詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透『現代詩論集成1』(4)

2014-09-04 11:35:51 | 北川透『現代詩論集成1』
北川透『現代詩論集成1』(4)(思潮社、2014年09月05日発行)

 Ⅱ「荒地」論 戦後詩の生成と変容
 三 <民衆>とは誰のことか

 黒田三郎の「民衆と詩人」をめぐって書かれている。北川は、

彼の<民衆>概念は、結局のところ被害者意識的な<市民>観念に、奇妙な固着を示していったように思える。(91ページ)

 と書いている。

 ここの文章では、北川と、鮎川信夫、竹内好、大岡信の「民衆」の発言をていねいに紹介している。「民衆」という概念を検討するとき、その「細分化(?)」を他人に任せている。北川ひとりで検討するよりも、多数の他者の視点を取り込んだ方が、「概念」にひろがりが出る。概念を広げた上で、それでもつかみきれない部分、つかみ落とした部分へと北川は進んで行く。北川の意見をつけ加えてるという形で。
 そうした作業のなかで、私がとても気に入っているのが、大岡の文について書いているところ。「戦後史概観 Ⅰ「俗」ということ」を紹介した上で、

 ここで《ルネサンスの市民階級》などを持ち出すのは、ちょっと場違いだと思うけれど、ともかく、<俗>ということばのもつアイロニーや、《俗な生活者の健康な批判力》を、大岡信は思い切った肯定の文脈のなかで、戦後詩(史)のなかに位置づけようとしたのである。ところでわたしは、大岡がもっぱら<俗>ということばの含意に感心しているのを、おもしろいと思う。彼は黒田の「詩人と権力」を十五年後に読み返し、<俗>ということばの概念の豊かさに眼を洗われたとして、前に読んだときには、そのことにほとんど気付かなかった、という趣旨の感想を洩らしているのだ。(98-99ページ)

 と北川書いている。
 この文章は「これはどういうことなのだろう」とつづき、そのあと北川の鋭い時代分析がつづくのだけれど、それを紹介する前に。
 私は、「大岡がもっぱら<俗>ということばの含意に感心しているのを、おもしろいと思う。」というところに北川の「肉体」を見たように感じた。
 北川には北川の考えがある。けれど、その考えだけでは、ことばは堂々巡りになる。だから、ほかのひとの文章(ことば)を読み、考えを押し進めるヒントにする。そのとき、重要なのは「おもしろい」と思えるかどうかである。おもしろいと思って、誘い込まれる。そして、ことばが動きだす。そのことばは、大岡のことばを突き破って動く。突き破りながら、というか、突き破るからこそ、そこに大岡の見たかもしれないものが北川のことばの射程として開けてくる。
 鮎川のことばも竹内のことばも北川には「おもしろい」からこそ、引用し、北川自身のことばも付け加えるのだが、「おもしろい」と思わず書いてしまったときの方が、ことばが動いている。
 もう、ことばは止まれない。
 
 ここには、「詩人と権力」固有の問題と同時に、大岡の立っている戦後二十年の位相があるだろう。すなわち《俗な市民》が、本当に社会的な実体として姿をあらわしたのは、わが国戦後資本制が、高度成長期を体験した六〇年代に入ってからであり、しかも、彼がそれを強い肯定の文脈で押し出すことができたのは、おそらく六〇年安保を機にして、戦後的な理念が崩壊したからである。人民でも、庶民でも、ましてやプロレタリアートではなく、自らを<中流>と自認し、幻想する大衆が、社会的な多数派(意識)において出現したのだ。もとより、大岡がそれを肯定するには、《俗な市民》自らが批判的であるという前提がともなっていた。そして、そのように充分に肯定的であると同時に、自己批判的であるという《俗な市民》は、みずからがそれを生きているという体感の裏付けが鳴ければ負荷の打てあろう。そこにもはや戦後とは呼べないような、戦後社会の牢固として爛熟を見据えねばなるまい。(99ページ)

 大岡の文章が書いていない時代状況を書き加えることで、北川は大岡のことばの射程を拡大する。その、時代の描き方に北川が色濃く出ている。
 大岡の文章を引用しなくても、北川はそういう状況分析ができただろうけれど、大岡を踏まえることで、ことばの動きが加速している。そういう「勢い」を感じる。
 私は「論理」よりも、こういう「勢い」の方を、なんといえばいいのか……信頼してしまう。あ、そうか、北川はことばを常に「時代」といっしょにつかみ取ろうとしている。ことばをつかみとることは「時代」をつかみとることだと考えているのだな、と「わかる」。この「わかる」は「誤読する」という「意味」になるかもしれないが。



 ところで、私は「民衆」ということばには、どうにもなじめない。つかう気持ちになれない。
 北川は「民衆とは既成化し、制度化した共通感覚の橋を架けられた存在である」(102 ページ)と書いている。その「共通感覚」が、私には欠けている。
 別な言い方をした方がいいのかもしれない。
 私は田舎で育ってきた。周りは農家ばかりである。そこには「民衆」ということばが暗黙のうちに向き合っている「少数の官(僚)」というものがいなかった。いても、せいぜいが学校の先生(校長先生)くらいである。政治的な何事かはもちろん動いているのだろうけれど、実感として「江戸時代」のままである。子どもだから、そういうものが見えなかったのかもしれないが、両親の態度をみていても「官」のやることなんか、知ったことではない。どうせ、「官」はかってに自分たちが楽しているだけ。かかわりになるまい、という感じくらいしか伝わってこなかった。
 さらに「衆」の感覚が、私にはどうもわからない。私はいつでも「ひとり」としか向き合えない。せいぜいが数人で、それを超えると「いっしょ」という感じがしない。「民衆」って、いったい何人から? もし、たとえば私の暮らした田舎に「官」がやってきて、だれかと話す。そのとき、そのひとは「ひとり」でも「民衆」?

 <民衆>とは誰のことか--この問いの「民衆」ということば自体が私にはなじめないので、こんな感想になった。

北川透 現代詩論集成1 鮎川信夫と「荒地」の世界
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塩嵜緑『魚がきている』

2014-09-04 09:31:59 | 詩集
塩嵜緑『魚がきている』(ふらんす堂、2014年05月18日発行)

 塩嵜緑『魚がきている』の詩は、ことばのリズムがとてもいい。自然に耳に聴こえてくる。耳をすまさなくても、音がくっきり聞こえる。
 「聖堂」の全行。

季節は突然変わるものだと
風が教えてくれる

公演ではアブラゼミとツクツクボウシと蜩が
交互に鳴いていて
ごちゃまぜだと呟きながら私は宙を見上げる

ファーブル昆虫記には
蝉の腹の構造は教会に喩えられる
南フランスでは
鳴いて一生を終える者たちは
その生命力から幸せを招くとして大切にされている

力を尽くして鳴いていた油蝉の声が
中空に突然鳴り止んだ

 この詩では3連目、「ファーブル……」が特に美しい。
 なぜかな、と私は何度も読み返してみた。そして、気づいたのは、ここには塩嵜の主張がないからだとわかった。
 これは、しかし、変だね。
 詩は、その詩人の声に引きつけられて、あ、これはいいなあ、と思うものなのに、私はここに塩嵜の声がないと気づき、それがこの連の美しさである、いいところであると言おうとしているのだから。
 塩嵜の声ではないのに、なぜ、3連目が魅力的か。
 ここには塩嵜の声のかわりに、塩嵜の「耳」が書かれている。聞いたこと(読んだことかもしれないが)を、正確にそのまま自分の声に乗せて言いなおす。自分を主張するのではなく、他人を主張する。塩嵜が寄り添った他人(ファーブル)を信じて、その声をそっくり引き継いでいる。
 自分を空っぽにして、無垢のまま、そこにいる。
 他人(ファーブル)が言ったことを、間違えないように、正確に言おうとしている。そのために、ことばの何度も繰り返して声にしたのだろう。その繰り返しが鍛え上げる自然なリズムがここにある。
 これはいいなあ。
 この「他人を信じる」の「他人」を「神」に置き換えると、「聖堂」というタイトルもおもしろい。「聖堂」にいて、「神」に身を任せて、「神」から聞こえる声をただ反芻する。間違わないように、何度も何度も繰り返して覚える。その繰り返しがつくりあげることばのリズムがある。
 私は「神」というものを信じているわけではないのだけれど、そう思った。

 「山歩き」も、とてもおもしろい。塩嵜は男といっしょに山登りをしている。男が山登りを導いてくれる。

振り返り 振り返りして
山肌にはりついた白い石を順に指さして
足を置けと言う

山男の足は
鍵盤の指遣いのように巧く石に乗る

私は腰が定まらないから
すぐに疲れるが
相変わらず ここにと指示が出る

山の片面を登っていくうちに
前を行く男の足の動きが読めるようになった
男が振り返らなくなった

 この「男」を「神」、「足」を「ことば」と言いかえるなら、「聖堂」のファーブルの部分の美しさと同じものがここにあることがわかる。塩嵜は「自己主張」(自分の声)で語ること、自分の足で山を登ることをやめ、男の足そのものになる。繰り返し、繰り返し、男の足になろうとして、そのリズムが自分のものになる。自分の「肉体」のなかで自然に動くものになる。
 そうすると、男の足の動きが読めるようになる。
 この「読める」はなんだろう。
 「目」で読むのか。あるいは「耳」で指示を聞きとるのか。
 違うね。
 塩嵜の「肉体」のどことはいえない部分、体の内部で、リズムが男の足のリズムをつかみ取る。リズムを聞き、それに合わせると書けば「耳」になるし、リズムがつくりだす筋肉の動きが見えると書けば「目」が「読む」ということにもなる。
 これは、いい感じだねえ。
 「一体感」がある。塩嵜のことばは「一体感」とともにあることばなのだ。「他人」を正直に、そのまま自分のなかに受け入れ、その動きによって自分をととのえ直す--そのときに生まれる「一体感」。
 これは、うれしい。
 だから、

山歩きのお礼です
花の名を教えましょう
ほら ここに咲いているのが螢袋

山男はほおと言い
ここと指さしはしなくなったが
速度は
私にあわせてくれているのがわかった

 塩嵜は男に花の名前を教える。自分の声をつたえる。自己主張する。男は「ほお」と感心して、それからまた歩きだす。そのとき塩嵜は、自分が男と「一体」になっているだけではなく、男の方も塩嵜と「一体」になるよう、速度をあわせてくれていることに気がつく。
 互いに「自己主張」しない。自己主張しなくても、ひとは生きて行ける。しかも、だれかといっしょに生きて行ける。この発見は美しいなあ。


魚がきている―塩嵜緑詩集
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(166)(未刊13)

2014-09-04 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(166)(未刊13)   2014年09月03日(水曜日)

 「後は冥府で亡霊に語ろう」はソフォクレス『アイアコス』にある、アイアコス自殺前の最後のことば--と中井久夫は注釈に書いている。それを読んだ奉行は「まったくな」と感心して、ことばをつづける。

この世で心に鍵を掛け、不寝番みたいに
来る日も来る日も守ってきた秘密や心の傷を
あの世じゃ自由に打ち明け話せるわな」

 感心して、こころがゆるんだ感じが「まったくな」とか「話せるわな」という口語の響きのなかに広がる。そのなかで、思わず自分にも「心に鍵を掛け、不寝番みたいに/来る日も来る日も守ってきた秘密や心の傷」もあるという「告白」のようなものを語ってしまう。
 これに対して、ソフィストがからかう。

「お忘れじゃありませんか」とソフィストは言って、うっそり笑った。
「亡霊が冥府でそんなことを語るとしてもですな、
連中がまだそういうことに悩んでいたらの話ですぜ」

 ここでも「ですな」「ですぜ」という口語がいきいきと動いている。「口語」によって、「肉体」が奉行に近づいてく。いや、奉行の「肉体」のなかへ入り込み、その内部を攪乱する。
 ソフィストの語り口は、何か新しいことを言うのではない。「論理」を動かして見せるだけである。一種の「詭弁」である。奉行が思わず「告白」してしまう正直さをもっているのに対し、ソフィストは自分というものを語らない。ただ、動かして見せる。
 「亡霊」が生きていたときと同じことに悩んでいるというのは、死後、あり得るのか。死んでしまったら、生きていたときのことなど忘れてしまうのではないのか。
 ここには何か不思議な、皮肉の笑いがある。不思議な笑い--と書いてしまうのは、この笑いが「奉行」に対するものだけではなく、なぜか、ソフィストの論理そのものを笑っているように感じられるからである。ソフィストはそんなことを信じて言っているのではなく、ただ論理を弄んでそう言っている。ソフィストなんて、そういうものなのだと笑っている。
 この笑いはカヴァフィスにはとても珍しい。


リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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