詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金子忠政『やがて、図書館へ』

2014-10-02 10:38:08 | 詩集
金子忠政『やがて、図書館へ』(快晴出版、2014年09月11日発行)

 金子忠政『やがて、図書館へ』は、「おわったのだろう」と思って読むと、次のページに詩のつづきがある。
 「やがて、図書館へ」は最初に括弧に入った何行かがある。右のページだ。どうも手術後のベッドにいるようだ。そして、見開きの左ページ。

それもこれも
ついには翻訳され
すぐさま拡散してしまうから
いらつきはじめ
ペンを走らせる音が美しく響く
静寂、それだけのため
まっすぐに図書館へ来た
広く長い回廊には
行き場のない亡霊の肩が整列している
こうばしい吐息をする
斜めに日がさしかかった路地、
書架の崖である
化石した言葉の崖である

 「ペンを走らせる音が美しく響く/静寂、」の「響く(音がある)」と「静寂」の対比が美しい。「亡霊の肩が整列している」の「肩」が視覚を刺戟する。「吐息をする」の意外性にも驚く。そうか、亡霊も息をするのか。「肩で息をする」となるとかなり苦しいのだが、かすかに動く程度でも亡霊だからめだつのかな? 「静寂」とも響きあうので、それが「美しく」見える。
 そういうかすかな動きと書架の崖が対照になっている。対になって、互いを照らしだす効果を上げている。
 あ、図書館だね、と思う。
 そんな図書館は私の街にはないが、こういう図書館なら行ってみたい--そう感じさせる図書館である。
 これで、この詩は「おわり」と私は思った。
 そして次の詩を読もうと思ってページをめくったら……。

めりめり剥がされることもないから
来歴の血も滲まず
たぎることなく
もて遊ばれることすらなく
分節をなくして溶けかかっている

 あ、まだ続いている。でも、その「続き」が私にはわからない。これはいったいどうなっている?「分節」なんて、いやなことばだなあ。

どこからともなく漂ってきた
記憶の霧が立ちこめ
しだいに深くなってきた

 これは「分節」がなくなった、「分節」が溶けかかった風景を「比喩」にして言いなおしているのだと思うけれど。そして図書館の書架の崖から見えるのは(無数の書物の整列、亡霊のことばの集積から見えるのは)、ことばがどんなに「分節」されていようとも、その基底には「未分節」がある--それが見えるということを書き表そうとしているのだと思うけれど。
 うーん、いやだなあ。読みたくないなあ、と思ってしまう。
 こんなこと書かなくたって、5ページのひとかたまり(最初に引用した部分)だけで「図書館」とわかるから、それで充分だと思う。
 わざわざ「切断」をつくった上で、それを接続させるというのは物語という時間のなかで意識を動かしてみせるという感じがして、気持ちよくない。「意識」の物語はいやだなあ。特に、その動かしてみせるもののなかに「知識」が紛れ込んでいるのをみると、いやあな気持ちになる。「意識」って「知識」でできているのかなあ。
 この詩で言えば……「分節」ってわかるか?と詰問されている感じ。
 わかりません。
 私の周りでは、だれも「分節」ということばを口にしない。「口語」では「分節」なんて言わない。「節分」は聞いたことがあるけれど「分節」は聞いたことがない。「声」で聞いたことのないことばは、私は、わからない。「声」で聞くと、そのことばを発したひとの「肉体」とそのことばがどんなふうに結びついているかなんとなくわかり、その「なんとくなく」の積み重ねが「意味」だろうなあ、と私は感じている。「節分、節分」と言って、豆まきをしたり「鬼は外」と言ったりしていると、そうか「節分」というのはなにかの区切りだな、区切りをつけながら気持ちを入れ換えるんだなという、ひとの「気持ち(意味)」がわかる。
 「声」をとおして聞いたことば以外が出てくると、私は、なぜか身構えてしまう。用心しようと思ってしまう。だまされそう--と思ってしまう。政府の「答弁」なんかに、ときどきでてくるね。「スキームって何?」「そんなことも知らない人間に説明してもはじまらない」という感じ。何かをごまかすために、そういうことばはつかわれる。国民をだますためにつかわれることばというものがある。
 詩なのだから、だまされたっていいし、まただまされることが楽しいのではあるけれど、だまされ方が違う。知らないことばでだまされるのではなく、知っていることばでだまされたい。

 あ、脱線したか。
 脱線ついでに。

 詩はどのようなものであれ、時間がつくりだす連続性(物語)を破ったときにあらわれるものである。だから「物語(作者が語ろうとしている主題、ストーリー)」は気にせず、あるいは無視して、好きなところだけ探して、好き勝手を言えばいいのだと思う。
 だれかを好きになるとき、その「好きな部分」をその人自身が「好き」かどうか、だれも気にせずに好きになる。「がさがさの声だから、いやになる」「そのかすれ具合がセクシーだから好き」という感じ。
 金子の詩の、どこが好きか。
 「放尿 Ⅰ」の最後の連。

川岸へぶらり、
降りて、立ちしょんべんをした
弧を描いて夕日に輝く、しょんべんだ
一糸まとわぬ仮面へと高揚する
黄金のしょんべんだ

 「川岸へぶらり、/降りて、」の読点「、」と改行による切断と接続が、瞬間的なためらいのようなもの、肉体のリズム(辺りをうかがう感じ)がして楽しい。「川岸へぶらり降りて、」とつながってしまうと、最初から「意図」があって、それに肉体がしたがっているだけという感じがして、「おい、やめろ」と言いたくなるけれど、読点と改行がとてもおもしろい。そして、続く「立ちしょんべん」も音が美しい。「立ちしょうべん」では音が汚い。「立ち小便」では字面がおもしろくない。
 「弧を描いて夕日に輝く、しょんべんだ」は、よし、今度川原で立ちしょんべんをしてみよう。夕陽にきらきら輝かせてみようという気持ちになるなあ。
 「一糸まとわぬ仮面へと高揚する」は何のことかわからない。「意味」がとれないのだけれど、詩はこういう「意味」を拒絶したことばの暴走にある。かっこよさにあると思う。
 あ、ここはいいなあ、と思う。
 
切り屑のような文字をせわしなく打ちながら
真夜中のベッドですすり泣く少年よ
ケータイは君より、よく知っている
哀しみが固まる前に あっさりと涙を流してしまう失禁の正体を
                          (「マナーモード、中止」)

 センチメンタルを「失禁」ということばで汚してみせる羞恥心(?)もおもしろいなあ。「ケータイは君より、よく知っている」とケータイを人格化している行は、私は知らず知らずに「ケータイ君は、きみよりよく知っている」と読んでしまっていた。

雪に打たれ
びちゃびちゃに濡れた段ボール箱の空白が、
ここにも
どうしようもなくあるにちがいない
                             (「空、空隙、空」)

 「空白」ということばが「現代詩」にまみれすぎているけれど、雪のために「びちゃびちゃ」に濡れた感じが、ほんとうに段ボール箱を見たんだな、と感じさせる。「びちゃびちゃ」という手抜き(?)のことばがなまなましい。「肉体」からあふれてきてしまった、未整理のまま、という感じを生々しく伝える。「びちゃびちゃ」と一緒にある、雪晴れの光、温かさが伝わってくる。
 「ここにも」という一行は、自分自身の「肉体」の「ここ」、「肉体」があるときにそこに存在してしまう「空間」をつよく感じさせる。一行、ここで独立していなければならない--そういう「肉体」の「声」が聞こえる。そういう「声」に対して「どうしようもけなく」ということばが呼応している。
 「意味」になってつたわってこないもの、「意味」になる前の「肉体」の「存在」そのものがある。

 「火を焚く」には、

なろうとするぶんだけ
それだけ停滞する

 という魅力的な2行がある。「意味」になる前も「肉体」は停滞する、何になるときでも、「なる」寸前は停滞する。その停滞のなかにあらわれてくる「未分節(未生)」が詩の生成の場である。「分節」ということばをつかって、金子に寄り添えば、そういうことになるだろう。
「文語」を排除し「口語」でことばを動かすと、もっともっとことばは暴走するだろうなあという予感がする詩集である。


詩集 蛙の域、その先 (現代詩の新鋭)
金子 忠政
土曜美術社出版販売
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(195)(未刊・補遺20)

2014-10-02 10:35:07 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(195)(未刊・補遺20)2014年10月02日(木曜日)

 「引き出しより」は引き出しの中から昔の男の写真がでてきたときのことを書いている。額に入れて壁にかけようとした。それくらい思い出のある男なのだ。「だが引き出しの湿気が駄目にしていた」。「もっと大切にしまうのだった。」と後悔するが、もうどうすることもできない。「あのくちびる、あの面差し……/ああ、過去が帰るものなら……」と思う。

この写真を額に入れるのはやめよう。

駄目になったままでがまんして見てゆこう。

駄目になっていなかったとしたら、それはそれで
困っていただろう、この写真のことを聞かれる度に
言葉遣いから、声の震えからばれはしまいかと
気がかりで悩んでいただろうから。

 最終連がカヴァフィスらしいことばの動きだ。
 人の隠しごとがばれるときいろいろなことがある。何も言わなくても、目の動きを初めとする表情や、ふるまいのぎごちなさから、こころの動揺がわかるときがある。カヴァフィスはそういうことには触れず、

言葉遣いから、声の震えから

 と書いている。根っからの「ことば」の人である。しかも、その「ことば」は書きことばではない。話すことば。「口語」である。息が肉体の中から喉を通り抜けてくるときの音。ガヴァフィスは、それに耳を澄ましている。
 その音の変化から何かがばれやしまいか、と思うのは、カヴァフィスに、音の変化から何らかの秘密を感じ取った経験があるからだろう。
 カヴァフィスの詩には「口語(話しことば)」が頻繁に出てくるが、そこには「意味」だけではなく、「声の響き」も含まれているはずだ。
 中井久夫は、その「声の響き」を聞き分け、それにふさわしいことばを選びつづけている。カヴァフィスも中井久夫も、「他人の声(肉声の響き)」を聞きとる耳を持っている。「意味」も聞きとるが、耳で感情(主観)をぱっとつかまえて、それを舌にのせて表現する。そのたびに、そこに「人間」が「肉体」をもってあらわれる。
 「意味」は要約し、共有できるが「肉体」は要約できないし、共有もできない。「肉体」はひとりひとりのものである。ひとりひとりが動き、世界ができている--「全詩集」を読み通すと、そういうことが感じられる。「複数の声」が世界をにぎやかにしていることが実感できる。
                (「カヴァフィスを読む」は今回が最終回です。)




リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社

「リッツォス詩選集」(中井久夫との共著、作品社)が手に入りにくい方はご連絡下さい。
4400円(税抜き、郵送料無料)でお届けします。
メール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせ下さい。
ご希望があれば、扉に私の署名(○○さま、という宛て名も)をします。
代金は本が到着後、銀行振込(メールでお知らせします)でお願いします。
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比喩は

2014-10-02 00:54:58 | 
比喩は

比喩は矛盾した絵画である。
描かれるものと描かれたものは同一ではない。
しかも同一ではないことによって真実になる。
という論理には欠伸が出てしまった。

私はそこからひとつのことばを差し引きたい。
比喩は絵画である。
つまり時間を超越している。
もし比喩が永遠であるとするなら、理由はそこにある。

たとえば、その寝台に横たわる薔薇という古くさい比喩。
絵画ならば陰部のような開いた花びらと
皺のないシーツを同時に描くことができる。

ことばは、どちらかを先に言ってしまわなければならない。
鼓膜の闇に落ちていく音楽のように、
消えながら、まだ来ない時間を夢みる。



*



新詩集『雨の降る映画を』(10月10日発行、象形文字編集室、送料込1000円)の購読をご希望の方はメール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせください。
発売は限定20部。部数に達し次第締め切り。
なお「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)とセットの場合は2000円
「リッツッス詩選集」(作品社、4400円、中井久夫との共著)とセットの場合は4500円
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」「リッツッス詩選集」「雨の降る映画を」三冊セットの場合は6000円
です。
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