佐藤裕子「-しびとに夢を見てはならいない-」(「YOKOROCO」2、2014年10月08日発行)
佐藤裕子「-しびとに夢を見てはならいない-」はとても奇妙な詩である。形が変なのである。
私の引用では正確な形にならない(まず、ブログでは横書きになってしまう)のだが、何が「変」かというと「行間」がないのである。七字さがって書きはじめられ、次の行へ行くときの印刷に「行間」がない。そして、それがちょうど書き出しの七字のところでいったん終わる。そのためにこれはもしかしたら、一行が折れ曲がっている? という印象を呼び起こす。
つまり、引用し直すと
ということばが、何らかの圧力で上の七文字だけ左の方へ押しやられて、断層のようにしてつながっているのではないか、という印象を視覚に与える。
あるいは、上の七文字は七文字で横に読むことで完結し、下の長いことばは長いことばで横に読むことで完結しているのかもしれない。
つまり、
という具合に読むのがいいのかもしれない、と視覚で思ってしまう。ことばの「意味」(ことばのつながり)を追う前に、視覚が揺れ動く。定まらない。私は網膜剥離で手術をして以来、目の調子がとても悪い。もともと近眼がひどく乱視も入っているので、なんだか目がチカチカしてしまう。
「行間」が衝突してつぶれてしまい、その圧力でそこから光が発しているようなチカチカ感(?)がある。
うーん、これ何?
この「行間」を私は読めるだろうか。
私の読み方は「邪道」で、ことばはことばの意味を追って、そこに書かれている「思想」を読み取らなければいけない--のかもしれないが。
うーん、と私はまたうなる。
私はもともと詩を「意味」を追いながら読んだことはない、と思い出してしまう。そこに書かれていることばの一瞬の美しさにひかれて読んでしまう。ことばのかっこよさにひかれて読んでしまう。
このランボーの「永遠」の書き出し(正確ではないかもしれない)も、「意味」なんてわかりはしない。この詩を読んだ当時、私の知っている海は富山湾と能登の海なので、太陽と海が溶け合った姿だってランボーの見ているものとはまったく違うはずだ。そして、まったく違うということを「理解(?)」して、私は私の肉眼で見た海ではなく、それを超越した輝かしい地中海を思い浮かべた。もちろん地中海なんて、実際には知らない。ランボーは、もしかしたら大西洋を描いているのかもしれないけれど、この輝かしさは古典文明の生まれた地中海(あるいはギリシャの海?)と勝手に思い込んでしまう。
ランボーの詩は、そのあともつづきがあるのだが、つづきは読みながら、読んでいない。そこに書いてある「意味」なんか追ってはいない。ただ、瞬間的に見えた海の美しさにすっかり酔っぱらってしまう。
そういう詩の「よろこび」につうじるものが佐藤の詩の形にある。
これはいったい何?
何が書いてある?
ことばが折れ曲がって、それでも続いている。
どんな力が、なぜ、全ての行を同じように切断し、同時に接続しているのか。なぜ、その力を隠したまま、力が働いたという印象だけを前面に出しているのか。
わからない。わからないけれど、佐藤はこの形を必要としている。その必要の「意味」を佐藤もわからないかもしれない。わからなくてもいいと思う。だいたい、詩は、わかって書くのではなく、わからないからとりあえず書いてみて(ことばを動かしてみて)、これがほんとうに自分の思っていたことだろうか、自分は何を考えようとしていたのだろうかと思いなおすようなもの。自分の考えに近づく、あるいは自分の考えようとしていたことを突き破って自分でなくなってしまう--「詩」そのものになってしまう。自分の言いたいこと、書きたいことが明確にわかっていたら、書かないかもしれない。
こんなことをくだくだと書かずに、はやく佐藤の「思想」を、ことばを追って説明しろ、明確にしろ--と言われそうだが。
そんなことは無理。
一行一行ことばを追いかけ、そこに山崩れを見て(視界をひっぱられて)、その崩れたむき出しの山肌のまわりに緑がそのままあるというのを目撃し、緑が自然の狂暴な命の力何かを隠していると感じ(山が崩れても緑は緑のまま、まだ生きていると感じ)、そこから庭のことを思い(草が茂り放題の庭?)、そこにいる斑猫を思い、猫についていた引っ掻き傷は山崩れと緑の関係に似ていると思い、さらに狂暴な力ということばをもう一度たぐりよせて、そうか、ここでは佐藤は狂暴な力というものと向き合っているのだな、とそれらしく「意味」を捏造する。で、そのとき、蜘蛛の糸は? あ、これは猫にくっついているねばねば。その下に掻き傷がある……。その蜘蛛の糸も死んでいながら、猫に絡みつくという生き方をしている。自然はあくまで狂暴だ。
あるいは、そんなふうに死んでしまったもの(山崩れ、掻き傷、破れた蜘蛛の糸)に何かの夢を見てはならない。そこから狂暴という「意味」を引き出してはならない。そこで終わってはならない。ものとものとのつながり(回廊)は、どこまでも続いて行く。そして、それは諭すように招いている。いや、そんなものは、嘘。回廊を造った占星術者も一角獣もいない。超越的な「意味」など、どこにもない。
「意味」は「寓意」、現実に接近するふりをしてつくられた嘘の中で動いている。それはどうしたってまがまがしい。そこでは「受難」というような苦しみが似つかわしい。やさしさもよろこびではなく、強い力(狂暴)が働くときに生まれるもの。花さえも悲劇(受難)をあらわす。何もかもが共謀へと突き進む。母を描いた宗教画にも、やさしさではなく「狂暴」が画されている、云々。
書こうとすれば、ことばはどこまでも動く。「意味」というのは、それくらいいい加減(佐藤が正確な意味を書こうとしているのだとしたら申し訳ないが)にでっちあげることができる。私の書いた「意味」の一部が佐藤の思いと重なるかもしれない。でも、そういうものは偶然。私は佐藤の「意味」なんか気にしないで、自分の思いやすいことを思っている。私が「肉体」で覚えていることをつなぎあわせている。山崩れを見たときの印象などをつなぎあわせている。宗教画なんて、暗くて嘘っぽい。何か、脅しを含んでいる凶悪なものであるなんていう印象がまぎれたんでいる。
だから。
そういうことは関係なくて、私がこの詩がおもしろいと感じたのは、詩の形、こういう行の折れ、行間のない感じで詩を書こうとしている佐藤の書き方への指向(嗜好?)に、うわっ、変な女。こわい。こわいけど、もっと見てみたいと引きつけられる。
「意味」はどうでもよくて、ランボーの詩から太陽と海が見えるように、佐藤のことばから山崩れや緑や斑猫の傷、蜘蛛の糸が見える。しにびとさえも見える。それらをつないでいるものは見えないけれど、そこに書かれている「もの」が直接見える。それを見るとき、「もの」を見ているのか、それともそれをつなぐ「何か(意味)」を見ているかは気にしない。「もの」が見えるということは、きっと無意識の何かが「意味」をも見ているに違いない。そしてそれは「無意識」で見ているので、ことばにはできない。それが「見える」にかわるには、もっともっともっともっと、佐藤のことばを読まないといけない。さとうのことばにおぼれないといけない。
こういうことが、詩では、あるのだ。
佐藤は、昨年『母系譜』(阿吽塾、北海道北見市川東31-39、電話0157-32-9120)というとても変な詩集を出している。ことばに無理な力がかかっていて、その無理を何が何でも押し通している。今回の詩も、そういう無理を押し通す狂暴な何かがあって、とてもおもしろい。わくわくする。(さっきは、こわい、と書いたんだけれど……。)詩集がまだあるかどうかわからないけれど、関心のあるひとは、ぜひ、問い合わせて、読んでください。
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佐藤裕子「-しびとに夢を見てはならいない-」はとても奇妙な詩である。形が変なのである。
歩で視界は折れ山崩れ続く緑の目隠し顧み庭を指す斑猫
掻き傷蜘蛛の糸
しびとに夢を見てはならない回廊は招く諭す占星術者と
一角獣がいない
凶凶しい寓意を覆う枯れ野受難の花ばかりを送られた母
影へ傾く宗教画
私の引用では正確な形にならない(まず、ブログでは横書きになってしまう)のだが、何が「変」かというと「行間」がないのである。七字さがって書きはじめられ、次の行へ行くときの印刷に「行間」がない。そして、それがちょうど書き出しの七字のところでいったん終わる。そのためにこれはもしかしたら、一行が折れ曲がっている? という印象を呼び起こす。
つまり、引用し直すと
掻き傷蜘蛛の糸歩で視界は折れ山崩れ続く緑の目隠し顧み庭を指す斑猫
一角獣がいないしびとに夢を見てはならない回廊は招く諭す占星術者と
影へ傾く宗教画凶凶しい寓意を覆う枯れ野受難の花ばかりを送られた母
ということばが、何らかの圧力で上の七文字だけ左の方へ押しやられて、断層のようにしてつながっているのではないか、という印象を視覚に与える。
あるいは、上の七文字は七文字で横に読むことで完結し、下の長いことばは長いことばで横に読むことで完結しているのかもしれない。
つまり、
掻き傷蜘蛛の糸
一角獣がいない
影へ傾く宗教画
歩で視界は折れ山崩れ続く緑の目隠し顧み庭を指す斑猫
しびとに夢を見てはならない回廊は招く諭す占星術者と
凶凶しい寓意を覆う枯れ野受難の花ばかりを送られた母
という具合に読むのがいいのかもしれない、と視覚で思ってしまう。ことばの「意味」(ことばのつながり)を追う前に、視覚が揺れ動く。定まらない。私は網膜剥離で手術をして以来、目の調子がとても悪い。もともと近眼がひどく乱視も入っているので、なんだか目がチカチカしてしまう。
「行間」が衝突してつぶれてしまい、その圧力でそこから光が発しているようなチカチカ感(?)がある。
うーん、これ何?
この「行間」を私は読めるだろうか。
私の読み方は「邪道」で、ことばはことばの意味を追って、そこに書かれている「思想」を読み取らなければいけない--のかもしれないが。
うーん、と私はまたうなる。
私はもともと詩を「意味」を追いながら読んだことはない、と思い出してしまう。そこに書かれていることばの一瞬の美しさにひかれて読んでしまう。ことばのかっこよさにひかれて読んでしまう。
見つかった
何が? 永遠が
太陽と
溶け合った海が
このランボーの「永遠」の書き出し(正確ではないかもしれない)も、「意味」なんてわかりはしない。この詩を読んだ当時、私の知っている海は富山湾と能登の海なので、太陽と海が溶け合った姿だってランボーの見ているものとはまったく違うはずだ。そして、まったく違うということを「理解(?)」して、私は私の肉眼で見た海ではなく、それを超越した輝かしい地中海を思い浮かべた。もちろん地中海なんて、実際には知らない。ランボーは、もしかしたら大西洋を描いているのかもしれないけれど、この輝かしさは古典文明の生まれた地中海(あるいはギリシャの海?)と勝手に思い込んでしまう。
ランボーの詩は、そのあともつづきがあるのだが、つづきは読みながら、読んでいない。そこに書いてある「意味」なんか追ってはいない。ただ、瞬間的に見えた海の美しさにすっかり酔っぱらってしまう。
そういう詩の「よろこび」につうじるものが佐藤の詩の形にある。
これはいったい何?
何が書いてある?
ことばが折れ曲がって、それでも続いている。
どんな力が、なぜ、全ての行を同じように切断し、同時に接続しているのか。なぜ、その力を隠したまま、力が働いたという印象だけを前面に出しているのか。
わからない。わからないけれど、佐藤はこの形を必要としている。その必要の「意味」を佐藤もわからないかもしれない。わからなくてもいいと思う。だいたい、詩は、わかって書くのではなく、わからないからとりあえず書いてみて(ことばを動かしてみて)、これがほんとうに自分の思っていたことだろうか、自分は何を考えようとしていたのだろうかと思いなおすようなもの。自分の考えに近づく、あるいは自分の考えようとしていたことを突き破って自分でなくなってしまう--「詩」そのものになってしまう。自分の言いたいこと、書きたいことが明確にわかっていたら、書かないかもしれない。
こんなことをくだくだと書かずに、はやく佐藤の「思想」を、ことばを追って説明しろ、明確にしろ--と言われそうだが。
そんなことは無理。
一行一行ことばを追いかけ、そこに山崩れを見て(視界をひっぱられて)、その崩れたむき出しの山肌のまわりに緑がそのままあるというのを目撃し、緑が自然の狂暴な命の力何かを隠していると感じ(山が崩れても緑は緑のまま、まだ生きていると感じ)、そこから庭のことを思い(草が茂り放題の庭?)、そこにいる斑猫を思い、猫についていた引っ掻き傷は山崩れと緑の関係に似ていると思い、さらに狂暴な力ということばをもう一度たぐりよせて、そうか、ここでは佐藤は狂暴な力というものと向き合っているのだな、とそれらしく「意味」を捏造する。で、そのとき、蜘蛛の糸は? あ、これは猫にくっついているねばねば。その下に掻き傷がある……。その蜘蛛の糸も死んでいながら、猫に絡みつくという生き方をしている。自然はあくまで狂暴だ。
あるいは、そんなふうに死んでしまったもの(山崩れ、掻き傷、破れた蜘蛛の糸)に何かの夢を見てはならない。そこから狂暴という「意味」を引き出してはならない。そこで終わってはならない。ものとものとのつながり(回廊)は、どこまでも続いて行く。そして、それは諭すように招いている。いや、そんなものは、嘘。回廊を造った占星術者も一角獣もいない。超越的な「意味」など、どこにもない。
「意味」は「寓意」、現実に接近するふりをしてつくられた嘘の中で動いている。それはどうしたってまがまがしい。そこでは「受難」というような苦しみが似つかわしい。やさしさもよろこびではなく、強い力(狂暴)が働くときに生まれるもの。花さえも悲劇(受難)をあらわす。何もかもが共謀へと突き進む。母を描いた宗教画にも、やさしさではなく「狂暴」が画されている、云々。
書こうとすれば、ことばはどこまでも動く。「意味」というのは、それくらいいい加減(佐藤が正確な意味を書こうとしているのだとしたら申し訳ないが)にでっちあげることができる。私の書いた「意味」の一部が佐藤の思いと重なるかもしれない。でも、そういうものは偶然。私は佐藤の「意味」なんか気にしないで、自分の思いやすいことを思っている。私が「肉体」で覚えていることをつなぎあわせている。山崩れを見たときの印象などをつなぎあわせている。宗教画なんて、暗くて嘘っぽい。何か、脅しを含んでいる凶悪なものであるなんていう印象がまぎれたんでいる。
だから。
そういうことは関係なくて、私がこの詩がおもしろいと感じたのは、詩の形、こういう行の折れ、行間のない感じで詩を書こうとしている佐藤の書き方への指向(嗜好?)に、うわっ、変な女。こわい。こわいけど、もっと見てみたいと引きつけられる。
「意味」はどうでもよくて、ランボーの詩から太陽と海が見えるように、佐藤のことばから山崩れや緑や斑猫の傷、蜘蛛の糸が見える。しにびとさえも見える。それらをつないでいるものは見えないけれど、そこに書かれている「もの」が直接見える。それを見るとき、「もの」を見ているのか、それともそれをつなぐ「何か(意味)」を見ているかは気にしない。「もの」が見えるということは、きっと無意識の何かが「意味」をも見ているに違いない。そしてそれは「無意識」で見ているので、ことばにはできない。それが「見える」にかわるには、もっともっともっともっと、佐藤のことばを読まないといけない。さとうのことばにおぼれないといけない。
こういうことが、詩では、あるのだ。
佐藤は、昨年『母系譜』(阿吽塾、北海道北見市川東31-39、電話0157-32-9120)というとても変な詩集を出している。ことばに無理な力がかかっていて、その無理を何が何でも押し通している。今回の詩も、そういう無理を押し通す狂暴な何かがあって、とてもおもしろい。わくわくする。(さっきは、こわい、と書いたんだけれど……。)詩集がまだあるかどうかわからないけれど、関心のあるひとは、ぜひ、問い合わせて、読んでください。
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。