詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透『現代詩論集成1』(5)

2014-09-05 10:58:07 | 北川透『現代詩論集成1』
北川透『現代詩論集成1』(5)(思潮社、2014年09月05日発行)

 Ⅱ「荒地」論 戦後詩の生成と変容
 四 《伝統の欠如》について

 私が書き綴っていることは、北川が書いている問題点とすれ違っているのだが、これは私が「わざと」そうしているのである。北川の書いている「意味」よりも、ことばを動かしいる「肉体」というか、そこに書かれている「ことばの肉体」の方に私の関心があるからだ。
 「《伝統の欠如》について」ということであれば、「文明批評的な性格」に書かれていた「この日本は何かというまなざしがみごとなほどに欠けている」で充分指摘されていると思う。「文明批評的な性格」での「この日本」とは戦時中の政治体制を指し、「伝統」とは別という見方もあるかもしれないが、どんな状況も「過去」から切り離されて存在するわけではないから、「現在(当時の現在、その周辺の時間)」へのまなざしの欠如は、どうしたって「伝統の欠如」につながる。「伝統の欠如」があるから「現在へのまなざしの欠如」というものが生まれる。もちちん、このときの「現在へのまなざしの欠如」というのは「現在のすべて」という意味ではなく「現在の何かの要素」へのまなざしの欠如なのだけれど……。
 でも、いま私が書いたように、ことばを広げてしまうと、何も語っていないことになってしまう。ただ語るために語ることばのようになってしまうが。

 今回読んだ部分のなかから私が注目した部分を抜き書きすると。

わたしは<意味>と<像>を機械的に二分しているのではなく、論理的に区別しているにすぎない。( 110ページ)

 これは三浦健治「鮎川信夫とその礼讃者たち」への反論として書かれたものだが、ここに書かれている「論理的」という表現が北川の「思想(肉体)」をとてもよくあらわしていると思う。
 北川が「論理」というとき問題とするのは、その「論理」がどれだけの射程を持っているか。その「論理」をどこまで動かして行ける。動かしていったとき矛盾は起きないか、ということに尽きると思う。
 それはこれまでに読んできた例でいうと、上手宰への「ハイエナ」への反論によくあらわれている。
 黒田三郎に対して批判をする人間を、屍肉に群がる「ハイエナ」と呼ぶとき、黒田三郎は屍肉になってしまう。黒田三郎をおとしめているのは上手宰の方である。--こういう「論理」の運動が北川の「肉体(思想)」である。その人がつかっていることば(論理)をそのひとの「文章」のなかで動かして、そこで明確になる問題点を指摘する。
 北川が問題にするのは、あくまで「論理」の運動なのである。
 ちょっと長くなるので、端折ってしまうが、三浦が大岡信の書いた鮎川信夫批判を利用していることについての北川の指摘が、上手宰に対する批判と重なり合う部分を引用してみる。

 三浦健治という人は、実に楽天的であって、自らは政治的主題そのものを表現するための《文学的功利節》に立ちながら、それの批判を自明にしている大岡信の文章が、ただ、鮎川批判をしているというその一点で、なにやら百万の味方を得たように勢いづいているのである。自分がそれに依拠しようとすればするほど、その依拠している論理によって否定されているということなど夢にも思わないらしい。

  「自分がそれに依拠しようとすればするほど、その依拠している論理によって否定されている」の「論理」ということばのつかい方。これが、北川の「論理」の本質である。「論理」は動かしてみて確かめる。それが北川の「思想(肉体)」である。
 大岡信の論理を、三浦のなかで動かしたとき、それは三浦批判として動く。大岡は三浦の書いているようなことを批判しているということに気付かずに、大岡が鮎川信夫を批判しているというだけで、それを利用している。



 あまりにも「伝統」とは離れすぎたことを書いてしまったか。
 今回の文章で北川が言いたいのは(私は、ここが北川の主張のポイントだと思ったのは)、 120ページである。

《伝統の欠如》という認識に、いくらかでも根拠があるとすれば、鮎川が<未来>という概念を、どういう文脈で定立しているかは、もう少し検討してもよいと思う。そうすると、引用しながら大岡が触れていない箇所に、《未来は世界の過去に含まれる》ということばがあることに気がつくはずである。(略)西欧的伝統にも、日本的伝統そのものにも、即自的に依拠することはできないが、世界のなかで激しく変化している現代日本そのものの拠り所は求めざるをえない、永続的価値(伝統)を、その《現代に生きるわれわれ自身の中》から見出すために、ダンテやシェークスピアを知ることが必要だし、世阿弥や芭蕉に学ぶことが必要だという論理である。わたしなりに言いなおせば、《伝統の欠如》を媒介にしながら、世界のなかから<持続的価値>を含む文化的遺産を求め、それに新たな価値の源泉にしようという態度であろう。

 「持続的価値」と「伝統」をどこで区別するか、かなり難しい問題を含んでいると思うが、そういうこととは別にして、ここでも「ダンテやシェークスピアを知ることが必要だし、世阿弥や芭蕉に学ぶことが必要だという論理である」という具合に「論理」ということばが使われていることに、私は注目した。「論理」の運動に整合性はあるかどうか、北川は誰に対しても、そのことを見ている。

北川透 現代詩論集成1 鮎川信夫と「荒地」の世界
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小柳玲子「『どんぐり』転々」

2014-09-05 09:38:53 | 詩(雑誌・同人誌)
小柳玲子「『どんぐり』転々」(「きょうは詩人」28、2014年08月24日発行)

 小柳玲子「『どんぐり』転々」は、林嗣夫のエッセイ集からはじまり、寺田寅彦の『どんぐり』を経て、敗戦の年、「どんぐりを食べ腹痛でひっくり返っている若者を見た日があった」という具合に変化していくのだが、その後半。

お巡りさんや子どもたちが取り囲んでいたが どうにもならない
母が「持って行っておやり」という蒸しパンを神社に持っていった
うどん粉とふくらし粉を混ぜ合わせて蒸した いまでは犬だって
食べないような手製のパンだったが (行き倒れ)は 食べ終わると
元気になっていた 空腹の腹痛だったらしい
「どんぐり」で母を思い出したのだろうか
昨日は夢の中を母が歩いていた
蒸しパンを作っていた頃の若い母だ
あまりに年老いてしまった私が母には分からないらしく
すいすいとすれ違って行ってしまった
まあそんなものでしょうと思っていたので 振り向いても見なかったが
ちょっと残念だったかな
母の十三回忌が近い
私の生涯で誰より長い年月を一緒に暮らした人だ
「団栗」
これなんて読むんだっけ
なんて わざとらしいこと聞いてみても悪くはなかったのに

 「「どんぐり」で母を思い出したのだろうか」からあと、ことばがすーっと動いていく。そのリズムがとてもいい。前半にいろいろ書いてあったのだが、忘れてしまって、夢ですれ違った母と小柳の関係を、まるできのうあったことを思い出すみたいに思い出している。
 思い出すというより、想像している、と言いなおすべきなのかもしれないが。
 この「思い出す/想像する」ときの、不思議な感じがいい。

あまりに年老いてしまった私が母には分からないらしく

 小柳は若いときの母も年をとってからの母も知っている。けれど、「若い母」は年取った小柳を知らない。これは小柳の完全な「想像」だが(「らしく」ということばが「想像」であることを告げている)、もしかすると年取った母が、年を取った小柳を見て「あなたは、だれ」というようなことがあったのかもしれない。いわゆる認知症。母が覚えているのは幼いときの小柳だけ。年を取った小柳を小柳と認識できない。
 それは悲しいことだけれど、「まあそんなものでしょう」という気持ちになれるくらいに、それから年月が過ぎている。(十三回忌を迎えるまでの年月が過ぎ去っている。)
 あるいは、小柳の母は自分のことに集中すると、まわりを見落とすということがある性格だったのかもしれない。道で出合ったとき、幼い小柳は母を見ているが、母は気がつかずにそばを通りすぎるというようなことがあったのかもしれない。みんなとは違う何か別の世界を見ているということがあったのかもしれない。
 蒸しパンをつくったときも、幼い小柳にはなぜそうしているのか分からなかったけれど、小柳の話を聞いただけで行き倒れの若者が空腹であることを見抜いたのだろう。空腹さえおさまれば腹痛はなおるということがわかっていた。同じ腹痛を母は体験してきているのかもしれない。母の肉体はそのことを覚えていて、どうすればいいかがわかったのだ。ふつうの人が見えないものを瞬間的に見て、それに向かって行動するというようなところに母の特徴があったのかもしれない。
 ひとは誰でも、たとえ母と子どもであっても、見ているものが違う。見えている世界が違う。違いをかかえながら一緒に生きている。そういうことが「自然なあり方」であることが、いま、そうゆう光景がゆったりした感じで小柳のこころのなかに広がっているのかもしれない。

「団栗」
これなんて読むんだっけ
なんて わざとらしいこと聞いてみても悪くはなかったのに

 この「わざと」がいい。知っている。知っていても、聞いてみる。「声」が聞きたいのだ。これは、「おかあさん、私のこと好き?」と聞くのに似ている。そんなことは、わかっている。わかっていても聞きたい。言ってもらいたい。いや、わかっているからこそ、聞きたいのかもしれない。「もちろん大好きよ」「よかった、私もおかあさんがいちばん好き」。そう言うことで、「こころ」が「一緒」ということを実感したい。

私の生涯で誰より長い年月を一緒に暮らした人だ

 は別なことばで言えば、誰よりも長い年月を「一緒のこころ/同じこころ」で生きてきた人だということになる。「暮らし」が「一緒」は「こころ」が「一緒」ということなのだ。
 年を取って(小柳だろうか、母だろうか)、誰が誰であるか「分からない」。けれども「こころ」はいつでも「一緒」にいる。「頭」には分からなくても「こころ」にはわかる。そういうことも感じさせる。




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中井久夫訳カヴァフィスを読む(167)(未刊14)

2014-09-05 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(167)(未刊14)   

 「だから」は男色の詩。

このエロ写真が街頭で売っていたぞ、
こっそりと(警察の眼を盗んでな)。
本番の写真じゃないか。
なのにどうして夢のように美しい顔が登場するのか。
きみがなぜこの写真の中に入っているのか。

 ふいに知ってしまった恋人の現実。それをとがめているのだが、「口調」がそれほど厳しい感じがしない。

きみのこころはいかにも安ぴか。ほかに考えようはない。
だが、とまれこうまれ、いやこれ以下でも、
私のきみは夢の美のかんばせ、
ギリシャ的快楽のために造られ、捧げられた姿。
私にとってのきみは永遠にそうだよ。
私の詩がきみを歌うのもそれだからだよ。

 カヴァフィスは「きみ」のすべてを許してしまっている。
 「私のきみは」の「私の」ということばが強い。所有形というよりも、「私」が「きみ」になってしまっている。美しいのは「きみのかんばせ」だが、それはカヴァフィスが「美しい」というから「美しい」のである。一連目で「顔」と言っていたが、この2連目では「かんばせ」にかわっている。カヴァフィスは現実の「顔」を見ているのではなく、「文学」(古典/古語)のなかで見てきた「かんばせ」を見ている。だからこそ、「きみの」の前に「私の」がつく。「私のかんばせ」なのである。
 それはいま書いたことと重複するが、「ギリシャ的」である。「伝統的」「古典的」でもをる。「文学」のために造られた「かんばせ」なのだ。「文学/古典」であるから、それは「永遠」でもある。
 「きみ」は何よりも「ことば(文学)」の中にいる。
 だから、(と、ここでタイトルが出て来る)、だから、私の詩がきみをうたうのだが、カヴァフィスはこれを倒置法をつかって、

私の詩がきみを歌うのもそれだからだよ。

 という。「だから」ということばの方を強調している。
 そして、「きみのかんばせ」が「私の」ものであるように、「私の詩のきみ」こそ、「きみのもの」だよ、とカヴァフィスは言うのである。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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