詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ビレ・アウグスト監督「リスボンに誘われて」(★★★★)

2014-09-22 10:28:39 | 映画
監督 ビレ・アウグスト 出演 ジェレミー・アイアンズ、メラニー・ロラン、ジャック・ヒューストン、マルティナ・ゲデック、シャーロット・ランプリング

 高校の教師が一冊の本に出会い、作者に会いたくなり、本を片手にリスボンをさまよう。本の一部が朗読され(ことばで説明され)、それを追いかけるようにして本の内容が実写で回想される。私は、こういう「文学臭」の強い作品は好きではない。
 だが。
 うーん、引き込まれた。予想していた「文学臭」を感じなかった。
 いちばんの魅力はジェレミー・アイアンズの声。彼が読む本(小説)の断片が、作者がしゃべっているように、「肉声」として響いてくる。内容は、人が出会ったとき、その出会いは互いの内部に何かを残す。それはなくならない。人はいつかそれを探しに来る。そうやって自分を見つける--というような、非常に抽象的、哲学的なことがらなのだが、それがわざとらしくない。アナウンサーのように輪郭のしっかりした声だとわざとらしくなるのだが、ジェレミー・アイアンズの声はソフトに荒れている。(変な表現だが)。すらすらと読むというよりも、考えていることをことばを選びながら思い出しているという感じがする。「考えていることを思い出す」というのも奇妙な言い方だが、一度「肉体」のなかで反芻して確かめて、それから思っていることを息に載せて声にするという感じ。
 そして、この一度「肉体」で反芻するということと、他人の(小説の中の登場人物たちの)肉体が静かに重なる。他人の物語を読んでいるのに、どこかで自分の体験と重なる部分を探している。自分もそうすればよかったのに……という感じ、「一体感」が、声のなかで出合って、重なって、ゆれる感じが、ああ、いいなあ、と思う。
 映画で声に引き込まれるとは思いもしなかったのでびっくりした。
 で、ジェレミー・アイアンズの役は、本を読みはじめて衝動的にスイスからリスボンへ行ってしまう、作者を突然訪ねる、作者の知人を探し回るという行動的なものなのだが、それは表面的な行動であって、実際は彼は彼の内部を旅している。哲学的に思索を深めている--という一種の「矛盾」を抱えた映画なのだが。
 この映画を成功させているもののひとつにジェレミー・アイアンズの「眼鏡」がある。途中で自転車とぶつかりレンズが割れ、新しい眼鏡を買うというようなことがある。それは新しい「視線」で世界をもう一度見つめなおすという「比喩」(寓意)にもなっているのだけれど、それよりも眼鏡によって他の役者と違う存在になっているところがおもしろい。
 眼鏡というのは外の世界をよりよく見るための道具である。一方で、眼鏡をかけている人の目は他人からはあまりはっきりとはしない。レンズという障害物がある。透明だけれど、外の世界が反射して、眼鏡をかけていない人の目ほどははっきりは見えない。ジェレミー・アイアンズは大きい目をしているし、表情もあるのだが、それをレンズで控え目に隠している感じがする。それがジェレミー・アイアンズの内省的な心の旅を象徴するのだけれど。
 一方。
 他の主要な登場人物はみんな眼鏡をかけていない。そして、目で演技をする。
 メラニー・ロラン。もともと目がとても印象的だが、彼女の場合、演技をしているのは目だけと言っていいくらい強烈な印象を残す。ジャック・ヒューストンと逃避行に出る寸前、路地でキスをする。それを恋人が見て、去っていく。その去っていく恋人の姿を見たときの目の動き。彼女だけがすべてを知っていて、すべてを引き受けているのだが、その瞬間の「決意」のような強さがとてもいい。
 ジャック・ヒューストンの目は、他の人物に比較すると内省的(ジェレミー・アイアンズの内省と重なる感じ)なのだが、それは「理性」のあらわれでもある。彼は情熱で行動するのではなく、理性で行動している。理性で、ポルトガルのカーネーション革命、その抵抗運動に参加している。そのことを、明確に語る目をしている。
 
 一方に書かれたことばを読むジェレミー・アイアンズがいて、他方に実際に「肉眼」で現実をみつめ闘う若者がいる。その対比が、眼鏡で本を読む、肉眼で現実を見るという対比になって映画が動いていく。それを眼鏡という小道具と役者の肉眼の力で影像に置き換える。
 これはビレ・アウグストの「力業」といってもいい。ビレ・アウグストの作品は、いつもゆるぎのない影像に圧倒されるが、今回も、そこにリスボンという街があるとはっきりわかる強い影像である。ジェレミー・アイアンズが眼鏡の処方をした眼科医に送られてホテルへ帰ってくるシーンが何回かある。同じ場所、同じ坂道が映し出されるのだから同じ場所という印象があって当然なのだが、なんというのだろう、「馴染みの場所」へ帰ってきた、「ここは知っている」という感じ、「あ、ホテルに着いた」という感じが、一種の「感情の落ち着き」が坂の角度や建物の影像でつたわってくる。
 シャルロット・ランプリングを尋ねるシーンも同じ。同じ場所を尋ねているのだから同じなのは当たり前なのは当然なのだが、ただ同じであるだけでなく、「また来た」という感じ、「ここは知っている」という感じの影像としてそこにある。
 これも、なんともいえずすごい。「これは知っている」という感じがこの映画のテーマなのだから。ジェレミー・アイアンズは小説の登場人物(若いとき)には実際にあっていない。同じ行動をしていない。けれど、ジェレミー・アイアンズは彼らを「知っている」、そういう青春時代を「知っている」、青春は自分と重なると「知っている」からこそ、小説の作者、登場人物を訪ね、そうすることで自分自身を尋ねているのだから。 
                      (KBCシネマ1、2014年09月21日)

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(185)(未刊・補遺10)

2014-09-22 10:25:18 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(185)(未刊・補遺10)2014年09月22日(月曜日)

 「ローエングリン」はワーグナーの歌劇を題材にしているのだろう。

良き王はエルザを憐れみ、
宮廷の呼び出し係を呼んだ。

呼び出し係が呼ばわり、ラッパが鳴った。

ああ、殿下、乞う、今一度、
今一度 呼び出し係をして呼ばしめよ。

呼び出し係が再び呼ばわる。

 私はワーグナーの歌劇を見ていないので知らないのだが、エルザが息絶えたとき、ローエングリンを呼び戻そうとした。そして呼び出し係が呼ばれ、ローエングリンを呼ぶラッパが鳴る。けれども、彼は戻ってこない。それで、もう一度、呼び出し係を呼ぶ。ローエングリンを呼び戻せと告げる。

呼び出し人は呼ばわり ラッパは鳴り、
呼び呼ばわり ラッパ鳴りて、
さらに呼び ラッパ鳴らせど、
ローエングリンはついに来らず。

 この繰り返しが、悲しみをあおる。リフレインは感情を強調するというよりも、あおることで、いまそこにある感情を、その感情以上のものにする。感情はそのひと固有のものであるが、繰り返され、あおるうちに、それが他人のものではなく自分のものになってしまう。
 カヴァフィスはワーグナーのストーリーだけではなく、オペラの感情のつくり方を詩で再現しているのかもしれない。最初に引用した詩の書き出しの部分だけで詩は完結している。晩年のカヴァフィスなら、そこで詩を終えただろう。しかし、つづけて書いている。もう一度形をかえて呼び返すシーンを書いている。この繰り返しは大音響で響きわたるワーグナーの歌劇そのものである。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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