粒来哲蔵『侮蔑の時代』(13)(花神社、2014年08月10日発行)
「五月雨桔梗」。いろいろなことが書いてあるのだが……。
「莟の手触りがいつか母が与えてくれた天竺鼠の赤子の肌の感触に似ている」が気になる。少年は「天竺鼠の赤子」をどうしたのだろう。何も書いていない。書いていないからこそ、私は、
と読んでしまう。これは、「指先で莟をはさんでそっと潰してみた。」の「莟」を「赤子」に入れ換えた文章である。
「手触り」、指に残る感触が「鼠の赤子」と「莟」を混同する。そのとき、鼠の赤子をつぶした記憶がよみがえるのか、つぶすことができたという夢がよみがえるのかわからないが、少年は「莟」をつぶしながら「鼠の赤子」をつぶしている。そして、
ということを思い出す。実際にあったのか、それとも可能性としてあったのか。
そのとき、「鼠の赤子」は、その死体から「淡い香り」を漂わせたか。
そのとき、「鼠の赤子」が破裂音とともにもらした息の「におい/香り」はしなかったかもしれない。けれど、いま、桔梗の「莟」のつぶれたときの香りになっている。
記憶(思い出)が作り替えられている--そう感じてしまう。
何かを語るとき、そのことばのなかで、語ったこと以外のものもいっしょに作り替えられてしまう。
そんなことを感じてしまう。
だから、
という文を読むと、あ、少年はきっと「鼠の赤子」のように、あっけない方法で誰かから殺されてしまうのだと感じる。少年は殺されるのだが、その殺される感覚よりも、少年を殺すだれかの感覚を実感してしまう。
そして、殺されること、死んで行くことを、何か愉悦のように感じる。
そして、詩の最後は、実際その通りになる。「京の山崎の外れ」を通ったとき、「竹林の一角から土民の竹槍が突き出され、男の脇腹を深々とえぐった。」男は馬から落ちて、大地に横たわった。
なぜ、男は「莟をさぐり、それを指で圧してみた」のだろう。「肉体」が覚えていたのだ。莟をつぶす感触を。鼠の赤子をつぶす感触を。それは、自分が死んで行くときの「感触」でもある。死とは何かを「肉体」で思い出している。
そんなことは、書いていない。
書いていなけれど、私は「誤読」する。
「死んで行くこと」を男は思い出す。鼠の赤子をつぶしたときの感触といっしょに思い出す。そうすると、そこに「愉悦」が生まれる。苦しみではなく、不思議な喜びがうまれる。殺すこと(生)と死ぬこと(死)が「ひとつ」になる。その愉悦。
母が見咎めたのは、そういう生と死の結びつきに愉悦を覚えるということを見咎めたのだ。
「死の練習」などしてはいけない、と母は言ったのだ。
そんなことは、書いていない。
書いていないからこそ、私は、読んでしまう。
こんなふうに「死の練習」(死の愉悦の練習)をひとはどこでするのだろうか、と思ってしまう。
なんだか夢のような話だ。そして「夢」ということばを出したから書くのではないのだが(出したから書くのだが……)
この「草」が何度読み返しても、私には「夢」に見えてしまう。手の中に、鼠の赤子をつぶした夢をみる。手が覚えていることが「夢」になってあらわれて、そこで動いている。「夢」のなかで、「鼠の赤子」と「莟」が一つになる。それをつぶしたときの「感触」、指が覚えているものがひとつになる。指だけではない。耳が聞いた「ふっという軽い」音も一つになる。鼠の赤子の息の音、莟の空気を吐き出す音、そして男の最後の息の音。そして思うのだが、死んで行くとき、どんな「夢」であれ、「夢」をはっきりと見ることができるのは「愉悦」である、と。
そんなことは書いてはいない。書いていないからこそ、私は感じてしまう。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
「五月雨桔梗」。いろいろなことが書いてあるのだが……。
花が風になびいてうつ向き顔で揺れていた。少年は花のおののき
の中で、まるで花のしぶきを浴びたように立ち尽くした。ふと、手
はそれら紫の花の一本に触れた。少年は花はそのままに、指先で莟
をはさんでそっと潰してみた。莟は崩れ、崩れ際にふっというかる
い破裂音を残した。少年は莟の先から漂う淡い香りにうたれ、莟の
手触りがいつか母が与えてくれた天竺鼠の赤子の肌の感触に似てい
る--と思われた。少年はまだ香りの残る指先をみつめていたが、
その様はすぐに母に見咎められた。
「莟の手触りがいつか母が与えてくれた天竺鼠の赤子の肌の感触に似ている」が気になる。少年は「天竺鼠の赤子」をどうしたのだろう。何も書いていない。書いていないからこそ、私は、
指先で赤子をはさんでそっと潰してみた。
と読んでしまう。これは、「指先で莟をはさんでそっと潰してみた。」の「莟」を「赤子」に入れ換えた文章である。
「手触り」、指に残る感触が「鼠の赤子」と「莟」を混同する。そのとき、鼠の赤子をつぶした記憶がよみがえるのか、つぶすことができたという夢がよみがえるのかわからないが、少年は「莟」をつぶしながら「鼠の赤子」をつぶしている。そして、
赤子は崩れ、崩れ際にふっというかるい破裂音を残した。
ということを思い出す。実際にあったのか、それとも可能性としてあったのか。
そのとき、「鼠の赤子」は、その死体から「淡い香り」を漂わせたか。
そのとき、「鼠の赤子」が破裂音とともにもらした息の「におい/香り」はしなかったかもしれない。けれど、いま、桔梗の「莟」のつぶれたときの香りになっている。
記憶(思い出)が作り替えられている--そう感じてしまう。
何かを語るとき、そのことばのなかで、語ったこと以外のものもいっしょに作り替えられてしまう。
そんなことを感じてしまう。
だから、
何故かは知らないが、この花の香りは終
生わが身につきまとい、指に残るのだ--と。
という文を読むと、あ、少年はきっと「鼠の赤子」のように、あっけない方法で誰かから殺されてしまうのだと感じる。少年は殺されるのだが、その殺される感覚よりも、少年を殺すだれかの感覚を実感してしまう。
そして、殺されること、死んで行くことを、何か愉悦のように感じる。
そして、詩の最後は、実際その通りになる。「京の山崎の外れ」を通ったとき、「竹林の一角から土民の竹槍が突き出され、男の脇腹を深々とえぐった。」男は馬から落ちて、大地に横たわった。
右手で濡れた雑草をかきむしり、身を起こそうとしたが及ばなかっ
た。男は手の中の草を見た。と、それはまさしく早咲きの野桔梗だっ
た。男は殆んど見えない目で花の莟をさぐり、それを指で圧してみ
た。莟は容易に破れて、淡い花の香りが男の鬚面をくすぐった。莟
の割れるかすかな音を耳にした後男はしずかに目を瞑った。刀持つ
手の指先に一本の桔梗をはさんだまま--。
なぜ、男は「莟をさぐり、それを指で圧してみた」のだろう。「肉体」が覚えていたのだ。莟をつぶす感触を。鼠の赤子をつぶす感触を。それは、自分が死んで行くときの「感触」でもある。死とは何かを「肉体」で思い出している。
そんなことは、書いていない。
書いていなけれど、私は「誤読」する。
「死んで行くこと」を男は思い出す。鼠の赤子をつぶしたときの感触といっしょに思い出す。そうすると、そこに「愉悦」が生まれる。苦しみではなく、不思議な喜びがうまれる。殺すこと(生)と死ぬこと(死)が「ひとつ」になる。その愉悦。
母が見咎めたのは、そういう生と死の結びつきに愉悦を覚えるということを見咎めたのだ。
「死の練習」などしてはいけない、と母は言ったのだ。
そんなことは、書いていない。
書いていないからこそ、私は、読んでしまう。
こんなふうに「死の練習」(死の愉悦の練習)をひとはどこでするのだろうか、と思ってしまう。
なんだか夢のような話だ。そして「夢」ということばを出したから書くのではないのだが(出したから書くのだが……)
男は手の中の草を見た。
この「草」が何度読み返しても、私には「夢」に見えてしまう。手の中に、鼠の赤子をつぶした夢をみる。手が覚えていることが「夢」になってあらわれて、そこで動いている。「夢」のなかで、「鼠の赤子」と「莟」が一つになる。それをつぶしたときの「感触」、指が覚えているものがひとつになる。指だけではない。耳が聞いた「ふっという軽い」音も一つになる。鼠の赤子の息の音、莟の空気を吐き出す音、そして男の最後の息の音。そして思うのだが、死んで行くとき、どんな「夢」であれ、「夢」をはっきりと見ることができるのは「愉悦」である、と。
そんなことは書いてはいない。書いていないからこそ、私は感じてしまう。
粒来哲蔵詩集 (現代詩文庫 第 1期72) | |
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