内田吐夢監督「飢餓海峡」(★★★★)
監督 内田吐夢 出演 三國連太郎、左幸子、伴淳三郎、高倉健
タイトルが連想させるように、この映画のテーマは「貧困」である。貧困が引き起こす飢餓。いまの日本は格差社会が拡大し、再び貧困と飢餓(食べられない)が問題になりつつあるが、この映画が公開された当時(1962年)のように、貧困(飢餓)がくっきりとは見えにくいので、ちょっと語りにくい。現代の格差社会のいちばんの問題は、貧困を隠すようにして「高級志向」が宣伝されているところである。食品にしろ、オーディオにしろ、いままでなかった贅沢(高級)が宣伝されている。
というようなことを書いてもはじまらないので……。
この映画で、私がいちばん好きなのは、左幸子が三國連太郎の爪を取り出して、セックスを思い出すシーンである。最初に見たときもびっくりしたが、何度見てもおもしろい。爪を取り出し、その爪で顔に触る。触覚が男を覚えている。まだ若い左幸子の肌がはりつめていて、そこに爪が食い込む。やわらかな触覚というのではなく、どこかで刺すような痛みのある触覚。血につながる触覚である。
これより前に、出会いのセックスがあり、そこでは爪が喉にくいこんで傷がつく。血が出ている。それを痛がるというよりも、セックスをした証のように思い出す左幸子。さらに男の爪を切ってやり、そのあと畳に落ちていた爪で掌を傷つけるシーンがある。このときも血が滲む。(左幸子はこの爪を大事に持っている。)
左幸子は自分の血を流しながら、その血を流させてくれた(?)男を思うのである。自分のなかに血が流れているのをはっきり自覚する。同時に、自分の血を見ながら、男の肉体のなかに流れている血を感じる。外からは見えない、温かいものを感じ取る。左幸子は男の「やさしさ」を直感的に見抜いている。
左幸子は「やさしさ」に触れ、その「やさしさ」を守り通したいと思う。それは自分自身のなかにある「やさしさ」、貧困者の「いのち」のよりどころのようなものである。
もうひとつ、好きなシーンがある。伴淳三郎の家庭が描かれる。刑事なのだが、とても貧しい。子供が二人いて、食事のときの芋雑炊の芋を取り合って喧嘩をする。母親がなんとかとりなす。伴淳三郎が家を出ていく。それを母親が玄関へ見送る。そのとき、ふたりは争うようにして鍋から芋をすくい取る。この貧しさ、このこどもの切実さが、とてもいい。母親は母親で、「うちはよそと違ってずるができない(警察官なので違法行為ができない)」というようなことを、ぽろりと口走ったりする。その貧しさのなかで、捜査の失敗から伴淳三郎の家庭はさらに貧困に落ちてゆく。
落ちてゆくのだけれど、最後の辺り、父親がもう一度事件を追いはじめるとき、貧困の原因である父を憎みながらも、その父の生き生きとした姿にこころを揺さぶられてしまう子供(成長している)の対応が泣かせる。どんなに貧しくても、信じていることにすべてをかける。そういう「いのち」のありかたも、ていねいに描かれている。
貧困をめぐっては、三國連太郎の「証言(供述)」も鋭い。三國連太郎は観客が知っている通りのことを言うのだが(殺人の部分は観客が知っているわけではないから、嘘かもしれないが、強盗と火事の部分は知っている通り、映画で見てきた通りである)、高倉健は信じない。そのとき「貧乏人がどれだけほんとうのことを言ってもだれも信じない」と言う。これが、重たい。とても重たい。(格差社会が進んでゆくと、こういうことがこれから起きるだろう。)
三國連太郎はだれにも信じてもらえないということを知っているというより、信じている。そして信じてもらえないと信じ込んでしまっているために、左幸子を殺すということもするのだが、この三國連太郎のことばによって、映画の主役の三人のなかで「信じる」ということが交錯していることが明確になる。貧乏人のこころのなかにある「信じる」の形がぶつかりあい、からみあって「事件」になってしまったことがわかる。--この辺りは「映画的」というよりも「小説的」な展開で、ストーリーとして「必然(必要)」なのだけれど、映画的にはちょっとつらい。映像を見ているというよりも、ことばでこころを見つめなおす感じがするからねえ……。
あ、もうひとつ重要なテーマ(?)があった。この映画に恐山の巫女が出てくる。彼女は「一度来た道は引き返せないぞ」というようなことを言う。左幸子は、そういうことばは巫女が適当に言っているのだと直観でわかっているので(ことばは聞いた人間が満足すればそれでいいだけのものとわかっているので)、三國連太郎とセックスをするとき、遊びのようにして口走り、三國連太郎をこわがらせる。そしてそれが巫女のご都合主義的なことばであるとはわかっているけれど、それを実行してしまう。引き返さない。男を愛しつづける。そのために嘘をつきつづける。一方の三國連太郎の方は、そのことばにしばられつづける。戻りたいと願いつづける。まだ「無実」だった北海道へ戻ってそこからやりなおしたいと願う。これが、最後の最後、「北海道へ連れて行ってくれ」ということばになる。もう一人の主役、伴淳三郎は、そういう「引き返せない道」を客観的に言語化するという立場(ストーリーを完結させる立場)にある。貧困のなかを生き抜いた男と女がどういう人間であったかを客観的に語る。二人はたまたま同じ道をいっしょに歩いたことがある。同行したことがある。そして、愛し合った。そして、引き返さなくなった……。
ことばにしてしまうと(ことばにしてしまうからだが)、これもやっぱり「小説的」な構造だね。原作が小説だから、そうなってしまうのかもしれないけれど。
格差社会と貧困が大問題になったとき、思い出してもらいたい映画ではあるなあ、と貧しい田舎で育った私は、ふと、思う。いまはもう「限界集落」となってしまっていて、引き返すも何もない、たいへんな状況があちこちで起きているのだけれど……。
あ、余分なことを書いたかな?
この映画は、映像の処理がちょっと変わっていて、いまならサイケデリック(?)な感じで描くかもしれない「記憶」(想像)のシーンが斬新だ。ネガのままのような、陰影が反転した感じの映像が、何と言えばいいのか、本能に直接働きかけてくる。目というより、三國連太郎や伴淳三郎の「本能」が目を通さずに見ている「現実(真実)」という感じがしておもしろい。この不思議な形で処理された映像は、左幸子にはつかわれていないので、ここから三人の主役のありかた(男と女の違い)というようなものを語っていくのもおもしろいと思うが、時間がなくなった。(私は網膜剥離の手術以後、40分以上書きつづけると、目がおかしくなる。)また機会があったら書くことにする。
(2014年10月19日、天神東宝4「午前十時の映画祭)
監督 内田吐夢 出演 三國連太郎、左幸子、伴淳三郎、高倉健
タイトルが連想させるように、この映画のテーマは「貧困」である。貧困が引き起こす飢餓。いまの日本は格差社会が拡大し、再び貧困と飢餓(食べられない)が問題になりつつあるが、この映画が公開された当時(1962年)のように、貧困(飢餓)がくっきりとは見えにくいので、ちょっと語りにくい。現代の格差社会のいちばんの問題は、貧困を隠すようにして「高級志向」が宣伝されているところである。食品にしろ、オーディオにしろ、いままでなかった贅沢(高級)が宣伝されている。
というようなことを書いてもはじまらないので……。
この映画で、私がいちばん好きなのは、左幸子が三國連太郎の爪を取り出して、セックスを思い出すシーンである。最初に見たときもびっくりしたが、何度見てもおもしろい。爪を取り出し、その爪で顔に触る。触覚が男を覚えている。まだ若い左幸子の肌がはりつめていて、そこに爪が食い込む。やわらかな触覚というのではなく、どこかで刺すような痛みのある触覚。血につながる触覚である。
これより前に、出会いのセックスがあり、そこでは爪が喉にくいこんで傷がつく。血が出ている。それを痛がるというよりも、セックスをした証のように思い出す左幸子。さらに男の爪を切ってやり、そのあと畳に落ちていた爪で掌を傷つけるシーンがある。このときも血が滲む。(左幸子はこの爪を大事に持っている。)
左幸子は自分の血を流しながら、その血を流させてくれた(?)男を思うのである。自分のなかに血が流れているのをはっきり自覚する。同時に、自分の血を見ながら、男の肉体のなかに流れている血を感じる。外からは見えない、温かいものを感じ取る。左幸子は男の「やさしさ」を直感的に見抜いている。
左幸子は「やさしさ」に触れ、その「やさしさ」を守り通したいと思う。それは自分自身のなかにある「やさしさ」、貧困者の「いのち」のよりどころのようなものである。
もうひとつ、好きなシーンがある。伴淳三郎の家庭が描かれる。刑事なのだが、とても貧しい。子供が二人いて、食事のときの芋雑炊の芋を取り合って喧嘩をする。母親がなんとかとりなす。伴淳三郎が家を出ていく。それを母親が玄関へ見送る。そのとき、ふたりは争うようにして鍋から芋をすくい取る。この貧しさ、このこどもの切実さが、とてもいい。母親は母親で、「うちはよそと違ってずるができない(警察官なので違法行為ができない)」というようなことを、ぽろりと口走ったりする。その貧しさのなかで、捜査の失敗から伴淳三郎の家庭はさらに貧困に落ちてゆく。
落ちてゆくのだけれど、最後の辺り、父親がもう一度事件を追いはじめるとき、貧困の原因である父を憎みながらも、その父の生き生きとした姿にこころを揺さぶられてしまう子供(成長している)の対応が泣かせる。どんなに貧しくても、信じていることにすべてをかける。そういう「いのち」のありかたも、ていねいに描かれている。
貧困をめぐっては、三國連太郎の「証言(供述)」も鋭い。三國連太郎は観客が知っている通りのことを言うのだが(殺人の部分は観客が知っているわけではないから、嘘かもしれないが、強盗と火事の部分は知っている通り、映画で見てきた通りである)、高倉健は信じない。そのとき「貧乏人がどれだけほんとうのことを言ってもだれも信じない」と言う。これが、重たい。とても重たい。(格差社会が進んでゆくと、こういうことがこれから起きるだろう。)
三國連太郎はだれにも信じてもらえないということを知っているというより、信じている。そして信じてもらえないと信じ込んでしまっているために、左幸子を殺すということもするのだが、この三國連太郎のことばによって、映画の主役の三人のなかで「信じる」ということが交錯していることが明確になる。貧乏人のこころのなかにある「信じる」の形がぶつかりあい、からみあって「事件」になってしまったことがわかる。--この辺りは「映画的」というよりも「小説的」な展開で、ストーリーとして「必然(必要)」なのだけれど、映画的にはちょっとつらい。映像を見ているというよりも、ことばでこころを見つめなおす感じがするからねえ……。
あ、もうひとつ重要なテーマ(?)があった。この映画に恐山の巫女が出てくる。彼女は「一度来た道は引き返せないぞ」というようなことを言う。左幸子は、そういうことばは巫女が適当に言っているのだと直観でわかっているので(ことばは聞いた人間が満足すればそれでいいだけのものとわかっているので)、三國連太郎とセックスをするとき、遊びのようにして口走り、三國連太郎をこわがらせる。そしてそれが巫女のご都合主義的なことばであるとはわかっているけれど、それを実行してしまう。引き返さない。男を愛しつづける。そのために嘘をつきつづける。一方の三國連太郎の方は、そのことばにしばられつづける。戻りたいと願いつづける。まだ「無実」だった北海道へ戻ってそこからやりなおしたいと願う。これが、最後の最後、「北海道へ連れて行ってくれ」ということばになる。もう一人の主役、伴淳三郎は、そういう「引き返せない道」を客観的に言語化するという立場(ストーリーを完結させる立場)にある。貧困のなかを生き抜いた男と女がどういう人間であったかを客観的に語る。二人はたまたま同じ道をいっしょに歩いたことがある。同行したことがある。そして、愛し合った。そして、引き返さなくなった……。
ことばにしてしまうと(ことばにしてしまうからだが)、これもやっぱり「小説的」な構造だね。原作が小説だから、そうなってしまうのかもしれないけれど。
格差社会と貧困が大問題になったとき、思い出してもらいたい映画ではあるなあ、と貧しい田舎で育った私は、ふと、思う。いまはもう「限界集落」となってしまっていて、引き返すも何もない、たいへんな状況があちこちで起きているのだけれど……。
あ、余分なことを書いたかな?
この映画は、映像の処理がちょっと変わっていて、いまならサイケデリック(?)な感じで描くかもしれない「記憶」(想像)のシーンが斬新だ。ネガのままのような、陰影が反転した感じの映像が、何と言えばいいのか、本能に直接働きかけてくる。目というより、三國連太郎や伴淳三郎の「本能」が目を通さずに見ている「現実(真実)」という感じがしておもしろい。この不思議な形で処理された映像は、左幸子にはつかわれていないので、ここから三人の主役のありかた(男と女の違い)というようなものを語っていくのもおもしろいと思うが、時間がなくなった。(私は網膜剥離の手術以後、40分以上書きつづけると、目がおかしくなる。)また機会があったら書くことにする。
(2014年10月19日、天神東宝4「午前十時の映画祭)
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