詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透『現代詩論集成1』(11)

2014-10-08 11:09:47 | 北川透『現代詩論集成1』
北川透『現代詩論集成1』(11)(思潮社、2014年09月05日発行)

 Ⅱ「荒地」論 戦後詩の生成と変容
 十 屹立する観念の彼方 田村隆一覚書

  222ページに「成熟の不可能」ということばがでてくる。それが田村隆一の「特質(本質)」である、と北川は指摘する。かっこいいことばだ。私はこういうかっこいいことばに弱い。言いかえると、「成熟の不可能」ということばが具体的に何を指しているのか明確にはわからないのに、かっこよさにひかれて、北川の書いていることは「真実」を含んでいると思い込んでしまう。思春期の「あこがれ」のようなものだ。私はこの「癖(嗜好?)」を捨てきことができない。
 わからないまま読み進んでいくと「観念のリアリティ」( 223ページ)ということばも出てくる。これは田村について語ったことばだが、私が「成熟の不可能」ということばに感じたのも「観念のリアリティ」かもしれない。くっきりと浮き立って見えるように感じる何か。何かを見たと感じるような、不可解な刺戟。こういう感じを「観念のリアリティ」というのか……。
 そんな感じのなかで、「観念のリアリティ」ということばを媒介にして、北川と田村は「ひとり」になって見えてくる。
 このあたりから見ていけば、何かがわかるのかな?
 そのあとに、

田村の初期の詩を、現実とは別な秩序をもった、観念の屹立性とでもいうべき性格においてとらえる視点そのものを変更しようとは思わない。( 223ペー)

 と書かれている。「観念のリアリティ」と「観念の屹立性」は、同じことを指しているかもしれない。
 「現実」とは「別な秩序」で「屹立」するように存在する「観念」。そこには「現実(ものの世界/形而下の世界)」とは別の「秩序(構造?/生成する力?)」で動いている観念というものがある。それは「現実」から独立している(屹立している/孤立?している)。つまり、別個のもの。だから際立って感じるのか。「異質」な感じが「肉体」のどこかを刺戟してくるのか。
 私の補足は、まあ、いいかげんなもの。「誤読」だろうが、そのあとで、北川は「腐刻画」という作品を引用して、次のように書く。

 まず、ドイツの腐刻画がそこにあるのではなく、かつてそれで見た《或る風景》が、いま、<彼>の前にある、とされている。( 224ページ)

この作品において、詩人は、この《或る風景》を幾つもの対位する印象の組み合わせとして示すのである。( 224ページ)

 エッチングで見た風景が「観念」のようにして、いま、ある。現実の風景を見るのではなく、田村はエッチングで見た風景のなかにある観念(エッチングの風景があらわそうとしている観念的なもの)を田村は見ている。そして、絵のなかの「観念」というのはひとつではなく、いくつもの観念が向き合っていると見ている。絵のなかからいくつもの「観念」をつかみ取り、絵を、その「観念」のドラマと見ている--その見た「観念のドラマ」を田村は、現実に重ね合わせている。
 このとき田村が見ているのは「現実」か、それとも「絵のなかの観念のドラマ」か。まあ、区別はしなくていいと思う。両方なのだから。両方あることで、ことばが動いているのだから。
 このあと北川は「対位」ということばを説明するために「仮構」( 224ページ)ということばをつかっている。そして、

この「腐刻画」が、てっていした対位法うによる構築という詩法によって成立していることに、注意すべきだ。対位法--つまり、ふたつの対立するイメージ、リズム、主題、観念の組み合わせによって作品を構成する手法は、彼のおそらく資質を貫いて、彼の作品史のなかでもっとも変わらないもの    ( 224ページ)

 と書く。(「対位」を「ドラマ」ということばでも言いかえているように思う。「観念のドラマ」という表現が 225ページにある。)
 あ、かっこいい分析だなあ、と思う。
 そう思いながら、私は、ふっと疑問にもとらわれる。最初にかっこいいと思った「成熟の不可能」はどこへいった?
 よくわからない。
 よくわからないが、このあと北川の文章の中には「ヨーロッパ」がしきりに出てくる。「ヨーロッパの観念(第一次大戦後のヨーロッパの戦後意識)」( 227ページ)という具合に。あるいは「語り手が憑いている第一次大戦後のヨーロッパの文明批評の意識」( 230ページ)という具合。
 なぜ、ヨーロッパの第一次大戦後の観念(意識)なのか--と問えば、それが「荒地」の理念だからという答えが返ってくるのかもしれないが、私はどうにも落ち着かない。田村は第一次大戦後のヨーロッパで「現実」を体験しているわけではないだろう。そういう人間にとって、第一次大戦後のヨーロッパの「観念」というのは、どれだけ「切実」なのだろうか。どれだけ自分のものとして「維持」できるのだろうか。
 「成熟の不可能」なとどいわなくても、それは成熟させようがないのではないだろうか。そういう疑問がわいてきて、北川の書いていることが、どうにも「実感」に迫って来ない。「かっこいい」と思ったけれど、どこがかっこいいのか、わからなくなる。

 わからないまま、読み進み、次の部分で、また思わず傍線を引いてしまう。

 彼の詩の観念の過激化が、実際の生活感情や生活意識との関係を遮断し、真空のように密室化した観念内部の自己劇化として起こっていることに気づかねばならない。その自己劇化は、対位法を中心とする徹底したことばの構築という方法によっていたのである。そして、そこにわたしが最初に述べた、現実とは別な秩序をもった観念の屹立性とでもいうべき性格をもった詩が、わが国の詩史上はじめて出現したのである。

 そう書かれると田村の詩の特徴がわかったような感じがするのだが……。
 「実際の生活感情や生活意識との関係を遮断し、真空のように密室化した観念内部」「現実とは別な秩序をもった観念」というものがあり得るのだろうか、と私は思ってしまう。「実際の生活」(日本の、田村の生活)とは「遮断した」状態の「ヨーロッパの第一次大戦後の観念」、「現実」(日本の、田村の生活)とは別の「ーロッパの第一次大戦後の観念」という具合になら考えられるけれど、それでは何か変なことになってしまうなあ。「ヨーロッパの第一次大戦後の観念」がたとえどんなにすぐれたものであったしても、その「屹立性」を田村が維持しなければならない理由というものがわからない。田村の生地(故郷)への反感が理由である、と言えるのかもしれないけれど、うーん、なぜ「ヨーロッパの第一次大戦後の観念」なのだろう。なぜそれを田村は(あるいは「荒地」は)自分の指針として選んだのか。そして北川はなぜそれを「正しい(?)」と思ったのか。肯定したのか。それが、わからない。

 「荒地」グループの詩人が「ヨーロッパの第一次大戦後の観念」に刺戟を受けて彼らのことばを鍛えたかもしれないが、それを守り通す(?)必要などないのではないだろうか。北川は「理念」にこだわりすぎていないだろうか、と思う北川は「ヨーロッパの第一次大戦後の観念」に刺戟を受けたのか。それを北川の「論理」のよりどころ(支えてくれるもの)と感じているのだろうか。別な言い方をすると「共鳴」しているのか。
 私は「荒地」の詩をかっこいいと思うけれど、そのとき「共鳴」するのは「ヨーロッパの第一次大戦後の観念」とは関係ない部分なので、北川の文章を読みながら、どうも納得できないものを感じてしまう。「論理」的には北川の指摘は「正しい」のかもしれないけれど、その「正しさ」を「頭」で理解しようとすると、「肉体」のどこか(何か)、「頭」ではない部分が、「待て」とつぶやくのである。

 「恐怖の研究」について語っている部分がある。

 私たちは、ここでまた、これまでの観念の屹立性と同じ特徴を言うことができる。微妙な変化を言えば、対位法を構成する言語意識はより研ぎすまされ、命令法と断言によるリズムはより自在な流露感を生み、語り口は奔放になる。しかし、一方では同じことの繰り返しが、停滞や自己模倣を印象させるようになってきたこともたしかだ。( 236ページ)

 田村の詩の魅力は「命令法と断言によるリズムはより自在な流露感を生み、語り口は奔放になる」という部分に要約されているように私には思える。田村の詩には「観念」もあるが、ひとは「観念」を把握する前に、ことばの響き、音の動き、滑らかさに引きつけられないだろうか。目で読んで、読んだ瞬間に何かかっこいいと思う。耳で聞いて、聞いた瞬間に、それを自分の口で言ってみたいと思う。そういう欲望をさそうリズムが田村のことばにはある。そういうリズムのまま、何やらむずかしそうなこと(理念的なこと)を田村は語る。あ、そういうややこしいことも日本語で語ることができるのだ--という驚きが読者をひっぱっていっているように私には思える。
 語感、リズムというのは、声に出したとき「肉体」が感じる反応。のどが気持ちよかったり、耳が気持ちよかったりする。音が「美しい」と感じたりすること。音楽理論をつかえば何かわかるかもしれないけれど、私は音楽の素養がないので、感じるとしか言いようがないのだけれど。美しいハーモニーを聞いたとき、その和音の構造がわからなくても美しいと感じたり、刺激的なリズムに出合ったとき、それがどういう構成なのかわからなくてもかっこいいと感じるように、あることばとことばの結びつき、そのときの「音」にびっくりする感じは、日本語を話したり聞いたりしている「肉体」には自然におきる反応だと思う。「意味(論理)」ではなく、何か、私はそういうもの「論理」になりきれないものに反応して「かっこいい」と感じてしまう。
 「語感」、ことばの調子--それが引き起こす感覚的な印象。これは「論理」のように検証するのがむずかしい。「かっこいい」という印象を引き起こすということした私には言えない。その語感のまま語りつづければ、世界はどんな姿を全体としてみせることになるか、というのはさらに検証がむずかしい。「かっこうよさ」を自分で再現して確かめようとすれば、「模倣」「盗作」ということがおきるだけである。そこにあることばの結びつきと似たものを自分でつくってみて、これでいいのかな、と試してみるしかない。ビートルズの和音がかっこいいなら、それを真似して自分で適当に音を動かして曲をつくるようなものだ。「模倣」「盗作」がいちばんの評価であるという「矛盾」のようなことが起きてしまう。
 音楽の「和音」のようなものが「ことば」のなかにもあるのだと思うけれど、それはまだ解明されていないように思う。
 「論理(理念)」ではないことばの動きをどう定義し、評価していくか。むずかしいけれど、それを抜きにしては詩はありえないしなあ……。
 そんなことを、ふと考えた。
北川透 現代詩論集成1 鮎川信夫と「荒地」の世界
クリエーター情報なし
思潮社

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

その日記は、

2014-10-08 00:38:12 | 
その日記は、

その日記は、ひとつの夏がなかったかのように飛ばされていた。
晴れた日の金色の夕焼けに目を奪われて、
百日紅の白い色が比喩のように散ったことは
ほかの人にはほとんど気づかれなかった。

そして戻ってきたときには、
散歩道と芝生のあいだに花びらが落ちていて
花びらの縁はしなびて錆を浮かべていた。
その夏、私は一冊の詩集のために時間をつかってしまったが
覚えているのは私だけであると書いて
秋をはじめるのだった。
(言いたくなかったことのなかに真実があると私は書かなかった。


*



新詩集『雨の降る映画を』(10月10日発行、象形文字編集室、送料込1000円)の購読をご希望の方はメール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせください。
発売は限定20部。部数に達し次第締め切り。
なお「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)とセットの場合は2000円
「リッツッス詩選集」(作品社、4400円、中井久夫との共著)とセットの場合は4500円
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」「リッツッス詩選集」「雨の降る映画を」三冊セットの場合は6000円
です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする