粒来哲蔵『侮蔑の時代』(18)(花神社、2014年08月10日発行)
「静かな木々」はとても美しい詩だ。タイトルに誘われて書くと、静けさが美しい。
と、独楽遊びのことから書きはじめられている。この「澄んだ」という表現は、とても美しい。何か精神性が感じられる。精神性と思わず書いてしまうが、それは何と言えばいいのか、子供が一人で「発見」する精神ではなくて、ほかの子供と遊ぶ、あるいはほかの遊びをする、さらには大人の姿をかいま見るというようなことから無意識に吸収し、そのまま「事実」としてつかみとってしまう何かだ。大人が口にしたことばなのか、あるいはたまたま先輩(?)子供、つまり昔の子供が言い習わしてきたのか。
そこにはきっと複数の「こと」が反映されている。複数のことが「澄む」という動詞とともに語られ、それが自然に「肉体」にしみ込んできて、納得してしまう。
独楽遊びだけではなく、みんなで歌を歌っていたらあるとき「声」の重なりが「澄む」とか、泣き叫ぶだけ泣き叫んだら気持ちがすっきりした(澄んだ)とか。いろいろな「澄む」という動詞のあり方を目撃し、(しかも一人で目撃するのではなく、暮らしのなかで何人かで目撃し)、「澄む」という「動詞」そのものを「肉体」で覚えるとき、複数の「こと」「ひと」が「澄む」を「精神」にまで高めるのだろう。
で、そういうことを、粒来は言いなおしている。
「蜻蛉釣り」。銀やんまをつかまえるにはこつがある。雌つかまえる。それから糸で胴体をしばり、ふりまわしながら雄を誘う。雄が交尾したところで糸をたぐりよせる。そうしてつかまえる。
独楽の「澄んだ」が蜻蛉では「静寂」ということばに変わっている。「澄んだ静寂」と言いなおしたい感じだ。その「静寂」について、粒来は「死」と結びつけているが、私は「交尾」と結びつけて読みたい。蜻蛉にとって「交尾」は独楽が回転の頂点に達したときのように、命の頂点のときなのだろう。激しく動いている。その動きの頂点。それは「澄んでいる」。蜻蛉は自分のなかにある「本能」の声だけを聞いている。ほかの何も聞いていない。蜻蛉にとって、そのとき「外界」(蜻蛉をつかまえようとしている子供たちの世界)の音(子供たちの歓声)は聞こえない。存在しない。「下界」が「静寂」なのだ。
「澄む」は混じり気がない。不純物がない、ということでもある。
蜻蛉は「死」を目前にしているのではなく、ただ「交尾」の頂点にいる。「命」の頂点にいるということだろう。それ以外が存在しない。「静寂」は「無」でもある。この「無」を「雑念がない」と言いなおすと、それはこころが「澄む」ということにもなる。
「独楽」の部分で、先に引用しなかった行に、「独楽の静止状態にも似た一瞬の、動きながらも而も外形は静止していると思える回転」ということばがあったが、蜻蛉の場合、雄と雌が交尾して、体をしっかりと固定して、「外形」は動かないように見えても、その体の内部では、つながっている部分の奥では、命が激しく動いている。命を動かすのに一生懸命で、「外形」を動かす暇がない。逃げる、というような行動で、命を動きを乱すわけにはいかないのだろう。またそのとき蜻蛉にとって「世界(外界)」は「静止」している。どんなふうに動いていても、蜻蛉の「本能」とは無関係である。独楽の回転が頂点にあるとき、子供たちがどんなふうにはしゃいでいようと独楽にとっては無関係なのに似ている。--というふうに、鏡合わせのように、ふたつのことを見つめ、言いなおすことができる。
動きのなかに静止があり、静止のなかに動きがある。そうであるなら、命のなかに死があり、死のなかに命がある。死は、それ一個のものでありつながりがないが、命は引き継がれていく。連続性がある。
蜻蛉にとって「静寂」とは死ではなく、命を引き継いでゆく行為、交尾の絶対性のことなのだろう。
「絶対性」は「頂点」と通い合う。頂点に達したとき、それはその運動の「絶対性」とともにある。
独楽の回転の頂点を「澄んだ」と呼び、そう呼ぶ精神(こころの動き)が引き継がれていくように、蜻蛉のなかでは死をかけた命の連続が引き継がれていく。「独楽が澄んだ」は独楽遊びのなかで引き継がれていく、独楽遊びをする子供のなかで引き継がれていく「ことばの命」(ことばの動かし方の思想)であるが、それは子供の一生を超えて引き継がれていくものである。
このことは、人間の性愛と死の形で、最後にもう一度言いなおされている。
ここには「性愛」というものが直接的に書かれているわけではないが、「(木)肌を撫でる」「肌が互いに寄り合い擦り合い」ということばが、それを感じさせる。木の描写なのだが、それが「木」なのは、幼い粒来が人間の「性愛」を実際には知らないから、「木」の比喩になってあらわれているのだ。母の目つきのなかに、木々のふれあい(性愛)を見る目を見ている。そして、その性愛の頂点では、森は「静寂」する。「触れあう一瞬のおののきに鳴る音、その音が深まる」のに比例するように「静寂」がやってくる。
独楽が回転の頂点で止まっているかのように見える、動いていないかのように見えるように、「矛盾」の形であらわれる「頂点(絶対性)」。
「絶対性」というものは「矛盾」のなかにある。
「矛盾」というのは「混沌」と似ている。それは、そこに存在しなかったものを生み出す運動である。激しい運動だけが「静止」という「絶対性」を生み出す。
人間にとって、「絶対性」とはなんだろうか。「精神」か。そうかもしれないが、その「精神」が「絶対」になるためには動きつづけること、動きの頂点に達することが必要だ。
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「静かな木々」はとても美しい詩だ。タイトルに誘われて書くと、静けさが美しい。
北国の子供達は、独楽の回りが頂点に達し、一瞬静止したかのよ
うな様相を示すと、独楽が澄んだ--といってはしゃぐ。すると澄
む前の回転、或いは澄んだ後の崩れに至る袴の乱れた舞い姿にも似
た回転は、子供達は何と呼んだのか、私に記憶はない。
子供達は澄んだという形姿以外の独楽の在り様を、何とも名付け
ていなかったのではないか。
と、独楽遊びのことから書きはじめられている。この「澄んだ」という表現は、とても美しい。何か精神性が感じられる。精神性と思わず書いてしまうが、それは何と言えばいいのか、子供が一人で「発見」する精神ではなくて、ほかの子供と遊ぶ、あるいはほかの遊びをする、さらには大人の姿をかいま見るというようなことから無意識に吸収し、そのまま「事実」としてつかみとってしまう何かだ。大人が口にしたことばなのか、あるいはたまたま先輩(?)子供、つまり昔の子供が言い習わしてきたのか。
そこにはきっと複数の「こと」が反映されている。複数のことが「澄む」という動詞とともに語られ、それが自然に「肉体」にしみ込んできて、納得してしまう。
独楽遊びだけではなく、みんなで歌を歌っていたらあるとき「声」の重なりが「澄む」とか、泣き叫ぶだけ泣き叫んだら気持ちがすっきりした(澄んだ)とか。いろいろな「澄む」という動詞のあり方を目撃し、(しかも一人で目撃するのではなく、暮らしのなかで何人かで目撃し)、「澄む」という「動詞」そのものを「肉体」で覚えるとき、複数の「こと」「ひと」が「澄む」を「精神」にまで高めるのだろう。
で、そういうことを、粒来は言いなおしている。
「蜻蛉釣り」。銀やんまをつかまえるにはこつがある。雌つかまえる。それから糸で胴体をしばり、ふりまわしながら雄を誘う。雄が交尾したところで糸をたぐりよせる。そうしてつかまえる。
彼らは実に
静かにつかまる。手にしてからもこちらの指を噛むこともせず、不
意に飛び立って逃げることもない。彼らは交尾以外の些事にかまけ
ることはない。おそらく彼らにとって人の手に捕われ死を目前にし
ても、その死もまた些事と観じているかのようだ。彼らは静寂の時
を知っている。
独楽の「澄んだ」が蜻蛉では「静寂」ということばに変わっている。「澄んだ静寂」と言いなおしたい感じだ。その「静寂」について、粒来は「死」と結びつけているが、私は「交尾」と結びつけて読みたい。蜻蛉にとって「交尾」は独楽が回転の頂点に達したときのように、命の頂点のときなのだろう。激しく動いている。その動きの頂点。それは「澄んでいる」。蜻蛉は自分のなかにある「本能」の声だけを聞いている。ほかの何も聞いていない。蜻蛉にとって、そのとき「外界」(蜻蛉をつかまえようとしている子供たちの世界)の音(子供たちの歓声)は聞こえない。存在しない。「下界」が「静寂」なのだ。
「澄む」は混じり気がない。不純物がない、ということでもある。
蜻蛉は「死」を目前にしているのではなく、ただ「交尾」の頂点にいる。「命」の頂点にいるということだろう。それ以外が存在しない。「静寂」は「無」でもある。この「無」を「雑念がない」と言いなおすと、それはこころが「澄む」ということにもなる。
「独楽」の部分で、先に引用しなかった行に、「独楽の静止状態にも似た一瞬の、動きながらも而も外形は静止していると思える回転」ということばがあったが、蜻蛉の場合、雄と雌が交尾して、体をしっかりと固定して、「外形」は動かないように見えても、その体の内部では、つながっている部分の奥では、命が激しく動いている。命を動かすのに一生懸命で、「外形」を動かす暇がない。逃げる、というような行動で、命を動きを乱すわけにはいかないのだろう。またそのとき蜻蛉にとって「世界(外界)」は「静止」している。どんなふうに動いていても、蜻蛉の「本能」とは無関係である。独楽の回転が頂点にあるとき、子供たちがどんなふうにはしゃいでいようと独楽にとっては無関係なのに似ている。--というふうに、鏡合わせのように、ふたつのことを見つめ、言いなおすことができる。
動きのなかに静止があり、静止のなかに動きがある。そうであるなら、命のなかに死があり、死のなかに命がある。死は、それ一個のものでありつながりがないが、命は引き継がれていく。連続性がある。
蜻蛉にとって「静寂」とは死ではなく、命を引き継いでゆく行為、交尾の絶対性のことなのだろう。
「絶対性」は「頂点」と通い合う。頂点に達したとき、それはその運動の「絶対性」とともにある。
独楽の回転の頂点を「澄んだ」と呼び、そう呼ぶ精神(こころの動き)が引き継がれていくように、蜻蛉のなかでは死をかけた命の連続が引き継がれていく。「独楽が澄んだ」は独楽遊びのなかで引き継がれていく、独楽遊びをする子供のなかで引き継がれていく「ことばの命」(ことばの動かし方の思想)であるが、それは子供の一生を超えて引き継がれていくものである。
このことは、人間の性愛と死の形で、最後にもう一度言いなおされている。
母に蜻蛉の話をしたら、母は遠い森の木々の木肌を撫でるような
目で私を見やっただけだった。人と人との間にも独楽に似た蜻蛉に
似た静寂の時間は創り得るのか、と実は尋ねたかったのだが、止め
にした。母の瞳の中で木々の肌が互いに寄り合い擦り合い、玄妙な
微音を奏でているのが感得されたからだった。全ての葉の落ちた木々
の木肌の風に寄り添って触れあう一瞬のおののきに鳴る音、その音
が深まるにつれいや増しに増していく森の静寂--。若い母の内の
ほとばしるものの一瞬の静止、静寂。
ここには「性愛」というものが直接的に書かれているわけではないが、「(木)肌を撫でる」「肌が互いに寄り合い擦り合い」ということばが、それを感じさせる。木の描写なのだが、それが「木」なのは、幼い粒来が人間の「性愛」を実際には知らないから、「木」の比喩になってあらわれているのだ。母の目つきのなかに、木々のふれあい(性愛)を見る目を見ている。そして、その性愛の頂点では、森は「静寂」する。「触れあう一瞬のおののきに鳴る音、その音が深まる」のに比例するように「静寂」がやってくる。
独楽が回転の頂点で止まっているかのように見える、動いていないかのように見えるように、「矛盾」の形であらわれる「頂点(絶対性)」。
「絶対性」というものは「矛盾」のなかにある。
「矛盾」というのは「混沌」と似ている。それは、そこに存在しなかったものを生み出す運動である。激しい運動だけが「静止」という「絶対性」を生み出す。
人間にとって、「絶対性」とはなんだろうか。「精神」か。そうかもしれないが、その「精神」が「絶対」になるためには動きつづけること、動きの頂点に達することが必要だ。
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。