粒来哲蔵『侮蔑の時代』(2)(花神社、2014年08月10日発行)
粒来哲蔵の今回の詩集は、なんといえばいいのか、「怨み」のようなものが漂っていて、感想を書こうとすると、少し怖い。粒来のことばに誘われて、とんでもないことを言ってしまいそうな気がする。言ってしまった方がいいのかもしれないけれど、私は、まだ言えない。
と、書くと……。
もうすでに粒来のことばに引き込まれているのかもしれないけれど、今回の詩集には、粒来の年齢にならないと言えないことが書いてあると思う。死が具体的に見えるようになって、その死に向かって、「これを書いたら死んでやる」と脅しているような感じがする。「死」そのものに対して「怨み」を吐き出しているような感じがする。
世間(人の世)に対する「怨み」なら、まだわかるような気がするが、「死」そのものへの「怨み」が、とても怖い。向き合っているのは「ひとり」だからである。まるで「一神教」の「神」と向き合って、己はこういう人間だと戦っている感じがする。最後の審判という「あれ」かな?(あ、私は「神」というものをあまり考えたことがないのだが、粒来をことばを読んでいると、なぜか、そう感じてしまった。)
この詩集とどう向き合っていいのか、とても怖い。
で、一呼吸おいて(きのう書くつもりだったが一日休んだ)、深呼吸して、あまり怖くない作品の感想から書くことにする。
「発光」。男が暮らしている荒屋。畳から茸が生えてくる。男の布団のまわりに。
「匂い」。嗅覚は原始的な感覚で、最後まで死なない(最後に死ぬ)感覚器官なのだと言われるが、「匂い」を吸い込むと、(この作品に書かれている「匂い」ということばを読むと)、体の奥に茸が生えてきそうな気がする。「匂い」なんか、かぐなよ。何の「匂い」かわからないなら、思い出そうとするなよ。さっさと、全部毟りとって、清潔にしてしまえよ、と言いたくなる。そんなことを言うなら、読むな、という声が聴こえてきそうだが……、私は、そんなことをするなよ、と言いながら、先を読みたくなっている。(こういう「矛盾」した感じで読んでいく、読まされるのが「傑作」というものだ。)
「味そのものは取り立ててどうこう言う程のものではなかった。」--私は、この文章が怖かった。この詩で最初に怖いと感じたのはここである。なぜ、怖いかというと「どうこう言う程のものではなかった」なら言わなければいいのだ。けれど、言ってしまっている。その「矛盾」が怖かった。
言わなくてもいいことを言う。
なぜだろう。
直接は関係がないのだが、そのあとの、茸を食って腹は充たされたが「空漠とした思いが後に残り」ということと、何か通い合う。言わないと「空漠とした思い」が残るのだ。呼吸する。空気を吸い込む。それを吐き出す。ことばにするとは、空気を吸って、それを音に変えて吐き出すことだが、吐き出しても何かが「残る」。それも「空漠」が残る。ないものが、残る。「言う程のものではない」という「無」が「空漠」として残る。
その「無が残っている」を、わざわざ、ことばにする--そこが、怖い。
そして、これは茸の匂いを嗅いだときの「肉体」の感覚に似ていると思う。茸の匂いが「肉体」のなかに入ってくる。吸い込んで、吐き出す。そのとき空気は吐き出されたはずなのに、「匂い」が「肉体」のなかに残る。「空気」はないのに、「匂い」が残る。この「残ったもの」を記憶というのかもしれないが、実体がなく「残る」というのは「空漠が残る」となんだか似ている。
「ない(空/空漠)」を考えることができるのはなぜか--とことばを動かしていくと、また違った問題になるが、「ない(空漠)」は何かで埋めないと「空漠」のままである。そういうことに人間は耐えられないかもしれない。だから「物思いに耽る」。何を考えるでもない。「結論」を出したいわけではなく、ぼんやりと「物思いに耽る」。
そうこうしているうちに、茸は音を立て、薫香を忠世わけ、白い光が見えてくる。それは次第に人間の姿になり、男は「匂い」が何かを思い出す。思い当たる。「とうの昔になくなっていた男の母の前掛の匂いだった。」--その母から、男は、母に庇護されて育ったことを思い出す。(3-4段落)
ここの部分は、ごく一般的な母とこの関係を思い出させる。「死」は母が死んでしまっているというところに出てくるが、こういう死は、あまり不気味ではない。ちょっと不気味さ、怖さが消える一瞬なのだが、そのあとの5段落目。
子どものときの、粒来にしてはありふれた情景だろう。(カドとはにしんの別称)
でも、私は、眼が吸い寄せられるようにして「情景」を見てしまう。そして、怖い、と感じる。何か、怖いものがあると感じる。
それは私が見たものではないのに、まるで見たことがあるかのように、思い出してしまう。
たぶん、母が魚の腹を裂いている、うろこが飛び散り、母の頬(肉体)に触れるということが怖いのだ。そこに死がある。魚の死がある、ということが怖いのだ。そして、うれしいのだ。怖いけれど、そしてそれを見たことはないのだけれど、自分のうれしい記憶のように感じてしまうのは、私も母が食べ物をつくるのを見たことがあるからだ。食べ物をつくる、食べるということは、何かの「死」を食べることである。
怖くて、しかしなつかしいという矛盾したものが、ここでは動いている。
「匂い(薫香)」はいつのまにか「カド臭い」と「臭い」にかわっている。--その知らない間の変化、--それが生きるということかもしれない。
最後の段落だが、その最後の最後「何もかもそれでよかった。」が不思議に怖い。ここでは、粒来は「怨み」を言っていないように見える。「よかった」なのだから、すべてを受け入れてるように見えるが、簡単に同意できない何かがある。「よかった」というより「しかたなかった」のように読んでしまう。「しかたなかったが、それでよかった」という一種の「否定」を含んでいるように思える。
人は生きる。そのとき、何かを食う。何かの死を食う。何かを殺して食う。--でも、そうやって生きてきた「男」を最後に食うのはだれなのか。だれも食わないのに、男だけが食うのか。
というようなことは、この詩に書いてあるわけではないのだが、そういう「運命(宿命)」を強いる何かに対して、粒来は「抗議」のようなものをしている。それが「怨み」の形に見える。「抗議」することで、その宿命を受け入れている。生きるとき、そこに「生」と「死」の拮抗がある--そういう存在形式そのものに対して「怨み」を言っているように思える。
この「怨み」は粒来のことばを借りて言えば「どうこう言う程のものではない」のかもしれない。ぼんやりした形で言われたときは。しかし、粒来の明確な文体で語られたとき、それは「匂い」のように「肉体」の内部に入り込み、そこに居ついてしまう。吐き出したくても吐き出せない。--こういう「感染」が、いちばん怖いのかもしれない。「感染」を引き起こす「文体」が怖いのかもしれない。
粒来哲蔵の今回の詩集は、なんといえばいいのか、「怨み」のようなものが漂っていて、感想を書こうとすると、少し怖い。粒来のことばに誘われて、とんでもないことを言ってしまいそうな気がする。言ってしまった方がいいのかもしれないけれど、私は、まだ言えない。
と、書くと……。
もうすでに粒来のことばに引き込まれているのかもしれないけれど、今回の詩集には、粒来の年齢にならないと言えないことが書いてあると思う。死が具体的に見えるようになって、その死に向かって、「これを書いたら死んでやる」と脅しているような感じがする。「死」そのものに対して「怨み」を吐き出しているような感じがする。
世間(人の世)に対する「怨み」なら、まだわかるような気がするが、「死」そのものへの「怨み」が、とても怖い。向き合っているのは「ひとり」だからである。まるで「一神教」の「神」と向き合って、己はこういう人間だと戦っている感じがする。最後の審判という「あれ」かな?(あ、私は「神」というものをあまり考えたことがないのだが、粒来をことばを読んでいると、なぜか、そう感じてしまった。)
この詩集とどう向き合っていいのか、とても怖い。
で、一呼吸おいて(きのう書くつもりだったが一日休んだ)、深呼吸して、あまり怖くない作品の感想から書くことにする。
「発光」。男が暮らしている荒屋。畳から茸が生えてくる。男の布団のまわりに。
手に取ってみると、茸は指の間で軽く折れ
た。匂いはあるようだったが定かではなかった。男はその匂いが多
年手荒く取り扱って来た指に染みた生活の匂いなのか、それとも茸
本来の匂いなのか判断はつかなかったが、何かを思い出させる匂い
ではあった。
「匂い」。嗅覚は原始的な感覚で、最後まで死なない(最後に死ぬ)感覚器官なのだと言われるが、「匂い」を吸い込むと、(この作品に書かれている「匂い」ということばを読むと)、体の奥に茸が生えてきそうな気がする。「匂い」なんか、かぐなよ。何の「匂い」かわからないなら、思い出そうとするなよ。さっさと、全部毟りとって、清潔にしてしまえよ、と言いたくなる。そんなことを言うなら、読むな、という声が聴こえてきそうだが……、私は、そんなことをするなよ、と言いながら、先を読みたくなっている。(こういう「矛盾」した感じで読んでいく、読まされるのが「傑作」というものだ。)
茸は男の手指程の長さになったので、摘んでまず生で食い煮て食っ
たが、味そのものは取り立ててどうこう言う程のものではなかった。
ただ毒性はなく、男の体調に変化はなかったから、男は続けて食う
ことにした。それで腹は充たされたが、いくら食っても空漠とした思
いが後に残り、男は食う途中で咀嚼を止めて物思いに耽ることもあっ
た。
「味そのものは取り立ててどうこう言う程のものではなかった。」--私は、この文章が怖かった。この詩で最初に怖いと感じたのはここである。なぜ、怖いかというと「どうこう言う程のものではなかった」なら言わなければいいのだ。けれど、言ってしまっている。その「矛盾」が怖かった。
言わなくてもいいことを言う。
なぜだろう。
直接は関係がないのだが、そのあとの、茸を食って腹は充たされたが「空漠とした思いが後に残り」ということと、何か通い合う。言わないと「空漠とした思い」が残るのだ。呼吸する。空気を吸い込む。それを吐き出す。ことばにするとは、空気を吸って、それを音に変えて吐き出すことだが、吐き出しても何かが「残る」。それも「空漠」が残る。ないものが、残る。「言う程のものではない」という「無」が「空漠」として残る。
その「無が残っている」を、わざわざ、ことばにする--そこが、怖い。
そして、これは茸の匂いを嗅いだときの「肉体」の感覚に似ていると思う。茸の匂いが「肉体」のなかに入ってくる。吸い込んで、吐き出す。そのとき空気は吐き出されたはずなのに、「匂い」が「肉体」のなかに残る。「空気」はないのに、「匂い」が残る。この「残ったもの」を記憶というのかもしれないが、実体がなく「残る」というのは「空漠が残る」となんだか似ている。
「ない(空/空漠)」を考えることができるのはなぜか--とことばを動かしていくと、また違った問題になるが、「ない(空漠)」は何かで埋めないと「空漠」のままである。そういうことに人間は耐えられないかもしれない。だから「物思いに耽る」。何を考えるでもない。「結論」を出したいわけではなく、ぼんやりと「物思いに耽る」。
そうこうしているうちに、茸は音を立て、薫香を忠世わけ、白い光が見えてくる。それは次第に人間の姿になり、男は「匂い」が何かを思い出す。思い当たる。「とうの昔になくなっていた男の母の前掛の匂いだった。」--その母から、男は、母に庇護されて育ったことを思い出す。(3-4段落)
ここの部分は、ごく一般的な母とこの関係を思い出させる。「死」は母が死んでしまっているというところに出てくるが、こういう死は、あまり不気味ではない。ちょっと不気味さ、怖さが消える一瞬なのだが、そのあとの5段落目。
男の夢の中で、母は前掛をしめ忙し
く立ち動いていた。母は男の好きなカドの腹を裂いて竿にかけ一夜
干しを作っていた。母の膝の近くにカドの入ったバケツがあり、母
はカドをつかんでその腹に指を入れていた。卵が散り、母の顔にう
ろこがはねた。母は笑っていた。この時も夢の中で男は母に駆け寄
った。カド臭い前掛が頬に触れた。
子どものときの、粒来にしてはありふれた情景だろう。(カドとはにしんの別称)
でも、私は、眼が吸い寄せられるようにして「情景」を見てしまう。そして、怖い、と感じる。何か、怖いものがあると感じる。
それは私が見たものではないのに、まるで見たことがあるかのように、思い出してしまう。
たぶん、母が魚の腹を裂いている、うろこが飛び散り、母の頬(肉体)に触れるということが怖いのだ。そこに死がある。魚の死がある、ということが怖いのだ。そして、うれしいのだ。怖いけれど、そしてそれを見たことはないのだけれど、自分のうれしい記憶のように感じてしまうのは、私も母が食べ物をつくるのを見たことがあるからだ。食べ物をつくる、食べるということは、何かの「死」を食べることである。
怖くて、しかしなつかしいという矛盾したものが、ここでは動いている。
「匂い(薫香)」はいつのまにか「カド臭い」と「臭い」にかわっている。--その知らない間の変化、--それが生きるということかもしれない。
男は独りで死んだ。茸だけが男の骸を取り巻いて静かだった。男
は白い光に包まれて、何かもの言いたげに口を開けていた。音の胸
に天井の隙間から淡い光が差し込んで、茸はつつましやかな花飾り
のように立っていた。--何もかもそれでよかった。。
最後の段落だが、その最後の最後「何もかもそれでよかった。」が不思議に怖い。ここでは、粒来は「怨み」を言っていないように見える。「よかった」なのだから、すべてを受け入れてるように見えるが、簡単に同意できない何かがある。「よかった」というより「しかたなかった」のように読んでしまう。「しかたなかったが、それでよかった」という一種の「否定」を含んでいるように思える。
人は生きる。そのとき、何かを食う。何かの死を食う。何かを殺して食う。--でも、そうやって生きてきた「男」を最後に食うのはだれなのか。だれも食わないのに、男だけが食うのか。
というようなことは、この詩に書いてあるわけではないのだが、そういう「運命(宿命)」を強いる何かに対して、粒来は「抗議」のようなものをしている。それが「怨み」の形に見える。「抗議」することで、その宿命を受け入れている。生きるとき、そこに「生」と「死」の拮抗がある--そういう存在形式そのものに対して「怨み」を言っているように思える。
この「怨み」は粒来のことばを借りて言えば「どうこう言う程のものではない」のかもしれない。ぼんやりした形で言われたときは。しかし、粒来の明確な文体で語られたとき、それは「匂い」のように「肉体」の内部に入り込み、そこに居ついてしまう。吐き出したくても吐き出せない。--こういう「感染」が、いちばん怖いのかもしれない。「感染」を引き起こす「文体」が怖いのかもしれない。
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