北川透『現代詩論集成1』(思潮社、2014年09月05日発行)
北川透『現代詩論集成1』は全8巻の1巻目。「鮎川信夫と『荒地』の世界」というサブタイトルがついている。私は鮎川信夫も「荒地」も読んだといえるほど読んでいない。北川透が書いている批評も、読んだといえるかどうか、あいまいである。『集成』の刊行にあわせて、少しずつ感想を書いていこうと思う。(私はいいかげんな人間なので、少しずつといいながら、あすはもうやめてしまうかもしれないが……。)
*
「戦後詩<他界>論 鮎川信夫の詩と思想を中心に」
ここでは北川は北村透谷から書きはじめている。「他界」という「観念」を最初に明確にしたのは北村透谷である。北川は、ことばの「定義」というか、「出典」を明確にして、そこからことばを動かしていく。とても説得力がある。でも、私はに、その「説得力」が、「説得する文体」が少し窮屈に感じてしまう。北川の文章を読んでいるのが、「説得するための文章」を読んでいるのかわからなくなる。「論理」に圧倒される。
対話している感じがしない。「論」が北川という人間を上回って押し寄せてくる感じに困ってしまう。(これは、それだけ北川の「論」が正しいということなのだろうけれど……。)
私は「あれっ、そこは変じゃない?」と、質問したい人間である。質問することで、自分の考えを見直しながら、相手に接近していく。そういうことが好きなので、ぐいぐいぐいと「説得」されると、「あ、すごいなあ」と感じながらも窮屈になる。私は「論」よりも人間の方が好き、人間に出会いたいのかもしれない。
この「戦後詩<他界>論」では、最後だけ、ちょっと違った。「えっ、そうなんだ」と思う部分があって、そこに北川を感じた。北川に質問したくなった。北川をとおして、ほかの多くのひとにも聞きたくなった。
鮎川の「あなたの死を超えて」という触れた部分。(50ページ)
私は、「死者の国の姉は、二十年前に死んで、いまは空中をさまよっている幼女である。」という文章に驚いた。考えたことがなかった。死んだら姉が年をとらないということを考えたことがなかった。つまり、姉は死んで二十年たっているなら二十歳年上になっていて、いまの<わたし>と交わるのだとばかり思っていた。
幼いときに死んだ人間で私が思い出せるのは、田舎の隣に住んでいた水頭症の少年しかいなくて、そうか、あの少年がおとなになった姿を思い浮かべたことはなかったなあ、と思いなおした。私が二十歳の頃死んだ兄は四十歳近かったが(こえていたかも)、思い出すのはそのときの兄であって、いまなら何歳になっているのか、その姿を思い浮かべないから、北川の書いていることは私の実感ともあう。私は勘違いしていたのだ。北川の書いていることは、とても論理的なのだ。正しいのだ。
正しいとわかった上で、私はそれにつづく「<わたし>も《昔の少年》に戻らなければ、死後の彼岸に住んでいる彼女と会うことはできない」という文章にさらに驚く。私は、「いまの<わたし>」が死んだ姉に会うと思っていた。そうなのか、<わたし>が過去へ戻るのか、そういう不可能なことをするのか。そうしないと論理的には姉に会えないのか。
で、それから、その不可能を「論理」としてことばにしたあと、北川はそれを積み上げて、
にたどりつく。
あ、すごい。「論理」はイメージに飛躍する。ことばでしかあらわすことのできないイメージ。その鮮烈さ。そうか、鮎川はそういうイメージを見て、それを書いていたのか--とはじめてわかった。
で、感動した後で、こんな質問をするのは野暮というか、変なのかもしれないけれど、「死者の国の姉は、二十年前に死んで、いまは空中をさまよっている幼女である」というのはほんとうかなあ。
感動があまりにも強烈すぎて、私の「肉体」のなかにぽっかりと空虚のようなものができる。そこへ疑問がふっと忍び込む。疑問が急にふくらんでくる。
鮎川は、幼女の姉が現れたから欲情したのかなあ。
私は、どうも、そんなふうに考えられない。
鮎川の欲情が先にあり、それが死んだ姉を呼び出す。鮎川は「いま」を生きていて、「いま」の肉体で欲情する。その欲情に呼び出されてくる姉は「二十年前」のままではなく、「いま」の姉ではないのだろうか。
と言ったのは誰なのだろう。
「いまの<わたし>」か「いまの(死後二十年たった、成長した)姉」か。どちらかわからないが、私には幼年期の二人とは考えられない。幼年期のふたりが、そんなことばを言うとは思えない。
人は、いや、私も死者のことを思い出すときは、その人が死んだ年齢でしか思い出さないから、北川の書いていることが正しくて、私の書いていることの方が間違っているのだが、その間違いを承知で、私は、その間違っていることを書いておきたい。間違っているとわかって、北川に質問したい。
ほんとうに幼年期のふたりが交わる、そしてそれが「身体にも魂にも属さない性の《交り》」なんだろうかと。
私は、肉体に属さない性の交わりというものをイメージできない人間なので、北川の書いている「論理」は「論理」として成立しているけれど、うーん、なじめない、きた川の書いていることはすごく感動的であるけれど、その感動にはなじめないと思ってしまう。
と、ここまで書いてきて思うのは、北川の論理の正確さ、論理の粘着力の強さのすごさである。
疑問を投げかける私がこんなことを書くと変かもしれないが、北川の論理の強靱さは「<わたし>も《昔の少年》に戻らなければ」ということばに象徴されるような、「過去」の重視、過去からの事実の積み上げの強さである。「過去」からひとつひとつ、事実をつみあげると、北川の書いているとおりである、と私も思う。
けれど、「いま」を真っ先に考えてしまう私は、その「過去」からの時間の積み上げに、何か窮屈な感じを覚える。
--これは私の「感覚の意見」であって、どうでもいいことなのかもしれないけれど。誰も書かないと思うので、あえて書いてみた。詩はもっと論理を逸脱したところで動いているように思えて仕方がない。
北川透『現代詩論集成1』は全8巻の1巻目。「鮎川信夫と『荒地』の世界」というサブタイトルがついている。私は鮎川信夫も「荒地」も読んだといえるほど読んでいない。北川透が書いている批評も、読んだといえるかどうか、あいまいである。『集成』の刊行にあわせて、少しずつ感想を書いていこうと思う。(私はいいかげんな人間なので、少しずつといいながら、あすはもうやめてしまうかもしれないが……。)
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「戦後詩<他界>論 鮎川信夫の詩と思想を中心に」
ここでは北川は北村透谷から書きはじめている。「他界」という「観念」を最初に明確にしたのは北村透谷である。北川は、ことばの「定義」というか、「出典」を明確にして、そこからことばを動かしていく。とても説得力がある。でも、私はに、その「説得力」が、「説得する文体」が少し窮屈に感じてしまう。北川の文章を読んでいるのが、「説得するための文章」を読んでいるのかわからなくなる。「論理」に圧倒される。
対話している感じがしない。「論」が北川という人間を上回って押し寄せてくる感じに困ってしまう。(これは、それだけ北川の「論」が正しいということなのだろうけれど……。)
私は「あれっ、そこは変じゃない?」と、質問したい人間である。質問することで、自分の考えを見直しながら、相手に接近していく。そういうことが好きなので、ぐいぐいぐいと「説得」されると、「あ、すごいなあ」と感じながらも窮屈になる。私は「論」よりも人間の方が好き、人間に出会いたいのかもしれない。
この「戦後詩<他界>論」では、最後だけ、ちょっと違った。「えっ、そうなんだ」と思う部分があって、そこに北川を感じた。北川に質問したくなった。北川をとおして、ほかの多くのひとにも聞きたくなった。
鮎川の「あなたの死を超えて」という触れた部分。(50ページ)
この姉と弟の近親相姦のイメージは、エロティシズムと呼ぶには、あまりにも退行的である。まず、死者の国の姉は、二十年前に死んで、いまは空中をさまよっている幼女である。そして、<わたし>も《昔の少年》に戻らなければ、死後の彼岸に住んでいる彼女と会うことはできない。死霊となっている姉。幼児期への不可能な遡行は<わたし>自身も死霊となっていることが前提となる。その先に身体にも魂にも属さない性の《交り》がイメージされている。
私は、「死者の国の姉は、二十年前に死んで、いまは空中をさまよっている幼女である。」という文章に驚いた。考えたことがなかった。死んだら姉が年をとらないということを考えたことがなかった。つまり、姉は死んで二十年たっているなら二十歳年上になっていて、いまの<わたし>と交わるのだとばかり思っていた。
幼いときに死んだ人間で私が思い出せるのは、田舎の隣に住んでいた水頭症の少年しかいなくて、そうか、あの少年がおとなになった姿を思い浮かべたことはなかったなあ、と思いなおした。私が二十歳の頃死んだ兄は四十歳近かったが(こえていたかも)、思い出すのはそのときの兄であって、いまなら何歳になっているのか、その姿を思い浮かべないから、北川の書いていることは私の実感ともあう。私は勘違いしていたのだ。北川の書いていることは、とても論理的なのだ。正しいのだ。
正しいとわかった上で、私はそれにつづく「<わたし>も《昔の少年》に戻らなければ、死後の彼岸に住んでいる彼女と会うことはできない」という文章にさらに驚く。私は、「いまの<わたし>」が死んだ姉に会うと思っていた。そうなのか、<わたし>が過去へ戻るのか、そういう不可能なことをするのか。そうしないと論理的には姉に会えないのか。
で、それから、その不可能を「論理」としてことばにしたあと、北川はそれを積み上げて、
身体にも魂にも属さない性の《交り》がイメージされている。
にたどりつく。
あ、すごい。「論理」はイメージに飛躍する。ことばでしかあらわすことのできないイメージ。その鮮烈さ。そうか、鮎川はそういうイメージを見て、それを書いていたのか--とはじめてわかった。
で、感動した後で、こんな質問をするのは野暮というか、変なのかもしれないけれど、「死者の国の姉は、二十年前に死んで、いまは空中をさまよっている幼女である」というのはほんとうかなあ。
感動があまりにも強烈すぎて、私の「肉体」のなかにぽっかりと空虚のようなものができる。そこへ疑問がふっと忍び込む。疑問が急にふくらんでくる。
鮎川は、幼女の姉が現れたから欲情したのかなあ。
私は、どうも、そんなふうに考えられない。
鮎川の欲情が先にあり、それが死んだ姉を呼び出す。鮎川は「いま」を生きていて、「いま」の肉体で欲情する。その欲情に呼び出されてくる姉は「二十年前」のままではなく、「いま」の姉ではないのだろうか。
「もし心胆にも魂にも属さない掟があるなら
わたしたちの交りには
魂も身体も不要です」
と言ったのは誰なのだろう。
「いまの<わたし>」か「いまの(死後二十年たった、成長した)姉」か。どちらかわからないが、私には幼年期の二人とは考えられない。幼年期のふたりが、そんなことばを言うとは思えない。
人は、いや、私も死者のことを思い出すときは、その人が死んだ年齢でしか思い出さないから、北川の書いていることが正しくて、私の書いていることの方が間違っているのだが、その間違いを承知で、私は、その間違っていることを書いておきたい。間違っているとわかって、北川に質問したい。
ほんとうに幼年期のふたりが交わる、そしてそれが「身体にも魂にも属さない性の《交り》」なんだろうかと。
私は、肉体に属さない性の交わりというものをイメージできない人間なので、北川の書いている「論理」は「論理」として成立しているけれど、うーん、なじめない、きた川の書いていることはすごく感動的であるけれど、その感動にはなじめないと思ってしまう。
と、ここまで書いてきて思うのは、北川の論理の正確さ、論理の粘着力の強さのすごさである。
疑問を投げかける私がこんなことを書くと変かもしれないが、北川の論理の強靱さは「<わたし>も《昔の少年》に戻らなければ」ということばに象徴されるような、「過去」の重視、過去からの事実の積み上げの強さである。「過去」からひとつひとつ、事実をつみあげると、北川の書いているとおりである、と私も思う。
けれど、「いま」を真っ先に考えてしまう私は、その「過去」からの時間の積み上げに、何か窮屈な感じを覚える。
--これは私の「感覚の意見」であって、どうでもいいことなのかもしれないけれど。誰も書かないと思うので、あえて書いてみた。詩はもっと論理を逸脱したところで動いているように思えて仕方がない。
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