長嶋南子『はじめに闇があった』(2)(思潮社、2014年08月06日発行)
「創世記」。前回はちょっと端折って書き急いだかもしれない。この詩は「聖書」の「創世記」を利用している。パロディである。--と言っていいのかどうか、実は、聖書を読んだことがない私にはわからない。私は聖書を読んだことはないが、それでも神が一週間で世界をつくったということを伝え聞いている。世の中の大事なことはたいてい伝え聞くことができる。で、私は世間から伝わってくることをだいたい信じている。本や何かに書いてあることよりも。なぜかというと、世間からつたわることばというのは、世間の「肉体」を一度潜り抜けている。世間の「肉体」が、そのことばを「これでいい」(こんなものでいい)と肯定しているからであり、そこには「肉体」が存在する。「不定形」だけれど(あいまいだけれど、いいかげんだけれど)、生きている「肉体」がある。
その伝え聞いていることと、長嶋南子の書いている「創世記」は重なることがある。第一日からはじまり、第七日でおわる。その第七日が「休日」である、というのも重なる。一連目に書いてある、第一日に神が「光あれ」と言ったことも、聖書は読んだことがないけれど、知っている。それから世界が神が何かを欲して(何かを願った)、その欲した通りになった、ということもなんとなく知っている(つもりでいる)。だから、この作品を「創世記」のパロディであると思って私は読んでしまう。
前回、部分部分の引用だったので、今回は全行を引用してみる。
聖書の創世記の第一日、第二日、第三日……と長嶋のそれぞれがぴったり重なるかどうか、私は知らないが、知らなくてもぜんぜん気にならない。
そういうことよりも、私がたいたい知っていると思っていることと、長嶋の書いていることが重なるということが大事だ。知っていること、わかっていることに似ていることが書かれていると、それを信じてしまう。そして、そのことばが一定のリズムを持っていると、その「信頼」がさらに高まってしまう。繰り返されると、最初は「嘘」だったことも「ほんとう」になる。「ほんとう」と思い込んでしまう。「洗脳」というのは、こういうことかもしれないなあ。繰り返し繰り返し、同じことを言う。
「こうして夜があり 朝があり 第○日」ということばから、「こうして夜があり 朝があり」ということばを省略してしまっても、「第○日」に何かがあったということが変わるわけではない。それなのに、繰り返すのはなぜだろう。
同じことばがあることによって、「違い」が浮き彫りになる。「第一日」と「第二日」のちがいがはっきりする。そして、「違い」がはっきりするのに、同じことばでくくると、そこに「共通性」もあらわれる。「違い」をどんどん増やしながら、それを「共通」のなかに入れてしまう(共通)にしてしまうという変なことが起きる。
これはおもしろいなあ。
こんなことを書くとキリスト教徒から叱られるかもしれないが、そうか、ペテンというのはこんな具合に「同じことば」をどこかで繰り返しながら「違い」を「違い」ではなく、「必然」にしてしまうんだな。「偶然」を「必然」にかえ、「必然」を「自然」にしてしまうんだなあ、と思う。
「光」のかわりに「電灯」、何のかわりかわからないが、飛ぶものとして「文鳥」、それから「アロエ」「メダカ」「金魚」「白猫」「ミニチュアダックスフント」と、なんというか「俗物」(だれでも知っているもの)のたぐいが集められるのもいいなあ。神がつくったもの(選んだもの)はもっと「高尚」なものかもしれないけれど、「俗物」という感じが、庶民的(?)で、うん、これなら信じてもいいなあと思う。それに、全部、目に見えるようにわかる。全部知っているものばかり、さわったことのあるものばかりというのがいいなあ。ここに書かれていることが嘘だって、だまされたって、大した被害(?)にはならない。この安心感も、この詩の魅力だ。
最後の「あばら骨」はアダムとイブのことを書いているのだけれど、これは前回書いたので省略。こういう笑い(息子をバカにしている感じ)も、愛情があっていいなあ。受け入れている感じがいいなあ。
--というのは、長い長い前置きだったかなあ。
きょう書きたかったのは別なことだったのだが、書いているうちに、どんどん脇へ脇へとことばが動いていってしまった。
最初に書こうとしていたことは、もう半分以上忘れてしまっているが、なんとか思い出すと……。
この聖書の「創世記」と長嶋の息子の「創世記」が通い合うというところが、実は、とんでもなく「哲学的」であると思う。
「現代詩手帖」09月号で野村喜和夫が四元康祐の谷川俊太郎論を評価しておもしろいことを書いていた。(以前に「日記」に書いた。)井筒俊彦の言語論を援用しながら、谷川の詩を「はじめて世界的視野へと解き放つ」と書いていた。
それを読みながら私が思ったのは、すぐれた哲学ならどんなことばにも援用できるということである。井筒の言語哲学は、なんといっても哲学だから「普遍」を含んでいる。「普遍」というのは、いろんな個別の世界を支えているのだから、どんな個別も「普遍」を援用できる。でも、それは、その個別を世界的視野に解放するというようなものではないのじゃないだろうか。
たとえば、と私は、飛躍する。むちゃくちゃな「暴論」を書く。
たとえばキリスト教の「創世記」。それはすぐれた「文学」(叙述の形式)である。だから、長嶋南子はその形式を借りながら、彼女自身の「日常」(もう、いやになっちゃうよ)を描写する。
その長嶋の「創世記」を、だれかがキリスト教の「創世記」を援用しながら分析したら、それは長嶋の詩をキリスト教的な真実へと解放した(昇華した?)ということになるのだろうか。長嶋のことばはキリスト教の「創世記」の水準に達したといえるのだろうか。そんなことを言って、いったい何になるのだろう、と私は思う。
論理的に成り立つかどうかわからないのだが、(私は井筒俊彦の言語哲学にくわしいわけでもないのでいいかげんに書くのだが)、長嶋の引きこもりの息子を書いたこの詩のことばもまた、分節化が不可能な絶対無分節(母親の息子への愛情は、どんなに憎んでも愛しているという「分節」できないものを含んでいる)を日常のことばで分節化する、日常のことばへと言語化するすばらしい作品であると言えるではないだろうか。
だいたいが、詩というものは「分節化が不可能な絶対無分節」を「分節」し、「言語化」しているから詩なのではないのか。「あ、これこそ私が言いたかったこと(これは私が感じていたこと、言いたかったけれど言えなかったこと)」と思うのが詩ではないのか。
だから、とここでまた私は飛躍する。
この長嶋の詩を、私はキリスト教の「創世記」を想像しながら読んだけれど、だからといって長嶋のことばをキリスト教の「哲学(宗教)」そのものと結びつけて、評価したり、批判したりはしない。この詩に対して、キリスト教徒が「創世記を侮辱している、許せない」と批判したとしたら、ただ笑うだけだろう。また逆に日常をキリスト教の「創世記」にまで高めたという人があらわれても、ただ笑うだけだろう。
長嶋は、ただ知っている「創世記」のをあれこれを借りて、自分のことばを動かしてみただけ。動かすのに都合がよかったから借りてみただけ。もし長嶋に「哲学」があるとすれば、あるものは何でも利用すればそれでいい、という「かしこさ/ずるさ/智恵」である。おばさんの「実践哲学」である。「実践」というのは「真剣/手抜き/遊び」が「分節不能」の状態で入り乱れた世界である。
あ、きょうも何だか書きたいこととは違うことを書いてしまったなあ。
もっと楽しいことを書きたかったはずなんだけれどなあ。
「高尚」とか「理念」とかいうものから遠く、だれもが知っていることだけを土台にしてことばを動かしていくのは、いつでも「対話」へ向けてことばが開かれているようで、楽しい。そして、そんなふうに他者に対して開かれていることばの方が、「高尚」な「理念」のことばよりも、私には「哲学的」に感じられる。
「創世記」。前回はちょっと端折って書き急いだかもしれない。この詩は「聖書」の「創世記」を利用している。パロディである。--と言っていいのかどうか、実は、聖書を読んだことがない私にはわからない。私は聖書を読んだことはないが、それでも神が一週間で世界をつくったということを伝え聞いている。世の中の大事なことはたいてい伝え聞くことができる。で、私は世間から伝わってくることをだいたい信じている。本や何かに書いてあることよりも。なぜかというと、世間からつたわることばというのは、世間の「肉体」を一度潜り抜けている。世間の「肉体」が、そのことばを「これでいい」(こんなものでいい)と肯定しているからであり、そこには「肉体」が存在する。「不定形」だけれど(あいまいだけれど、いいかげんだけれど)、生きている「肉体」がある。
その伝え聞いていることと、長嶋南子の書いている「創世記」は重なることがある。第一日からはじまり、第七日でおわる。その第七日が「休日」である、というのも重なる。一連目に書いてある、第一日に神が「光あれ」と言ったことも、聖書は読んだことがないけれど、知っている。それから世界が神が何かを欲して(何かを願った)、その欲した通りになった、ということもなんとなく知っている(つもりでいる)。だから、この作品を「創世記」のパロディであると思って私は読んでしまう。
前回、部分部分の引用だったので、今回は全行を引用してみる。
初めに部屋には鍵がつけられた
部屋のなかには大いなる闇があり
光あれといって電灯をつけた
昼と夜は逆転され
こうして夜があり朝があり 第一日
ついで空を飛ぶものとして文鳥を
つがいで飼い始めた
こうして夜があり朝があり 第二日
この部屋に根付くものをと願い
その通りになった
アロエ一鉢
こうして夜があり朝があり 第三日
ついで水の生きものが群がるように
メダカ どじょう 金魚
生めよふえよ 水に満ちよ
こうして夜があり朝があり 第四日
ついで野の獣をと思う
その通りになった
白猫とミニチュアダックスフントがきた
こうして夜があり朝があり 第五日
部屋には犬と猫 文鳥 アロエ一鉢
すべてを支配し名をつけた
こうして夜があり朝があり 第六日
部屋のなかはすべて完成し
祝して聖なる休日としてコンビニに走る
こうして夜があり朝があり 第七日
鍵のかかった部屋の前には母親だという女が
いつもご飯をおいていく
青年は部屋をみまわして満足して
深い眠りにつく
太りすぎた青年のからたからは
あばら骨は取り出せなかった
したがった女はつくられなかった
聖書の創世記の第一日、第二日、第三日……と長嶋のそれぞれがぴったり重なるかどうか、私は知らないが、知らなくてもぜんぜん気にならない。
そういうことよりも、私がたいたい知っていると思っていることと、長嶋の書いていることが重なるということが大事だ。知っていること、わかっていることに似ていることが書かれていると、それを信じてしまう。そして、そのことばが一定のリズムを持っていると、その「信頼」がさらに高まってしまう。繰り返されると、最初は「嘘」だったことも「ほんとう」になる。「ほんとう」と思い込んでしまう。「洗脳」というのは、こういうことかもしれないなあ。繰り返し繰り返し、同じことを言う。
「こうして夜があり 朝があり 第○日」ということばから、「こうして夜があり 朝があり」ということばを省略してしまっても、「第○日」に何かがあったということが変わるわけではない。それなのに、繰り返すのはなぜだろう。
同じことばがあることによって、「違い」が浮き彫りになる。「第一日」と「第二日」のちがいがはっきりする。そして、「違い」がはっきりするのに、同じことばでくくると、そこに「共通性」もあらわれる。「違い」をどんどん増やしながら、それを「共通」のなかに入れてしまう(共通)にしてしまうという変なことが起きる。
これはおもしろいなあ。
こんなことを書くとキリスト教徒から叱られるかもしれないが、そうか、ペテンというのはこんな具合に「同じことば」をどこかで繰り返しながら「違い」を「違い」ではなく、「必然」にしてしまうんだな。「偶然」を「必然」にかえ、「必然」を「自然」にしてしまうんだなあ、と思う。
「光」のかわりに「電灯」、何のかわりかわからないが、飛ぶものとして「文鳥」、それから「アロエ」「メダカ」「金魚」「白猫」「ミニチュアダックスフント」と、なんというか「俗物」(だれでも知っているもの)のたぐいが集められるのもいいなあ。神がつくったもの(選んだもの)はもっと「高尚」なものかもしれないけれど、「俗物」という感じが、庶民的(?)で、うん、これなら信じてもいいなあと思う。それに、全部、目に見えるようにわかる。全部知っているものばかり、さわったことのあるものばかりというのがいいなあ。ここに書かれていることが嘘だって、だまされたって、大した被害(?)にはならない。この安心感も、この詩の魅力だ。
最後の「あばら骨」はアダムとイブのことを書いているのだけれど、これは前回書いたので省略。こういう笑い(息子をバカにしている感じ)も、愛情があっていいなあ。受け入れている感じがいいなあ。
--というのは、長い長い前置きだったかなあ。
きょう書きたかったのは別なことだったのだが、書いているうちに、どんどん脇へ脇へとことばが動いていってしまった。
最初に書こうとしていたことは、もう半分以上忘れてしまっているが、なんとか思い出すと……。
この聖書の「創世記」と長嶋の息子の「創世記」が通い合うというところが、実は、とんでもなく「哲学的」であると思う。
「現代詩手帖」09月号で野村喜和夫が四元康祐の谷川俊太郎論を評価しておもしろいことを書いていた。(以前に「日記」に書いた。)井筒俊彦の言語論を援用しながら、谷川の詩を「はじめて世界的視野へと解き放つ」と書いていた。
それを読みながら私が思ったのは、すぐれた哲学ならどんなことばにも援用できるということである。井筒の言語哲学は、なんといっても哲学だから「普遍」を含んでいる。「普遍」というのは、いろんな個別の世界を支えているのだから、どんな個別も「普遍」を援用できる。でも、それは、その個別を世界的視野に解放するというようなものではないのじゃないだろうか。
たとえば、と私は、飛躍する。むちゃくちゃな「暴論」を書く。
たとえばキリスト教の「創世記」。それはすぐれた「文学」(叙述の形式)である。だから、長嶋南子はその形式を借りながら、彼女自身の「日常」(もう、いやになっちゃうよ)を描写する。
その長嶋の「創世記」を、だれかがキリスト教の「創世記」を援用しながら分析したら、それは長嶋の詩をキリスト教的な真実へと解放した(昇華した?)ということになるのだろうか。長嶋のことばはキリスト教の「創世記」の水準に達したといえるのだろうか。そんなことを言って、いったい何になるのだろう、と私は思う。
論理的に成り立つかどうかわからないのだが、(私は井筒俊彦の言語哲学にくわしいわけでもないのでいいかげんに書くのだが)、長嶋の引きこもりの息子を書いたこの詩のことばもまた、分節化が不可能な絶対無分節(母親の息子への愛情は、どんなに憎んでも愛しているという「分節」できないものを含んでいる)を日常のことばで分節化する、日常のことばへと言語化するすばらしい作品であると言えるではないだろうか。
だいたいが、詩というものは「分節化が不可能な絶対無分節」を「分節」し、「言語化」しているから詩なのではないのか。「あ、これこそ私が言いたかったこと(これは私が感じていたこと、言いたかったけれど言えなかったこと)」と思うのが詩ではないのか。
だから、とここでまた私は飛躍する。
この長嶋の詩を、私はキリスト教の「創世記」を想像しながら読んだけれど、だからといって長嶋のことばをキリスト教の「哲学(宗教)」そのものと結びつけて、評価したり、批判したりはしない。この詩に対して、キリスト教徒が「創世記を侮辱している、許せない」と批判したとしたら、ただ笑うだけだろう。また逆に日常をキリスト教の「創世記」にまで高めたという人があらわれても、ただ笑うだけだろう。
長嶋は、ただ知っている「創世記」のをあれこれを借りて、自分のことばを動かしてみただけ。動かすのに都合がよかったから借りてみただけ。もし長嶋に「哲学」があるとすれば、あるものは何でも利用すればそれでいい、という「かしこさ/ずるさ/智恵」である。おばさんの「実践哲学」である。「実践」というのは「真剣/手抜き/遊び」が「分節不能」の状態で入り乱れた世界である。
あ、きょうも何だか書きたいこととは違うことを書いてしまったなあ。
もっと楽しいことを書きたかったはずなんだけれどなあ。
「高尚」とか「理念」とかいうものから遠く、だれもが知っていることだけを土台にしてことばを動かしていくのは、いつでも「対話」へ向けてことばが開かれているようで、楽しい。そして、そんなふうに他者に対して開かれていることばの方が、「高尚」な「理念」のことばよりも、私には「哲学的」に感じられる。
はじめに闇があった | |
クリエーター情報なし | |
思潮社 |