詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透『現代詩論集成1』(8)

2014-09-14 12:09:37 | 北川透『現代詩論集成1』
北川透『現代詩論集成1』(8)(思潮社、2014年09月05日発行)

 Ⅱ「荒地」論 戦後詩の生成と変容
 七 終末観の行方 中桐雅夫覚書

 中桐雅夫の作品を引用しながら、北川は書いている。「霊の年」の場合は桜木富雄のエッセイも引用し、桜木と北川の評価の違いも書いている。桜木は、「霊の年」を「悲壮美に連関して当時は読まれもした」と書いているのを踏まえて、

わたしの現在の眼には、この作品は<悲壮美>として移らない。戦死の意味を、石に刻まれた眼に比喩する知的で硬質な表出意識は、情緒的あるいは感傷的な感情を抑制しており、その意味では、戦死者をうたうという、もっとも戦争詩・愛国詩になりやすいところで、作者はモダニズムにとどまっている。言いかえれば、戦争のイデオロギイよりも、彼自身の固有なことばの感覚を優位において書いている。( 165ページ)

 ここで私は、「あっ」と叫んで、つまずいた。「戦争のイデオロギイ」というとき、北川はきっと「社会的に制約を受けた」という意味を含めている。つまり「社会的に制約を受けた戦争に対する考え方、意識」という意味で書いているのだと気付いた。それに対応させているのが「彼自身の固有なことばな感覚」なのだから。「社会的」に対して「個人的」という意味が北川の考えていることなのだろう。
 私は「社会的に制約を受けたイデオロギイ」とは思わず、「中桐自身の戦争イデオロギイ(戦争に対する考え方)」と思って読んで、うーん、意味が通じないと悩んだのだが、そうではなく「社会的」に対して「個人的」か。「イデオロギイ」に対して「固有な感覚(知的で硬質な表出意識)」か。
 「戦争体験」というのも、北川は「社会的」体験という意味で書いていたのか。私は「個人的」体験だとばかり思っていた。(これまで書いてきたことは、だから「誤読」なのだが、書き直してもしようがないので、そのままにしておく。)
 北川のことばは「社会」と「個人」を往復しながら動いているのか。
 ぼんやりと、わかったような気持ちになったが、実は、私にはよくはわかっていないのだろう。いろいろ気になることばにぶつかりつづけるから……。

 中桐について書いたことばのなかで、気になるのが「内在化」ということばである。「個人的経験」、「経験に高める理念化」というようなことなのかな?

Mの記憶は中桐の戦後の生を不安にする、あるいは解体する戦争の傷であるけれど、M の意思は内在化されないのだ。( 165ページ)

M(戦死者)の内在化のことを、もっと一般的に戦争体験の思想化の契機と言ってもよいが、それがなぜ中桐に稀薄なのか、長い間、わたしにはよくわからなかった。( 166ページ)

 これはMの意思(意識/思想)は中桐によって引き継がれ、より明確な理念(ことば)として結晶化されていないということなのだろうか。
 だが、このとき北川は「戦争体験」をどう定義しているのか。よくわからない。やはり「社会的な体験」と考えているのだろうか。個人の戦争の体験(友人を戦争で失った)ということを、「社会的な戦争の意味」と向き合わせながら、「社会的な戦争」に対する批判(理念、主義)にまで高めていないと言っているのか。つまり、中桐の書いていることは、「戦争に対する社会的批判」「戦争を引き起こした社会に対する批判」にまでなっていない、「思想」としては不十分ということなのか。
 でも、「思想」は「社会的」でなければいけないのだろうか--たぶん、この「思想」に対する考え方の違いが、私と北川の間には「障害」のように存在していて私は北川のことばを追いきれないのかもしれない。私には北川のつかう「思想」ということばはは、「社会的」という修飾語をあまりにも必要としすぎているように感じられる。それも理想の社会、理念が到達する社会としての「社会的」。北川の想定している理念から逸脱した社会は、そこからは排除されている。
 北川は、中桐の「思想化」の不徹底を、中桐の個人的体験、『海軍の父 山本五十六元帥』という国策評伝を書いたこと、それを自己批判しなかったことに見ている。自分の過去を批判しないので「戦後そのものを思想化する契機は失われた」( 168ページ)と言っている。
 それはそうなのかもしれないけれど。
 それは北川の求めている「思想」(戦争を批判し、戦後を理念的にリードすることば)と中桐の書こうとしている「思想」が違うということではないのか、と私は思ってしまう。過去の過失は隠したままにしておきたい、というのも「思想」であると思う。北川はそういう「思想」に与したくないということかもしれないけれど、だからといってそれが「思想」ではないとは言えないし、「思想化」されたことばではないとも言えないと私は思う。
 鮎川信夫とつきあうときと、中桐とつきあうときと、同じつきあい方をする必要はないだろうとも思う。人と人との関係は「個人的」なもの。「社会的」な基準(?)で整理しなくても……と私は思ってしまう。
 あ、だんだん脱線してきたなあ。

 この詩人が生き残った戦後という現実、そこでの経験が媒介された《全的な経験》からきているのではなく、終末的な現代という知識--それも知的な経験にはちがいないが--という場からきているように思う。( 170ページ)

 この《全的な経験》の「全的」というのも「社会的」ということなのかもしれない。個人的経験に対して「社会的経験」。
 この「社会的(全的)」経験に対して、「個人的」経験(しかも「知的な経験」)は「終末的」と呼ばれているように感じる。「社会的(全的)」経験は、きっと「未来的(建設的)」ということかもしれない。
 こういう対比に、私は、どうもひるんでしまう。
 建設的、未来的でなくても「思想」はあるのじゃないかと思う。それが好きな人もいる。暗くたっていい、とも思う。
 あ、また脱線しそう。

 よくわからないまま書くのだが、北川は「中桐雅夫の沢山の詩作品のうち、わたしがいちばん好きなのは「海」である。」と書く。( 160ページ)
 そうであるなら、その「好き」にとどまって中桐の「思想」について書いてくれればいいのになあ、と思う。北川はとどまって書いているつもりかもしれないけれど、私には好きといいつづけているようには感じられない。「終末論」と結びつけて批判しようとしているように思える。

 『会社の人事』については、北川はこう書いている。

世相の移り変わり、風俗、社会的な事件、底の浅い文化……などに対する直接的な反応、時にあらわに示された怒りの相貌に読者は驚いたが、それは思想的な根底をもった批評精神に発しているというより、彼の観念性を脱色した理想主義的な気質に発している、と考えた方が自然だ。( 178ページ)

 北川にとっては「思想」と「批評精神」は通い合うもののようである。「観念性」とも通い合うかもしれない。けれど「思想」は「気質」とは相いれない。うーむ。「観念性を脱色した理想主義的な気質」と北川は書いているが、「観念性を脱色する」というよりも「観念」が生まれてきていない状態の「気質」なのかも、と私は思う。そして、そういう「観念性」にまで達していない「気質」の方が、一人の人間(個人)にとっては「思想」なのではないかな、とも思う。変更できない本能、思考の本質ではないかな、と思う。「ことば」になっていない(共通言語かされていない)けれど、「肉体」でつよく感じているもの、そうするしかないもの、という気がする。


北川透 現代詩論集成1 鮎川信夫と「荒地」の世界
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(177)(未刊・補遺02)

2014-09-14 09:41:39 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(177)(未刊・補遺02)2014年09月14日(日曜日)

 「雨」は長い作品である。途中から女がでてきて、誘われるように子ども、老人も登場するのだが、人間が出てくる前の部分が美しい。

小さな中庭。
やせた木が二本。
そこに水は
田園風景のパロディをつくる--。
水はふるえる枝にしたたり、
枝は地肌を露わにし、
水は根にしみとおる、
樹液の涸れかけた根に。
水は葉にながれ
雫が糸とつらなる。

 「田園風景のパロディをつくる--。」は中庭を小さな田園風景に変えるということなのかもしれない。「パロディ」のことばが、「田園」そのものを否定しているようで、何かちぐはぐな印象を与える。(ちぐはぐなものを私は感じてしまう。)
 けれど、この「パロディ」という観念性が強いことばを取り除くと、雨と自然の交流は美しい。リッツオスの刈り込まれた描写を思い出すし、俳句も思い出してしまう。
 「いま/ここ」にあるものが、あるがままに共存して生きている。
 この美しい書き出しをさらに際立たせているのが「やせた木が二本」の「二」という数字だろうと思う。「二本」あることで、そこに「対話」がはじまる。
 水は雨になって、上から下へと動いていく。一方、実際に下までたどりついてしまうと、雨はさらに地中にまではいりこむ。そしてこの水は地中までしみ込んでしまうと、こんどは根に吸い上げられ、木の導管をとおって枝のすみずみにまでひろがる。そういう対話が自然に動いている。動きが対話になっている。
 この「二」が最後で「一」に変化していくところもおもしろい。「対話」が自分一人の思考に変わっていく感じ、思考を深めていく、感覚を研ぎ澄ましていくという感じに似ている。

窓の表面のあちこちに
雫が流れ
ほそい流れがひろがって
上るかに見えてたれ下がり行き、
一つ一つがしみとなり、
一つ一つが曇りをつくる。

カヴァフィス全詩集
コンスタンディノス・ペトルゥ カヴァフィス
みすず書房

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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