粒来哲蔵『侮蔑の時代』(7)(花神社、2014年08月10日発行)
「玩具考」にはしっぽが「ガラガラ」と鳴る動物が主人公(話者)として登場する。具体的な動物が何かわからない。粒来がこの詩を「寓話」として書いたのかどうかもわからないのだが、「寓話」を感じてしまう。つまり、そこに書かれていることがらを、そのことばの世界だけで完結させることはできずに、どうしても「現実の人間社会」と重なるものを感じ、そこに目を奪われてしまう。
「私」の息子には友達がいなかった。玩具をもたなかったからだ。私は息子のために玩具をつくってやった。しっぽをガラガラと鳴るようにしたのだ。息子は友達の仲間に入ることができた。
「人間社会」を感じてしまうのは、「多くの目は、なによ貧乏人のくせに--といっていた。」という文章があるからだ。この「なによ貧乏人のくせに」ということばは、詩の最初の方にも出てくる。息子は、女の子に、そうののしられていた。そして何もできずに立ちすくんでいた。
この本人の「人間性」とは無関係の属性による「差別」は、はたして動物の世界にあるのかどうかわからない。あるかどうかを考える以前に、どうしても「人間世界」の「差別」を感じる。こども(女の子)は平気で口にする。それは大人がどこかで口にしていることばの受け売りである。そして大人はことばでは直接いわず「目」で言うのだが、こうした「発言(言い方)」の構図そのものが「人間社会」であると感じてしまう。
粒来の書いていることばが、私の「肉体」が覚えていることを思い出させる。そのために、「寓話」と感じる。
そして、それを「寓話」と感じるとき、実は、私は「架空の動物(実在の動物かもしれないけれど)」を忘れて、自分自身の生活を思い出してしまう。「貧乏人」とののしられた過去を思い出してしまう。悔しさを思い出してしまう。私の「肉体」が、ここに書かれていることを「寓話」ではなく「現実」だと主張する。つまり、そのとき私は「動物」を見ていない。「動物」の「肉体」のなかに動いている「感情」を見てしまい、その「感情」が「肉体」をとなって動くのを「肉体」で感じてしまう、ということがおきる。
侮蔑されたものの反撃。それは「噛ませ犬」の「母犬」のように反撃する。その反撃のなかには「侮蔑に耐えて耐えてきた私らの種族の意地」がある。「動物」にも「意地」があるだろうけれど、このことばが「人間」を感じさせる。「耐えて耐えて」という繰り返しが作り上げた「意地」。「繰り返し」を覚えている「肉体」が育てる「意地」である。こういうことばが「人間の肉体」を感じさせる。
「寓話」を「現実」の根底にある「いのちのあり方(未生のいのち)」にまで引き戻す。架空の物語として受け止めるのではなく、いつでも生まれてくる現実の物語、ストーリーになる瞬間のような「場」へ私をつれていく。「肉体」そのものへと私を引き戻す。
その後の、誹謗者の攻撃の手ごころの加減なさ、暴走は「人間」だけがする暴走のようにも思える。
この詩には、さらにこの「寓話」を「神話」にまで昇華する強いことばが動く部分がある。
「死の予感」が「神話」を感じさせる。「物語」は「死」で完結する。「神話」も「死」で完結するのだが、その「死」が予感されたものであることが重要なのだ。感じるものへ向かって「肉体」が動く。感じることは、やめることができない。そして「予感」は「死」が完結した後も、生き続ける。「死」を思い出しつづける。「予感」はまだ存在しないものを感じることだが、死後は「死」が存在したことを思い出しつづけるのである。「死」があると、思い出しつづけるというのは--これは一種の矛盾で。
矛盾と書いてしまうのは。
「死」は、絶対に体験できないというか、「死」を体験して、それを書くことはできないという意味なのだが。「死」は常に予感でしかありえない。他人の「死」を思い出し、自分の「死」を予感する。自分の「死」の予感なかに、「人間の死」(本文にしたがえば「種族の死」)を予感し、その予感の緊張感が「人間(種族)」を「現実」から別の「場」(神話)へと高める。
この「神話」を「悲しみ」という激情で統一する時、それは「悲劇」になる。「怨念」と「悲しみ」がからみあって世界を作る。
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「玩具考」にはしっぽが「ガラガラ」と鳴る動物が主人公(話者)として登場する。具体的な動物が何かわからない。粒来がこの詩を「寓話」として書いたのかどうかもわからないのだが、「寓話」を感じてしまう。つまり、そこに書かれていることがらを、そのことばの世界だけで完結させることはできずに、どうしても「現実の人間社会」と重なるものを感じ、そこに目を奪われてしまう。
「私」の息子には友達がいなかった。玩具をもたなかったからだ。私は息子のために玩具をつくってやった。しっぽをガラガラと鳴るようにしたのだ。息子は友達の仲間に入ることができた。
しかし問題がおきてしまった。私の息子のそれにクレームをつけ
る輩がいたのだった。音がうるさいというのだ。形状が醜いという
のだ。当たり前だ。作者の私はずぶの素人にすぎない。不器用は昔
からだ。それがどうしたと息まいてはみたが、どうにもならなかっ
た。多くの目は、なによ貧乏人のくせに--といっていた。私と息
子の尻尾のガラガラは野風に吹かれて、空疎な音をたてるだけだっ
た。
「人間社会」を感じてしまうのは、「多くの目は、なによ貧乏人のくせに--といっていた。」という文章があるからだ。この「なによ貧乏人のくせに」ということばは、詩の最初の方にも出てくる。息子は、女の子に、そうののしられていた。そして何もできずに立ちすくんでいた。
この本人の「人間性」とは無関係の属性による「差別」は、はたして動物の世界にあるのかどうかわからない。あるかどうかを考える以前に、どうしても「人間世界」の「差別」を感じる。こども(女の子)は平気で口にする。それは大人がどこかで口にしていることばの受け売りである。そして大人はことばでは直接いわず「目」で言うのだが、こうした「発言(言い方)」の構図そのものが「人間社会」であると感じてしまう。
粒来の書いていることばが、私の「肉体」が覚えていることを思い出させる。そのために、「寓話」と感じる。
そして、それを「寓話」と感じるとき、実は、私は「架空の動物(実在の動物かもしれないけれど)」を忘れて、自分自身の生活を思い出してしまう。「貧乏人」とののしられた過去を思い出してしまう。悔しさを思い出してしまう。私の「肉体」が、ここに書かれていることを「寓話」ではなく「現実」だと主張する。つまり、そのとき私は「動物」を見ていない。「動物」の「肉体」のなかに動いている「感情」を見てしまい、その「感情」が「肉体」をとなって動くのを「肉体」で感じてしまう、ということがおきる。
凶事はこの後おきてしまった。わが子が他者からの侮蔑に耐え
きれず、相手を噛んでしまったのだ。大した傷ではなかったはずだ
が、侮蔑に耐えて耐えてきた私らの種族の意地が、息子の血となり
毒となって誹謗者を再起不能におちいらせて了った。息子は激昂し
た者たちに打ちのめされ頭をたたき割られて、地に長々とのびてし
まった。私はわが子の名を呼んだが答えるはずがなかった。わずか
に立てたか細い尻尾の先の小さな玩具が、あのガラガラが風に鳴っ
た。
侮蔑されたものの反撃。それは「噛ませ犬」の「母犬」のように反撃する。その反撃のなかには「侮蔑に耐えて耐えてきた私らの種族の意地」がある。「動物」にも「意地」があるだろうけれど、このことばが「人間」を感じさせる。「耐えて耐えて」という繰り返しが作り上げた「意地」。「繰り返し」を覚えている「肉体」が育てる「意地」である。こういうことばが「人間の肉体」を感じさせる。
「寓話」を「現実」の根底にある「いのちのあり方(未生のいのち)」にまで引き戻す。架空の物語として受け止めるのではなく、いつでも生まれてくる現実の物語、ストーリーになる瞬間のような「場」へ私をつれていく。「肉体」そのものへと私を引き戻す。
その後の、誹謗者の攻撃の手ごころの加減なさ、暴走は「人間」だけがする暴走のようにも思える。
この詩には、さらにこの「寓話」を「神話」にまで昇華する強いことばが動く部分がある。
息子よ。父は玩具を作った。お前はそれを悦んだ。それが何故大
方の気色を暗処へと押しやったのか。蔑まれ罵しられ耐えに耐えて
耐えかねてお前は他者に牙をむいた。われらの種族は窮地に在って
口を開け、真紅の喉を見せる時は、己れの死を予感する時だと知っ
ていたか。だから世の大方の良識人に歯を向けた時お前は半ば死ん
でいたのだ。何の昂奮があっただろう。その口も喉も心臓さえも冷
えきっていて、ただ目だけが眼前の敵に向かって種族の意地を貫き
通すべく冴えかえっていたに違いない。
「死の予感」が「神話」を感じさせる。「物語」は「死」で完結する。「神話」も「死」で完結するのだが、その「死」が予感されたものであることが重要なのだ。感じるものへ向かって「肉体」が動く。感じることは、やめることができない。そして「予感」は「死」が完結した後も、生き続ける。「死」を思い出しつづける。「予感」はまだ存在しないものを感じることだが、死後は「死」が存在したことを思い出しつづけるのである。「死」があると、思い出しつづけるというのは--これは一種の矛盾で。
矛盾と書いてしまうのは。
「死」は、絶対に体験できないというか、「死」を体験して、それを書くことはできないという意味なのだが。「死」は常に予感でしかありえない。他人の「死」を思い出し、自分の「死」を予感する。自分の「死」の予感なかに、「人間の死」(本文にしたがえば「種族の死」)を予感し、その予感の緊張感が「人間(種族)」を「現実」から別の「場」(神話)へと高める。
この「神話」を「悲しみ」という激情で統一する時、それは「悲劇」になる。「怨念」と「悲しみ」がからみあって世界を作る。
息子よ。打ちのめされ、長々と地に腹這って動ないわが子よ。父
は玩具作りを諦めまい。貧しさから脱け出せる日まで(そんな日は
決して来ないが--)父は子にも孫にも尻尾にガラガラを付けて貰
う。食足りて安寧を貪る良識ある人々に、われらは尻尾を鳴らしな
がらこういおう。日の当たる場所で鼻毛を抜いている幸福人よ。私
たちはいつも君の踵の裏の冷たい影の中で、牙をむき、毒嚢をふく
らませ、そして飛びかかる一瞬ためらうふりをしながら尻尾を一閃
させてガラガラを奏でるだろう。聞きたまえ、貧しき者たちの安ら
ぎの唄を--と。
息子よ。これでいいか。いいといってくれ--。よかったら幻の
尻尾を振ってガラガラを鳴らしてくれ--。
粒来哲蔵詩集 (1978年) (現代詩文庫〈72〉) | |
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