詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

長嶋南子『はじめに闇があった』

2014-09-13 12:09:10 | 詩集
長嶋南子『はじめに闇があった』(思潮社、2014年08月06日発行)

 長嶋南子『はじめに闇があった』は傑作である。私はいつか『おばさんパレード』というタイトルで女性の書いた詩の感想をまとめたいと思っている。その「おばさん」の一人が長嶋南子だ。
 「おばさん」と呼ばれた女性は怒るかもしれないが、私は人を怒らせることが大好きなので(怒ると、そのひとの「ほんとう」がむき出しになってきらきら輝くから美しい)、平気で怒らせる。怒らせないとおもしろくない。
 「おばさん」は、強い。ともかく、強い。男の詩人は「おばさん」には勝てない。だいたいが「おじさん詩人」というジャンルがない。谷川俊太郎でさえ「おじさん詩」を書いていない。「おじさん詩(おやじ詩?)」というジャンルがないという、それだけでも、女性に負けている。詩に勝ち負けはない--かもしれないという人がいるかもしれないけれど、あるな、きっと。
 「おばさん」のどこが強いかというと、開き直りだ。
 男はばかだから、どうしても「論理」になろうとする。開き直れずに、つじつまをつけようとする。「論理的」なら他人に自分の意見(ことば)が通じると思っている。そうして、どんどん「論理」の矛盾に落ち込んで行く。
 でも「おばさん」はそういうことはしない。ことばをほうりだしてしまう。つじつまが合わなくても言い。存在するものは存在する。そこに存在するという「力」だけで世の中をわたっていく。存在するものを取りのけることはなかなかできない。そういうことを知っているのだと思う。だいだい世の中は矛盾でできていると悟っているので「論理」は適当に利用するけれど、それで身を守ろうとはしない。
 こういう抽象的なことは言いつづけても仕方がない。具体的に読んでいく。「創世記」。キリスト教の「創世記」をもじっている。(かどうかは、私は知らない。キリスト教徒ではないので、聖書も読んだことはない。でも、「世間」から聞こえてくる聖書のことばの感じに似ているので、これは聖書のパロディでもあるんだな、と思って読む。)

初めに部屋には鍵がつけられた
部屋のなかには大いなる闇があり
光あれといって電灯をつけた
昼と夜は逆転され
こうして夜があり朝があり 第一日

 長嶋の詩を何篇か読んだ人なら、これは「息子」のことを書いているんだな、と思う。読んでいない人も、この詩の主人公部屋に鍵をかけ、昼夜逆転の暮らしをしているんだな、いわゆるひきこもりという人間だな、と見当がつく。「世間」にあふれていることばが、そういう人間を想像させる。
 「光あれといって電灯をつけた」というのはキリスト教の「神」と関係があるか、ないか。まあ、どうでもいいが、そう言って電灯をつけたときから、そのひとは「神」になったのだ。絶対者になったのだ。もう、長嶋のいうことは聞かない。「神」なのだから。
 あ、この「神」の「意味」はキリスト教でいう「神」の意味とはちがうね。
 --という具合に、「非論理的」なのだが。
 つまり、この詩の中で「創世記」とか「光あれ」ということばを頼りに、何かキリスト教徒結びつけて「論理」を正しく動かそうとすると、奇妙にズレていくのだが。そして、男の詩人は、こういうズレをそのまま動かしていくというのがなかなかできないのだが。(唐十郎なら、できるかも。あ、唐は「おじさん」詩人、「おじさん」劇作家かもしれないなあ。)「おばさん」は平気。平気で動かしていく。「論理的」でなくてもいい。言いたいのは「これ」。言ったことがキリスト教の「論理」とあっているかどうかは関係ない。つごうの言い部分だけを、これでいいんじゃない? とほっぽりだして見せる。
 第一日は「光あれ」と言ったんだから、それだけで充分。
 あとは第二日、第三日と一週間つづけていけば「創世記」になる。一日が七回つづけば一週間になるという「論理」だけ、かっぱらってきて利用する。それで充分。

ついで空を飛ぶものとして文鳥を
つがいで飼い始めた
こうして夜があり朝があり 第二日

この部屋に根付くものをと願い
その通りになった
アロエ一鉢
こうして夜があり朝があり 第三日

 だんだん「世界」が充実してくる。部屋の中はごちゃごちゃしてくる。すべてが「思った通り」になる。「その通りになった」。「神」の思う通りに。
 でも、この「世界」のでき方が(誕生の仕方が)聖書どおりであるか(神の思う通りであるか)、わからない。そんなことは、どうでもいいのだ。「おばさん」は、どんな「世界」だって、だれかの「思い」を反映して「その通り」になっていくということを知っている。それは自分の思いどおりとはかぎらない。あたりまえである。だれも「おばさん」の言うことなんか聞きはしない。だから「おばさん」だって適当に世界と向き合う。

部屋には犬と猫 文鳥 アロエ一鉢
すべてを支配し名をつけた
こうして夜があり朝があり 第六日

部屋のなかはすべて完成し
祝して聖なる休日としてコンビニに走る
こうして夜があり朝があり 第七日

 できあがった「世界」に向き合う--つまり、受け入れる。
 あ、そうなんだ。「おばさん」はなんだかんだといって「受け入れる」。拒まない。「論理」というのは人を説得するときにつかわれるが、排除するときにもつかわれる。他人を動かし、支配するのに都合がいいように、適当にねじまげてつかわれるのが「論理」というものであって、それは「排除」のときもっとも有効である。たとえば、ひきこもりは非生産的な行動であり、社会の役に立たないから、社会の落伍者である--という具合にして人間をあっというまに「排除」する。
 「おばさん」は排除しない。いやなものも、嫌いなものも、いやだ、嫌いだと言ってはみても、それが存在していることは「許す」。好き嫌いの「感情(主観)」は主張するが、それを「客観」を装った「論理」にはしない。そして、あらゆる存在を許す。なぜなら、それは生まれてしまったからだ。生まれたからには、それはもう「おばさん」とは違う存在なのだから、別存在を自分の「論理」で制御することなんかできない。「肉体」からこどもを産んだ「実感」だな。
 なるようになる。させたいようにさせておく。
 でも、それだけでは癪だから、そういう奴は笑ってやる。

鍵のかかった部屋の前には母親だという女が
いつもご飯をおいていく
青年は部屋をみまわして満足して
深い眠りにつく
太りすぎた青年のからだからは
あばら骨は取り出せなかった
したがって女はつくられなかった

 太って醜くなって、当然女にはもてない。女はいない。バカな、息子。--この笑いは、豪快だけれど、かなしい。
 ここが、「おばさん」の微妙なところ。
 「びみょうな」とワープロで打とうとしたら、指がすべって「美味な」となって、あわてて変換しなおしたが、そのまま「美味な」ところとしてもよかった。
 ここが「おばさん」のおいしいところ。
 笑っても笑ってもかなしい。一度関係ができたものを捨てきれない。受け入れてしまう。「感情」がかかわってしまう。「肉体」がかかわってしまう。ほうりだしたいのに、そして実際にほうりだしたのに、見捨てない。ごちゃごちゃにしてしまう。「論理」の「整合性」をほうりだして、そこに「ある」ものを優先してしまう。

 さてさて。

 こんな、ごちゃごちゃ。こんな、めんどうくさいものを、どうやって世話していけばいいのだろう。どうやっていっしょに生きていけばいいのだろう。
 詩に則して言えば、どうやって「ことば」にしていけばいのだろう。
 生まれることができずに、うごめいている「ごちゃごちゃ」(混沌)をどうやって、ことばは「姿」にしていけばいいのか。
 ここから私は「大飛躍」をして、「感覚の意見」として「大嘘」を書いておく。
 「意味としての論理」ではなく、「こと」のリズム(音楽)で、世界を動かして見せる。この詩で言えば、「第一日」「第二日」「第三日」というような「論理」を偽装したリズムを利用する。繰り返せば、そこに「一週間」という「論理」ができあがるのだが、それはほんとうは「一週間」なんかではない。ただの「リズム」だ。
 さらに「その通りになった」「こうして夜があり朝があり」ということばを繰り返すことでリズムをつくる。リズムは自然に「時間」をつくる。「意味」とは無関係に、ひとつの存在形式ができあがる。「ある」ということが誕生する。
 「おばさん」は、こういうとき、ややこしい「概念」をつかわない。どこかから、変なことばを借りて来ない。知っていることばだけをつかって、「リズム」と「時間」をつくる。それにあう「ことば(音の響き)」を選びとる。「肉体」が覚えているものだけを、思い出して、つかう。そうすると、それが自然に「和音」になる。
 と、きょうのところは書いておく。
はじめに闇があった
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(176)(未刊・補遺01)

2014-09-13 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(176)(未刊・補遺01)2014年09月13日(土曜日)

 「恐怖」は1894年に書かれている。カヴァフィスが三十一歳のとき。詩の形は行頭がそろっていない。引用では揃えて引用する。

主キリストさま。夜中の
私のこころを 魂を 護ってくださいまし。
名も知らぬ怪物と物の怪が
まわりを徘徊しはじめ、
その血の通わない足が私の部屋に忍び入って
私の寝台をまわり、私を覗き込むのです。
私を凝視するのです。私に見覚えがあるかのようです。
私を震え上がらせるように声を出さずに大笑いするのです。

 この一連目では最後の行がおもしろい。「声を出さずに大笑いする」顔だけを「見ている」。その前の「覗き込む」「凝視」「見覚え」という「視覚」の連続。視覚が過敏になっている。視覚が聴覚を封じたのか。
 この視覚は、後半では、逆に動いている。

濃い暗闇の中には私をじっと見つめている眼が
いくつもございます。わかります。……
神さま、あいつらの眼から私の身を隠してくださいまし。

 目は目を呼び寄せる。--これを読むと、敏感な視力のせいで、聴覚がまひしていることがわかる。
 もし、声が聞こえたら、怖くはないか。そんなことはないだろうが、聞こえた方が自然なものが聞こえないと、その不自然さが恐怖をあおる。不気味な声で大笑いして、「私」を震え上がらせるよりも、聞こえない方が怖い。ひとは想像してしまうからである。聞こえないのに、その「声」を聞いてしまうのだ。
 「声」は後半で「耳」という形であらわれる。

あいつらが叫んでも話しかけても、そのいまわしい言葉が
耳にはいってきませんようになさってくださいませ。
魂の中まではいってきませんように。

 眼に(視覚に)過剰反応している、聴覚も突き動かされているのだが、「耳」が登場しない方が私は怖いと思うが、カヴァフィスはどうしても「声」と「耳」を書きたかったのかもしれない。聴覚、口語嗜好のカヴァフィスが、少し顔を出しているのかもしれない、この最後の部分は。「声」は魂のなかまで入って来る強いものだ、「声」が魂を動かすのだというカヴァフィスの嗜好が。

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