藤富保男『一壷天』(思潮社、2014年10月25日)
藤富保男『一壷天』にも、私は思わず首をかしげてしまった。ただし、その首をかしげるときの感じは竹内新『果実集』(きのうの日記参照)とはまったく違う。
巻頭の(実は、二番目の作品かもしれない。巻頭の作品は「はじめに」という前書きかもしれない)、「鼻持ち」。これはシラノ・ド・ベルジュラックからはじまり芥川龍之介の小説を経て、その後日の物語へとことばが動いていく。
あ、しゃれていると思う。そうか、外国の物語の主人公に「和歌」を読ませると乾いた音楽になるなあ。自己批評がユーモアであることがよくわかる。同時に、「和歌」というような伝統的な音楽が藤富のなかに動いているのか、ということにも驚く。
最初に首をかしげたのは、藤富が「和歌」の音楽を演奏して見せたからなのかなあ。
意表をつかれた、からかなあ。
そのあと、「中略」して、芥川の短編へ。
あ、とここで気がつく。
藤富は「嘘」を書いている。「虚構」を書いている。シラノが「和歌」を詠んだというのは、もちろん「嘘(虚構)」である。そういうことはわかっているが、でも、「和歌」ではなくフランス語の脚韻詩なら書いたかもしれないなあ、と想像することができる。その「和歌」を藤富が日本の定型詩(和歌)に書き直しているということはありうる。その場合、「嘘」というのは、どこまで「嘘」と言えるのか。
あるいは、シラノが詩を書いていないとしても、シラノが詩を書いていたらどうなるかと想像することは「嘘」になるのか。
うーん、わからない。
「ロスタンが詠んだか、どうか。」と書かれてしまうと、それが藤富の想像であることがはっきりして「想像」を「嘘」と言えば言えるけれど、「想像する」という藤富自身のことばの運動には嘘はない。想像してしまうのは、ほんとうの(?)想像力である。
何が言いたいのかと言うと……。
シラノが和歌を詠んだというのは嘘だけれど、その嘘を書いている藤富は本物であり、シラノが和歌を詠んだのが嘘だとわかったときから、私はシラノのことを無視して、藤富の「ほんとう」を知らず知らずに追いかけている。
シラノを藤富がどう書くかということを追いかけながら詩を読んでいる。
「詠んだか、どうか。」という「二者択一」の疑問を書くことで、読者(私、谷内)を誘い込むなんて、ずるいなあ。「二者択一」に向き合ったときから、知らず知らずに、考えるということをはじめてしまう。想像力を働かせてしまう。想像力が働くと、それから先のことばは藤富が考えたことばなのに、読者(私、谷内)が考えたことのように思えてしまう。想像力が真剣になってしまうのだ。意義をとなえるまえに、そのことばの動きを受け入れてしまう。染まってしまう。
そのあとで、禅智内供を出して、シラノと同じように「和歌」があって、「と歌われたとは、書かれてないが、」と言われると、思わず「嘘だろう、それはほんとうにあった和歌なのではないのか」とついつい思ってしまう。その「和歌」があっても困らない。芥川の短編はストーリーくらいしか覚えていないが、もしかするとその「和歌」が書かれているかもしれないぞ、と思ってしまう。
「書かれていないが」という断定が、想像力を「書かれている」という方向へねじまげてしまう。なぜ、「書かれていない」と書いてあるのに、「書かれている」と「誤読」したがるのか。
理由は簡単。
そっちの方がおもしろい。
ひとは、おもしろいことを考えたがるのだ。それが嘘かほんとうかわからないが、「おもしろい」は「美しい」と同じように、真偽を超えた力をもっている。「おもしろい」「美しい」「たのしい」というような「自分を超える何か」の方へ人間は誘われてしまうと、もう、自分をとめることができない。
これは、「かたる(語る/騙る/だます)」方も同じだろう。「嘘」であるかどうかを忘れて、ことばが動いていく。藤富はこの「嘘」を楽しくて止められなくなる。
ただし。
藤富は、この運動を「暴走」というよりも、なんだか静かな感じ、ゆっくりした感じ(前よりもスピードが落ちた感じ)でつづける。そうすると、それは「どうせ嘘」という感じではなくなる。おだやかな「笑い」へと落ち着いて行く。
禅智内供は天狗のこどもと出会い、その天狗に自分の鼻を譲る。天狗は鼻をねじりとって去って行く。
うーん、いいなあ、この静けさ。
でも、なぜ、いいんだろう。
「淋しさと嬉しさが一度にやってきた」というところに、秘密があるかもしれない。「淋しさ」だけ、「嬉しさ」だけだと、いいなあ、とは思わない。矛盾したものがいっしょにある。
藤富の書いていることは「嘘(作りごと)」なのだけれど、その「嘘」がひとつの結論(?)に結晶していない。違った「ふたつ」のものになって重なっている。どっちをとってもいい。「淋しさ」が「嘘」なら「嬉しさ」が「ほんとう」、「淋しさ」が「ほんとう」なら「嬉しさ」は「嘘」。
最初に戻ると「シラノ」が「ほんとう」なら「和歌」は「嘘」、「和歌」が「ほんとう」なら「シラノ」は「嘘」。
ふたつを組み合わせながら、どちらかを「ほんとう」にしてしまう。それが「現実(事実)」として「嘘/ほんとう」か、「想像力」にとって「嘘/ほんとう」か、ということが起きるが、「想像力」にとっては「嘘」も「ほんとう」なので、どっちでもいい。大事なのは、「ふたつ」があることなんだろうなあ。
でも、それでいいのかな?
と首をかしげながら、首をかしげても真剣に悩むわけではないのだが……。とぼんやりしていると、この詩集には、もうひとつ「仕掛け」があると気づく。藤富の絵が挿入されている。詩の終わりに絵がある。
そして、どうも、その「絵」がことばの「結論」のようなのである。絵を先に描いたのか、後に描いたのか、わからないが、ことばと絵は向き合っている。「ことば」と「絵」という「ふたつ」でひとつの世界になっている。「淋しさと嬉しさ」のように、それは「いっしょ」にある。
その「絵」を見ていると、絵というものも、ことばは同じように妙に不完全なものだと思う。それを見ると何が描いてあるか「対象」が「わかる」。「対象」そのものではなく、ずいぶん何かが省略されているのに、「対象」が何であるかが「わかる」。想像力が描かれていない部分を勝手に補い(想像力で捏造し)、それを完成させている。ことばも同じだ。書かれていない部分を勝手に補い(想像力で誤読し)、読者がそれを「完成」させる。
そのとき、その「完成」はだれのもの?
それは作者と読者の「ふたり」のものだ。それは「ふたり」がいてはじめて「完成」する何かだ。
とりとめもなく、そんなことを考えた。こんなふうに「ふりり」の世界へすーっと誘われるというのはなぜなんだろう、とまた首をかしげる具合だ。
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藤富保男『一壷天』にも、私は思わず首をかしげてしまった。ただし、その首をかしげるときの感じは竹内新『果実集』(きのうの日記参照)とはまったく違う。
巻頭の(実は、二番目の作品かもしれない。巻頭の作品は「はじめに」という前書きかもしれない)、「鼻持ち」。これはシラノ・ド・ベルジュラックからはじまり芥川龍之介の小説を経て、その後日の物語へとことばが動いていく。
異様な鼻といえば、シラノ・ド・ベルジュラックがまず浮
かぶ。
けなされて尻を捲りて五月晴
わが鼻息で喜劇成りたつ
と、ロスタンが詠んだか、どうか。
あ、しゃれていると思う。そうか、外国の物語の主人公に「和歌」を読ませると乾いた音楽になるなあ。自己批評がユーモアであることがよくわかる。同時に、「和歌」というような伝統的な音楽が藤富のなかに動いているのか、ということにも驚く。
最初に首をかしげたのは、藤富が「和歌」の音楽を演奏して見せたからなのかなあ。
意表をつかれた、からかなあ。
そのあと、「中略」して、芥川の短編へ。
禅智内供もその一人。
右むいてそれから左ああ長し
夕陽さえぎる禅師の鼻は
と歌われたとは、書かれてないが、
あ、とここで気がつく。
藤富は「嘘」を書いている。「虚構」を書いている。シラノが「和歌」を詠んだというのは、もちろん「嘘(虚構)」である。そういうことはわかっているが、でも、「和歌」ではなくフランス語の脚韻詩なら書いたかもしれないなあ、と想像することができる。その「和歌」を藤富が日本の定型詩(和歌)に書き直しているということはありうる。その場合、「嘘」というのは、どこまで「嘘」と言えるのか。
あるいは、シラノが詩を書いていないとしても、シラノが詩を書いていたらどうなるかと想像することは「嘘」になるのか。
うーん、わからない。
「ロスタンが詠んだか、どうか。」と書かれてしまうと、それが藤富の想像であることがはっきりして「想像」を「嘘」と言えば言えるけれど、「想像する」という藤富自身のことばの運動には嘘はない。想像してしまうのは、ほんとうの(?)想像力である。
何が言いたいのかと言うと……。
シラノが和歌を詠んだというのは嘘だけれど、その嘘を書いている藤富は本物であり、シラノが和歌を詠んだのが嘘だとわかったときから、私はシラノのことを無視して、藤富の「ほんとう」を知らず知らずに追いかけている。
シラノを藤富がどう書くかということを追いかけながら詩を読んでいる。
「詠んだか、どうか。」という「二者択一」の疑問を書くことで、読者(私、谷内)を誘い込むなんて、ずるいなあ。「二者択一」に向き合ったときから、知らず知らずに、考えるということをはじめてしまう。想像力を働かせてしまう。想像力が働くと、それから先のことばは藤富が考えたことばなのに、読者(私、谷内)が考えたことのように思えてしまう。想像力が真剣になってしまうのだ。意義をとなえるまえに、そのことばの動きを受け入れてしまう。染まってしまう。
そのあとで、禅智内供を出して、シラノと同じように「和歌」があって、「と歌われたとは、書かれてないが、」と言われると、思わず「嘘だろう、それはほんとうにあった和歌なのではないのか」とついつい思ってしまう。その「和歌」があっても困らない。芥川の短編はストーリーくらいしか覚えていないが、もしかするとその「和歌」が書かれているかもしれないぞ、と思ってしまう。
「書かれていないが」という断定が、想像力を「書かれている」という方向へねじまげてしまう。なぜ、「書かれていない」と書いてあるのに、「書かれている」と「誤読」したがるのか。
理由は簡単。
そっちの方がおもしろい。
ひとは、おもしろいことを考えたがるのだ。それが嘘かほんとうかわからないが、「おもしろい」は「美しい」と同じように、真偽を超えた力をもっている。「おもしろい」「美しい」「たのしい」というような「自分を超える何か」の方へ人間は誘われてしまうと、もう、自分をとめることができない。
これは、「かたる(語る/騙る/だます)」方も同じだろう。「嘘」であるかどうかを忘れて、ことばが動いていく。藤富はこの「嘘」を楽しくて止められなくなる。
ただし。
藤富は、この運動を「暴走」というよりも、なんだか静かな感じ、ゆっくりした感じ(前よりもスピードが落ちた感じ)でつづける。そうすると、それは「どうせ嘘」という感じではなくなる。おだやかな「笑い」へと落ち着いて行く。
禅智内供は天狗のこどもと出会い、その天狗に自分の鼻を譲る。天狗は鼻をねじりとって去って行く。
内侍の方はというと、鼻自体がねじり取られ、鼻孔から
涙のように鼻水が垂れたが、もはやあの長い鼻とは別れる
こととなった。何とも気持がよいが、何か淋しい気もして
仕方がない。今はなくなった鼻の跡にメンソレータムを塗
りながら、この淋しさと嬉しさが一度にやってきたことは
格別だ、と天を仰いだのである。
うーん、いいなあ、この静けさ。
でも、なぜ、いいんだろう。
「淋しさと嬉しさが一度にやってきた」というところに、秘密があるかもしれない。「淋しさ」だけ、「嬉しさ」だけだと、いいなあ、とは思わない。矛盾したものがいっしょにある。
藤富の書いていることは「嘘(作りごと)」なのだけれど、その「嘘」がひとつの結論(?)に結晶していない。違った「ふたつ」のものになって重なっている。どっちをとってもいい。「淋しさ」が「嘘」なら「嬉しさ」が「ほんとう」、「淋しさ」が「ほんとう」なら「嬉しさ」は「嘘」。
最初に戻ると「シラノ」が「ほんとう」なら「和歌」は「嘘」、「和歌」が「ほんとう」なら「シラノ」は「嘘」。
ふたつを組み合わせながら、どちらかを「ほんとう」にしてしまう。それが「現実(事実)」として「嘘/ほんとう」か、「想像力」にとって「嘘/ほんとう」か、ということが起きるが、「想像力」にとっては「嘘」も「ほんとう」なので、どっちでもいい。大事なのは、「ふたつ」があることなんだろうなあ。
でも、それでいいのかな?
と首をかしげながら、首をかしげても真剣に悩むわけではないのだが……。とぼんやりしていると、この詩集には、もうひとつ「仕掛け」があると気づく。藤富の絵が挿入されている。詩の終わりに絵がある。
そして、どうも、その「絵」がことばの「結論」のようなのである。絵を先に描いたのか、後に描いたのか、わからないが、ことばと絵は向き合っている。「ことば」と「絵」という「ふたつ」でひとつの世界になっている。「淋しさと嬉しさ」のように、それは「いっしょ」にある。
その「絵」を見ていると、絵というものも、ことばは同じように妙に不完全なものだと思う。それを見ると何が描いてあるか「対象」が「わかる」。「対象」そのものではなく、ずいぶん何かが省略されているのに、「対象」が何であるかが「わかる」。想像力が描かれていない部分を勝手に補い(想像力で捏造し)、それを完成させている。ことばも同じだ。書かれていない部分を勝手に補い(想像力で誤読し)、読者がそれを「完成」させる。
そのとき、その「完成」はだれのもの?
それは作者と読者の「ふたり」のものだ。それは「ふたり」がいてはじめて「完成」する何かだ。
とりとめもなく、そんなことを考えた。こんなふうに「ふりり」の世界へすーっと誘われるというのはなぜなんだろう、とまた首をかしげる具合だ。
藤富保男詩集 (現代詩文庫) | |
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