北川透『現代詩論集成1』(5)(思潮社、2014年09月05日発行)
Ⅱ「荒地」論 戦後詩の生成と変容
四 《伝統の欠如》について
私が書き綴っていることは、北川が書いている問題点とすれ違っているのだが、これは私が「わざと」そうしているのである。北川の書いている「意味」よりも、ことばを動かしいる「肉体」というか、そこに書かれている「ことばの肉体」の方に私の関心があるからだ。
「《伝統の欠如》について」ということであれば、「文明批評的な性格」に書かれていた「この日本は何かというまなざしがみごとなほどに欠けている」で充分指摘されていると思う。「文明批評的な性格」での「この日本」とは戦時中の政治体制を指し、「伝統」とは別という見方もあるかもしれないが、どんな状況も「過去」から切り離されて存在するわけではないから、「現在(当時の現在、その周辺の時間)」へのまなざしの欠如は、どうしたって「伝統の欠如」につながる。「伝統の欠如」があるから「現在へのまなざしの欠如」というものが生まれる。もちちん、このときの「現在へのまなざしの欠如」というのは「現在のすべて」という意味ではなく「現在の何かの要素」へのまなざしの欠如なのだけれど……。
でも、いま私が書いたように、ことばを広げてしまうと、何も語っていないことになってしまう。ただ語るために語ることばのようになってしまうが。
今回読んだ部分のなかから私が注目した部分を抜き書きすると。
これは三浦健治「鮎川信夫とその礼讃者たち」への反論として書かれたものだが、ここに書かれている「論理的」という表現が北川の「思想(肉体)」をとてもよくあらわしていると思う。
北川が「論理」というとき問題とするのは、その「論理」がどれだけの射程を持っているか。その「論理」をどこまで動かして行ける。動かしていったとき矛盾は起きないか、ということに尽きると思う。
それはこれまでに読んできた例でいうと、上手宰への「ハイエナ」への反論によくあらわれている。
黒田三郎に対して批判をする人間を、屍肉に群がる「ハイエナ」と呼ぶとき、黒田三郎は屍肉になってしまう。黒田三郎をおとしめているのは上手宰の方である。--こういう「論理」の運動が北川の「肉体(思想)」である。その人がつかっていることば(論理)をそのひとの「文章」のなかで動かして、そこで明確になる問題点を指摘する。
北川が問題にするのは、あくまで「論理」の運動なのである。
ちょっと長くなるので、端折ってしまうが、三浦が大岡信の書いた鮎川信夫批判を利用していることについての北川の指摘が、上手宰に対する批判と重なり合う部分を引用してみる。
「自分がそれに依拠しようとすればするほど、その依拠している論理によって否定されている」の「論理」ということばのつかい方。これが、北川の「論理」の本質である。「論理」は動かしてみて確かめる。それが北川の「思想(肉体)」である。
大岡信の論理を、三浦のなかで動かしたとき、それは三浦批判として動く。大岡は三浦の書いているようなことを批判しているということに気付かずに、大岡が鮎川信夫を批判しているというだけで、それを利用している。
*
あまりにも「伝統」とは離れすぎたことを書いてしまったか。
今回の文章で北川が言いたいのは(私は、ここが北川の主張のポイントだと思ったのは)、 120ページである。
「持続的価値」と「伝統」をどこで区別するか、かなり難しい問題を含んでいると思うが、そういうこととは別にして、ここでも「ダンテやシェークスピアを知ることが必要だし、世阿弥や芭蕉に学ぶことが必要だという論理である」という具合に「論理」ということばが使われていることに、私は注目した。「論理」の運動に整合性はあるかどうか、北川は誰に対しても、そのことを見ている。
Ⅱ「荒地」論 戦後詩の生成と変容
四 《伝統の欠如》について
私が書き綴っていることは、北川が書いている問題点とすれ違っているのだが、これは私が「わざと」そうしているのである。北川の書いている「意味」よりも、ことばを動かしいる「肉体」というか、そこに書かれている「ことばの肉体」の方に私の関心があるからだ。
「《伝統の欠如》について」ということであれば、「文明批評的な性格」に書かれていた「この日本は何かというまなざしがみごとなほどに欠けている」で充分指摘されていると思う。「文明批評的な性格」での「この日本」とは戦時中の政治体制を指し、「伝統」とは別という見方もあるかもしれないが、どんな状況も「過去」から切り離されて存在するわけではないから、「現在(当時の現在、その周辺の時間)」へのまなざしの欠如は、どうしたって「伝統の欠如」につながる。「伝統の欠如」があるから「現在へのまなざしの欠如」というものが生まれる。もちちん、このときの「現在へのまなざしの欠如」というのは「現在のすべて」という意味ではなく「現在の何かの要素」へのまなざしの欠如なのだけれど……。
でも、いま私が書いたように、ことばを広げてしまうと、何も語っていないことになってしまう。ただ語るために語ることばのようになってしまうが。
今回読んだ部分のなかから私が注目した部分を抜き書きすると。
わたしは<意味>と<像>を機械的に二分しているのではなく、論理的に区別しているにすぎない。( 110ページ)
これは三浦健治「鮎川信夫とその礼讃者たち」への反論として書かれたものだが、ここに書かれている「論理的」という表現が北川の「思想(肉体)」をとてもよくあらわしていると思う。
北川が「論理」というとき問題とするのは、その「論理」がどれだけの射程を持っているか。その「論理」をどこまで動かして行ける。動かしていったとき矛盾は起きないか、ということに尽きると思う。
それはこれまでに読んできた例でいうと、上手宰への「ハイエナ」への反論によくあらわれている。
黒田三郎に対して批判をする人間を、屍肉に群がる「ハイエナ」と呼ぶとき、黒田三郎は屍肉になってしまう。黒田三郎をおとしめているのは上手宰の方である。--こういう「論理」の運動が北川の「肉体(思想)」である。その人がつかっていることば(論理)をそのひとの「文章」のなかで動かして、そこで明確になる問題点を指摘する。
北川が問題にするのは、あくまで「論理」の運動なのである。
ちょっと長くなるので、端折ってしまうが、三浦が大岡信の書いた鮎川信夫批判を利用していることについての北川の指摘が、上手宰に対する批判と重なり合う部分を引用してみる。
三浦健治という人は、実に楽天的であって、自らは政治的主題そのものを表現するための《文学的功利節》に立ちながら、それの批判を自明にしている大岡信の文章が、ただ、鮎川批判をしているというその一点で、なにやら百万の味方を得たように勢いづいているのである。自分がそれに依拠しようとすればするほど、その依拠している論理によって否定されているということなど夢にも思わないらしい。
「自分がそれに依拠しようとすればするほど、その依拠している論理によって否定されている」の「論理」ということばのつかい方。これが、北川の「論理」の本質である。「論理」は動かしてみて確かめる。それが北川の「思想(肉体)」である。
大岡信の論理を、三浦のなかで動かしたとき、それは三浦批判として動く。大岡は三浦の書いているようなことを批判しているということに気付かずに、大岡が鮎川信夫を批判しているというだけで、それを利用している。
*
あまりにも「伝統」とは離れすぎたことを書いてしまったか。
今回の文章で北川が言いたいのは(私は、ここが北川の主張のポイントだと思ったのは)、 120ページである。
《伝統の欠如》という認識に、いくらかでも根拠があるとすれば、鮎川が<未来>という概念を、どういう文脈で定立しているかは、もう少し検討してもよいと思う。そうすると、引用しながら大岡が触れていない箇所に、《未来は世界の過去に含まれる》ということばがあることに気がつくはずである。(略)西欧的伝統にも、日本的伝統そのものにも、即自的に依拠することはできないが、世界のなかで激しく変化している現代日本そのものの拠り所は求めざるをえない、永続的価値(伝統)を、その《現代に生きるわれわれ自身の中》から見出すために、ダンテやシェークスピアを知ることが必要だし、世阿弥や芭蕉に学ぶことが必要だという論理である。わたしなりに言いなおせば、《伝統の欠如》を媒介にしながら、世界のなかから<持続的価値>を含む文化的遺産を求め、それに新たな価値の源泉にしようという態度であろう。
「持続的価値」と「伝統」をどこで区別するか、かなり難しい問題を含んでいると思うが、そういうこととは別にして、ここでも「ダンテやシェークスピアを知ることが必要だし、世阿弥や芭蕉に学ぶことが必要だという論理である」という具合に「論理」ということばが使われていることに、私は注目した。「論理」の運動に整合性はあるかどうか、北川は誰に対しても、そのことを見ている。
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