明瞭に伝える。読点「、」を多用した中井久夫の訳がすばらしい。感情の「意味」(主観)は、こういう呼吸の変化(読点のリズム)によって、「肉体」に迫ってくる。
 原詩(ギリシャ語)を知らずに書くのは無責任だとは思うが、この詩は中井久夫の訳によって、原詩よりも輝いていると思う。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社

「リッツォス詩選集」(中井久夫との共著、作品社)が手に入りにくい方はご連絡下さい。
4400円(税抜き、郵送料無料)でお届けします。
メール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせ下さい。
ご希望があれば、扉に私の署名(○○さま、という宛て名も)をします。
代金は本が到着後、銀行振込(メールでお知らせします)でお願いします。
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孤独が終わるのを感じた、

2014-09-30 00:33:22 | 
孤独が終わるのを感じた、

廃墟を背にした写真がある。
逆光のため顔がよく見えないが、肉体の輪郭から彼だとわかる。
裏面をつかって自家製の絵はがきにして送ってきた。
「その瞬間、孤独が終わるのを感じた。もう二度と孤独はやってこない。

二〇歳をすぎたばかりのときだ。
若い時代に突然やってくる老成したインスピレーションが書かせた、
ずるい智恵が感じられた。
彼は孤独を自分のなかに隠しただけである。モラトリアムである。

思考によって、つまりことばによって全てを支配しようとする意思はあっても、
彼の記憶はまだ現実を知らない。
未完成な虚構が、未完成ゆえに巨大さを誇示するのだが、
そのとき虚構と廃墟の輪郭が、なんともまあ、似てしまうことか。


*



新詩集『雨の降る映画を』(10月10日発行、象形文字編集室、送料込1000円)の購読をご希望の方はメール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせください。
発売は限定20部。部数に達し次第締め切り。
なお「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)とセットの場合は2000円
「リッツッス詩選集」(作品社、4400円、中井久夫との共著)とセットの場合は4500円
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」「リッツッス詩選集」「雨の降る映画を」三冊セットの場合は6000円
です。
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