粒来哲蔵『侮蔑の時代』(5)(花神社、2014年08月10日発行)
「噛ませ犬」は、闘犬を勢いづかせるための、噛まれ役の犬である。話者は、その犬から生まれた子犬。母親は、もう年を取って噛ませ犬として仕事をすることもないのだが、ある日「蔑みと悪戯心」からいちばん狂暴な犬の相手をさせられた。
闘犬はあっと言う間に母親を倒し、つぎに「私(子犬)」に襲いかかった。そのとき、母親が反撃にでた。噛ませ犬ではなく、母親本来の姿になって、闘犬に反撃する。
私は、なぜか、酔ったような気分で読んでしまう。悲劇が起きているのだが、その悲劇に引き込まれる。「悲」劇だからだろうか、悲「劇」だからだろうか。
特に、最後の「飼主が調教師を叱りつけたので、調教師は母の骸を散々鞭うちました。」にうっとりして、ふるえてしまう。ひとはなぜ無抵抗なものに対して暴力をふるうのか。暴力をふるうことでしか自分の「肉体」のなかにあるものを解放できないのか。わからないが、そういう人間をみると、自分の「肉体」のなかで、何かが動くのを感じる。
「蔑み」というものかもしれない。しかし、この「蔑み」の対称となっている行為は、蔑まれるとこから生まれている。蔑まれて、それに反抗することが許されず、どうしようもない気持ちが高まってきて、誰か蔑むことができる相手を探し、蔑みながら暴力をふるう。どうすることもできない「循環」がある。
私は「闘犬」と、その「闘犬」を育てる場をみたことはないが、そしてまた死んだ犬を鞭打っている人をみたことはないが、こういうことがあり得るということが、「わかる」。--私が、粒来の描写(ことば)にうっとりして、ふるえて、しかも引き込まれてしまうのは、この「わかる」があるからだ。
なぜ、わかってしまうのだろう。
なぜ、こんな暴力は許せない。こんなことばで、人を不愉快にさせてはいけない。それは詩の仕事ではない--と「倫理的」に言えないのだろう。
人を(あるいは何かを)蔑んで、暴力をふるって、それで自分が偉くなったと思うのは間違っている--となぜ言ってしまえないのだろう。
私は何かを覚えている。その覚えていることを、自分のことばではっきりとは言えないけれど「肉体」が覚えている。蔑まれることの悔しさ、蔑むことの快感。それに耐えることの哀れさ。あるいは強さ。無感情の酷さ。--そういうことは、いちいちことばにしたくない。そういうものに気がつかないふりをしていたい。そして気がつかないようにしていたいために、ことばにしてこなかったのだが、だからといってそういうことを「体験」してこなかったわけではない。
自分が「体験」するだけではなく、他人がそういうことを「体験」しているのを「見る」(その場に立ち会う)ということもあったはずだ。ちょうど、この詩の「私(子犬)」のように。そして、また自分のために誰か(母)が必死になって闘う、というのもみたことがあるはずだ。「正義」のために仲裁に入った人間が、そこにいるひとの逆鱗に触れ、暴力をふるわれるというようなことも、私たちは知っている。
知っている、わかっている。けれど、これしかできないということがある。そのとき、私たちは、だれから「侮蔑」されているのだろう。「倫理」とか「理念」というような、何か「肉体」を蔑んでいるものによって「侮蔑」されているかもしれないなあ。
--こんなことは、粒来は書いていない。そこまでは、書いていない。書いていないけれど、私は考えてしまう。感じてしまう。
そして、いま、私は粒来に復讐されていると感じる。粒来の怨念が、私に復讐していると感じる。
私は粒来とは何の面識もない。ただ詩を読み、詩の感想を書いているだけにすぎない。私の感想が気に食わなかったとしても、だからといって怨念をかうようなことではないし、復讐されるようなことではない。
でも、感じてしまう。
そう感じさせるくらい、粒来のことばは、なまなましく動いている。
どんな「侮蔑」をものみこんでしまう「肉体」の強さのようなものがある。それも、私に対して復讐してくる。ひとは(犬は?)、あの母親のように、最後はだれかに復讐できるものなのだろうか。復讐することで自分を生き、そして子どもも生かすことができるものなのだろうか。--というようなことを書くと、何か、私のほんとうに感じていることとは少し違ってくる。そういう「倫理的」(?)な意味など、どうでもいい。(どうでもよくはないかもしれないが、私は、ここではどうでもいい、と書いておく。)
私は、この最後の連(ここだけ1行あきになっている)で、またぐいと粒来のことばに引きつけられた。
何が、どのことばが私を引きつけたのか。
「同じ」ということばが二回出てくる。「同じ」噛ませ犬、「同じ」くみ耳が裂け。けれど、この「同じ」はほんとうはさらに書かれているのである。省略されているが「同じ」が文章のいたるところに書かれている。
さらに、あの母は「同じく」、「同じ」母がいた--とつけくわえることができるかもしれない。「同じく」は一回限りのできごとではない。永遠につづいていることなのだ。そして永遠だからこそ、「同じ」ように「苦にはしていない」の「同じ」と「苦にしない」が犬の人間に対する侮蔑であり、復讐である。「同じ」を平然と生きることが、この犬の闘い方なのだ。その壮絶なあきらめのような力、あきらめているのに、「いま/ここ」にあるいのち。その瞬間が永遠だ。「永遠」はつづいているのではなく、いつでも「いま/ここ」にあり、それが「真実」ということなのだ。
侮蔑するものに対する最大の復讐は侮蔑されるものが永遠にあるということかもしれない。侮蔑しても侮蔑しても、侮蔑されるものは消えない。いつまでも「侮蔑する」という酷い行為をひとは終わることができない。--この哲学ほど、いま、ここに生きている人間に対する侮蔑はないだろう。侮蔑すること、差別することは、してはいけないことだとわかっていても、それをしてしまうのが人間なのだと言われているのだから。
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「噛ませ犬」は、闘犬を勢いづかせるための、噛まれ役の犬である。話者は、その犬から生まれた子犬。母親は、もう年を取って噛ませ犬として仕事をすることもないのだが、ある日「蔑みと悪戯心」からいちばん狂暴な犬の相手をさせられた。
闘犬はあっと言う間に母親を倒し、つぎに「私(子犬)」に襲いかかった。そのとき、母親が反撃にでた。噛ませ犬ではなく、母親本来の姿になって、闘犬に反撃する。
闘犬はたじろぎましたが奴も呻り声をあげ母に向って突進しまし
た。闘犬場全体に異様な空気がみなぎりました。全身を血に染めて
母は荒い息を吐いていました。調教師は鞭を持ったまま茫然として
立ちすくんでいました。そのとたん前脚で母の全身をなぶり気味に
転がす闘犬の、反りかえった腹と後脚をめがけて母は一撃を加えま
した。母は片目をえぐられ腹を裂かれ、腸を曳きずったまま敵の急
所を噛み切りました。それをくわえたまま母は死にました。喧騒の
中で猛り狂っていた闘犬も死にました。飼主が調教師を叱りつけた
ので、調教師は母の骸を散々鞭うちました。
私は、なぜか、酔ったような気分で読んでしまう。悲劇が起きているのだが、その悲劇に引き込まれる。「悲」劇だからだろうか、悲「劇」だからだろうか。
特に、最後の「飼主が調教師を叱りつけたので、調教師は母の骸を散々鞭うちました。」にうっとりして、ふるえてしまう。ひとはなぜ無抵抗なものに対して暴力をふるうのか。暴力をふるうことでしか自分の「肉体」のなかにあるものを解放できないのか。わからないが、そういう人間をみると、自分の「肉体」のなかで、何かが動くのを感じる。
「蔑み」というものかもしれない。しかし、この「蔑み」の対称となっている行為は、蔑まれるとこから生まれている。蔑まれて、それに反抗することが許されず、どうしようもない気持ちが高まってきて、誰か蔑むことができる相手を探し、蔑みながら暴力をふるう。どうすることもできない「循環」がある。
私は「闘犬」と、その「闘犬」を育てる場をみたことはないが、そしてまた死んだ犬を鞭打っている人をみたことはないが、こういうことがあり得るということが、「わかる」。--私が、粒来の描写(ことば)にうっとりして、ふるえて、しかも引き込まれてしまうのは、この「わかる」があるからだ。
なぜ、わかってしまうのだろう。
なぜ、こんな暴力は許せない。こんなことばで、人を不愉快にさせてはいけない。それは詩の仕事ではない--と「倫理的」に言えないのだろう。
人を(あるいは何かを)蔑んで、暴力をふるって、それで自分が偉くなったと思うのは間違っている--となぜ言ってしまえないのだろう。
私は何かを覚えている。その覚えていることを、自分のことばではっきりとは言えないけれど「肉体」が覚えている。蔑まれることの悔しさ、蔑むことの快感。それに耐えることの哀れさ。あるいは強さ。無感情の酷さ。--そういうことは、いちいちことばにしたくない。そういうものに気がつかないふりをしていたい。そして気がつかないようにしていたいために、ことばにしてこなかったのだが、だからといってそういうことを「体験」してこなかったわけではない。
自分が「体験」するだけではなく、他人がそういうことを「体験」しているのを「見る」(その場に立ち会う)ということもあったはずだ。ちょうど、この詩の「私(子犬)」のように。そして、また自分のために誰か(母)が必死になって闘う、というのもみたことがあるはずだ。「正義」のために仲裁に入った人間が、そこにいるひとの逆鱗に触れ、暴力をふるわれるというようなことも、私たちは知っている。
知っている、わかっている。けれど、これしかできないということがある。そのとき、私たちは、だれから「侮蔑」されているのだろう。「倫理」とか「理念」というような、何か「肉体」を蔑んでいるものによって「侮蔑」されているかもしれないなあ。
--こんなことは、粒来は書いていない。そこまでは、書いていない。書いていないけれど、私は考えてしまう。感じてしまう。
そして、いま、私は粒来に復讐されていると感じる。粒来の怨念が、私に復讐していると感じる。
私は粒来とは何の面識もない。ただ詩を読み、詩の感想を書いているだけにすぎない。私の感想が気に食わなかったとしても、だからといって怨念をかうようなことではないし、復讐されるようなことではない。
でも、感じてしまう。
そう感じさせるくらい、粒来のことばは、なまなましく動いている。
はい。私は母と同じ噛ませ犬としての道を歩いています。母と同
じく耳は裂け、腹毛はむしりとられて素肌が見えます。が、苦には
していません。何しろ私にはあの母がいたのですから--。
どんな「侮蔑」をものみこんでしまう「肉体」の強さのようなものがある。それも、私に対して復讐してくる。ひとは(犬は?)、あの母親のように、最後はだれかに復讐できるものなのだろうか。復讐することで自分を生き、そして子どもも生かすことができるものなのだろうか。--というようなことを書くと、何か、私のほんとうに感じていることとは少し違ってくる。そういう「倫理的」(?)な意味など、どうでもいい。(どうでもよくはないかもしれないが、私は、ここではどうでもいい、と書いておく。)
私は、この最後の連(ここだけ1行あきになっている)で、またぐいと粒来のことばに引きつけられた。
何が、どのことばが私を引きつけたのか。
同じ
「同じ」ということばが二回出てくる。「同じ」噛ませ犬、「同じ」くみ耳が裂け。けれど、この「同じ」はほんとうはさらに書かれているのである。省略されているが「同じ」が文章のいたるところに書かれている。
はい。私は母と同じ噛ませ犬としての「同じ」道を歩いています。母と同じく耳は裂け、「同じ」く腹毛はむしりとられて「同じ」く素肌が見えます。が、「同じ」ように苦にはしていません。何しろ私にはあの母がいたのですから--。
さらに、あの母は「同じく」、「同じ」母がいた--とつけくわえることができるかもしれない。「同じく」は一回限りのできごとではない。永遠につづいていることなのだ。そして永遠だからこそ、「同じ」ように「苦にはしていない」の「同じ」と「苦にしない」が犬の人間に対する侮蔑であり、復讐である。「同じ」を平然と生きることが、この犬の闘い方なのだ。その壮絶なあきらめのような力、あきらめているのに、「いま/ここ」にあるいのち。その瞬間が永遠だ。「永遠」はつづいているのではなく、いつでも「いま/ここ」にあり、それが「真実」ということなのだ。
侮蔑するものに対する最大の復讐は侮蔑されるものが永遠にあるということかもしれない。侮蔑しても侮蔑しても、侮蔑されるものは消えない。いつまでも「侮蔑する」という酷い行為をひとは終わることができない。--この哲学ほど、いま、ここに生きている人間に対する侮蔑はないだろう。侮蔑すること、差別することは、してはいけないことだとわかっていても、それをしてしまうのが人間なのだと言われているのだから。
儀式―粒来哲蔵詩集 (1975年) (天山文庫〈5〉) | |
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