詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粒来哲蔵『侮蔑の時代』(10)

2014-09-26 10:58:23 | 詩集
粒来哲蔵『侮蔑の時代』(10)(花神社、2014年08月10日発行)

 人にはわかっていることがある。わかっていることは、わからないことよりも説明がむずかしいかもしれない。自分で納得しているので、他人に説明する必要がない。「あれだよ」と言えば、「そうか、あれだったのか」と答えて自問自答は完結する。ところが「他人」には「あれだよ」では通じない。自分がわかりきっていることを、何も知らないだれかに説明するとき、何を言えば彼にわかってもらえるか、その「基準」のようなものが見当たらない。「あれだよ」と言われたとき、「あれだよ」ではわからないのだが、あ、この人は何かをわかっている、ということだけがわかる。
 まだるっこしいことを書いたが、「あるいは樽のようなものであるかも知れぬ」を読みながら、そう思った。
 粒来には「あるいは樽のようなものでもあるかも知れぬ」といったとき、「樽のようなもの」が何を指しているかがわかっている。けれど、突然、「樽のようなものかも知れぬ」と言われても、私にはわからない。何を指している? 「あるいは」という限りは、それは「樽のようなものではない」かもしれない。別な何かがあって、「あるいは」と言われている。--ということも、わかる。
 また、「あるいは」と言いなおさずにはいられないのは、それが粒来にとってとても重要なことだからである。「わかっている」。けれど、それは「正確」ではない。「正確」に近づきたい気持ちがあって、「あるいは」と言いなおさずにはいられない。--ということも、わかる。
 粒来が、大事な何かに向き合っていて、それを語ろうとしているということがわかるが、「それ」がわからない。「それ」がわからないだけ、「それ」を語りたいという粒来の思いがわかる。--矛盾した言い方になってしまうが。
 この「矛盾」は、この詩集についてまわる。そのために、私は「怨念」のようなものを感じる。きちんと晴らすことができない思い(明瞭に、正確にできない思い)が残っていて、そのために何かが隠されているような、その隠されているものこそ粒来の語りたいものなのに、そして粒来はそれを語っているはずなのに、私には「怨念」としかつかめない何か……。

 こんなことはいくら書いてもしようがないか……。
 詩を読むと、最初に「写真」が出てきて、その写真のなかには「女」がいる。でも、それは見えない。「女が確かにいた証拠に、さびれた木椅子の上に口と唇がのっている。」これは、記憶に残っている口と唇のことか。
 そう思っていると場面が変わり、「敵」が出てくる。
 それからまた場面が変わり、「樽」が出てくる。

 あるいは樽のようなものであるかも知れぬ。棒のようなものであ
るかも知れぬ。見えすいた嘘で固めた来し方の道。眺望は冴えたか、
はるか向うに浮かれ女の手指のような白浪は見えたか、溺れたか。
--まなじりを決して銃把を握った時眼前にいた敵なるものは後ろ
にもいて、いつもにたにた笑っていたのだ。がに股の大隊長が前へ
前へと叫びながら機銃一挺分の弾丸の全てを腹部に受けた時には、
覚えている、胴が千切れても血は一滴も出なかった。血は初めから
無かったのかも知れぬ。葉先の鋭い草っぱも吾らも一薙ぎに薙ぎ倒
されて、鳥もひとも泣き声一つ挙げなかった。その時この私に梅干
を一つ口に入れてくれた曹長殿!状況ヲ報告シマス。ヒトハイマセ
ン。立ッテイルノハ、ヒトノ影バカリデス……。

 突然、「あるいは樽のようなものであるかも知れぬ。」と言われる。「棒のようなものであるかも知れぬ。」と言いなおされる。
 何が?
 いちばん手直にあることばは、「見えすいた嘘で固めた来し方の道。」
 いままで歩いてきた「道」が「樽」、あるいは「棒」なのか。「棒」はまっすぐ(だけとは言わないが)で硬い。「歩いてきた道」は「棒」という比喩になるかもしれない。「棒」だから、あまり頼りにはならない、武器にはならないが。
 その「棒」と「樽」は似てはいない。「棒」は基本的に「長い」「細い」。中には木の繊維があるだけ。「樽」は「短い」「太い」、そして中に何か「入れている」(空っぽを入れていることもある)。「樽」も「棒」のように木でできている。
 「樽」が「棒」のように「歩いてきた道」の比喩だとすると、その「道」はどんな感じなのか。短く、丸いでは道にならない。「来し方」に注目するならば「過去」が「道」。そして、その「過去」が「樽」ということは、そのなかに「過去」が入っているということになるのか。
 何が入っている?
 何も入っていない。「血」さえも入っていない。ただ、銃に撃たれて死んでゆくという「運命」のようなものが入っているだけなのか。
 人は戦場で死んでいく時、何を見るのか。自分の人生が「棒」のようにはかなく折れる、大して長くもない「一本」の姿として見えるのか。あるいは何も入っていない空っぽの「樽」だったなあ、と思って死ぬのか。
 どちらにしろ、うれしい人生ではないなあ。

 間違って生きていて、それでは死者の数が合わないと死神に後頭
部を拳銃で撃ち抜かれた友よ。死んでなお侮られ蔑まれて、軍靴の
先で犬ころのように転がされた友よ。お情けに半分土をかけられた
墓穴は暗いか。闇は即ち樽の如きものか。ようやくにそこまできみ
を搬んだ末に吹きとんだ杖の所在を知っているか、それは折れたか
裂けたか、腐り果てたか……。

  ここに、また「樽」が出てくる。「棒」は「杖」に変わっている。「棒」を「杖」にして戦場を歩いてきた。歩いてきて、たどりついたところが「銃殺」された場所。そこで墓穴を掘られ、埋められる。墓穴は友の終のすみか。それは「樽」のようなものか。樽の中の「闇」。暗い闇。
 「友」の歩いてきた道(来し方)は「棒(杖)」のように銃弾を浴びて砕けたか、腐り果てたか。
 この友の一生を象徴するには「樽」がいいのか、「棒」がいいのか、わからない。わかるのは、その友のことを語る時、粒来は「樽」、あるいは「棒」を思うということである。その無念さは、「樽」や「棒」のように扱われてしまったということである。
 死んでもなお、「樽」「棒」と呼ばれて侮蔑される男--その「怨念」のようなもを感じる。

 最後にまた、冒頭の写真が出てくる。男がいる。女は、いた気配があるが、実際は写ってはいない。子どもがいる。男は「収容所還りの疥癬病み」のよう。男の子は震えている。そういう描写のあとに、

                            誰も
彼らを罰したわけでもないのだろうが、彼らは侮られ蔑まれる時を
待っている。カメラのシャッターを切ったひとは、写真の中にはい
ない。彼はとうに背景へと立ち去っていて、今しも聖なる袈裟衣を
脱いで笑っているところだ。

 「彼らは侮られ蔑まれる時を待っている。」と、この詩集のタイトルにつながることばが、またここに出てくる。「侮蔑」。
 だれから「侮蔑」されるのを待っているのだろう。
 「聖なる袈裟衣を脱いで笑っている」カメラマンか、あるいはその写真を見るだれかからか。
 それがわからないのと同じように、その写真を見た時、「侮蔑」されるのはほんとうに写真の中の人物なのか、それとも写真を見る人間なのか。
 「ことばの意味」だけで言えば、写真の中の男と少年、そしてそこには写っていない女(たぶん、男の妻)が侮蔑されているということになるのだろう。その男の歩いてきた道(樽/棒という比喩でとられられた過去)が侮蔑されていることになるのだろう。
 けれど、もし彼らが「侮蔑される」ことを待っているとしたら?
 もしかすると、それを見て「侮蔑」する私たちが侮蔑されるということになるかもしれない。



島幻記
粒来 哲蔵
書肆山田

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(189)(未刊・補遺14)

2014-09-26 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(189)

 「敵」はソフィストの「認識」を書いている。あるいは、ことば(認識)への評価の問題について書いている。名声は羨みの種を蒔く。「きみらには敵がいる」というコンスルに対してひとりのソフィストが答える。

「わたしどもと同世代の敵は大丈夫でございます。
わたしどもの敵は後から来るのでございます。新手のソフィストどもです。
われわれが老いさらばえて、みじめに寝台に横たわり、
あるものははやハデスに入った時です。今の
ことばとわれわれの本はおかしく思われ、滑稽にも思われましょうな。
敵がソフィストの道を変え、文体を変え、流行を変えるからでございます。
私たちも、過去をそういうふうに変えてきましたもの。
私らが正確、美的といたすものを
敵は無趣味、表面的といたすでございましょう。

 ことばはいつでも言いかえられる。批判される。新しい基準が提唱され、文体も変われば流行も変わる。それは自分たちがしてきこことと同じだ。同じことが繰り返される。それがことばの「歴史」なのだとソフィストは言っている。
 これは「意味」が非常に強い詩である。「意味」が強すぎて、おもしろみに欠けるが、カヴァフィスの実際の詩のことを思うと、興味深いものがある。カヴァフィスは歴史から題材を多くとっている。「墓碑銘」のようなものもたくさん書いている。それは、史実を踏まえながらも、カヴァフィスのことばで脚色されている。つまり、「過去の書き換え」をやっている。
 そうすると、カヴァフィスもソフィスト?
 あるいはソフィストというのは、一種の詩人?
 そうなのかもしれない。人のいわなかったことばを発する。人のいわなかったことばで人をめざめさせ、新しいことばの「流行」をつくる。--これはソフィストか詩人か、よくわからない。

 この作品は、そういう「意味」とは別に、奇妙なおもしろさがある。中井久夫の訳がかなり風変わりだ。「わたしども」「われわれ」「私たち」「私ら」と「主語」の表記が少しずつ違う。(引用の後の方には「私ども」も登場する。)ふつう、こういう「話法」はとられない。「主語」の書き方はひとつだ。
 これは中井久夫が「わざと」そうしたのだろうか。
 ことば、文体、表記は、常に変わるものである。そういうことを、のちのソフィストの実際として語るのではなく、いま/ここで話していることばさえ変わる。中井は、そういうことを「実践的」に提示して見せているのだろうか。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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