佐々木朝子『地の記憶』(樹海社、2014年09月17日発行)
佐々木朝子(「朝」は正確には、つくりの「月」の上に「ノ」+「一」が組み合わさったものがついている)『地の記憶』は端正な文体である。「シマシマの虎」が少し変わっている。
「黄色い縞」だけの虎--から、どんな姿を思い浮かべるだろうか。私は黒い縞の部分が透明な虎を想像した。黄色が体全体をおおっているのではなく、黄色が縞のようになっていて、残りは透明。向こう側が透けて見える。輪切りにした虎の、途中途中が「空間」になっている虎。
そんな動物(生き物)の形はありえないかもしれないけれど、瞬間的に、その姿が思い浮かんだ。きっと、その透明なところから「遠い国」が見えるのかもしれない。「干渉」の作用だ。そして、その「遠い国」は佐々木にとってなつかしい国なのかもしれない。行ったことはないけれど、行ってみたいと思っている遠い国。思いつづけている、そこに「こころ」がある。だから「温かい」とも感じるのだろう。
あ、こんなことは、書いていない。書いていないけれど、私はかってに想像してしまう。
ちょっとその虎に触ってみたい--そういう欲望を誘われる虎である。
やっぱり「穴(空白)」だったのか。穴に獲物が飲み込まれ、飲み込んだ後、飲み込んだということを隠すために「黒い縞」で蓋をする。満腹すると、また「穴」は透明になり、遠い国を見せる。その遠い国に誘われる夢想者が「獲物」になるのかもしれない。
ということは、黄色い縞を温かいと感じている佐々木は、もう半分は「獲物」になって、誘い込まれているかもしれない。
不思議な「一体感」がある。幸福感がある。「温かい」感じがする。
あ、黄色い縞のあいだの空白を黒い縞が埋めて、ふつうの虎になるのではないのだね。黄色い縞が消えて、黒い縞だけの虎になる。虎はずっーと「半分」なのだ。虎が半分だから、食べられると、食べられた私も半分になってしまうのか。
不思議な「論理」が、不思議な「手触り」としてそこにある。「論理」が成立してしまう、不思議さがある。「論理」の不思議さ。--佐々木の文体は「端正」だが、その端正さは、この「論理」を守ることばの動きからうまれているのかもしれない。
黄色い縞だけの虎、黒い縞だけの虎は現実には存在しないかもしれない。けれど、ことばではそれを存在させることができる。そして、その「ことばとして存在している虎」を動かしていくと、その虎に食べられるのは「半分」の私にということになる。
半分残っているので、その半分に対応するように、街も家も空も半分になる。
うーん、「論理」的。
そういう「論理」のあと、そこからはみ出してくる「別の論理」がある。
これが「真実」であるかどうかはわからないが、そうなのかもしれないと思う。瞬間的に納得する。(だまされる?)
そして、そのとき、ここに「全体」ということばが出てくることが、私にはとてもおもしろく感じられる。
そうか、佐々木はつねに「全体」を意識している詩人なのか、と気がつくのである。「全体」を把握しようとする「意思」のようなものがあって、それが強いので「全体」がわからないとき「半分」という意識がうまれるのだろう。
佐々木の把握できる世界は、世界の半分であり、残りの半分は佐々木にはわからない。佐々木の意思が及ばない世界。
佐々木はことばで佐々木の思考を語ることができる。それは佐々木の「内部」世界。一方に、その「佐々木の内部世界」があり、他方に佐々木のことばの及ばない「佐々木の外部世界」がある。「内部」と「外部」がうまく結びつけば、「世界」は「ひとつ(全体)」になるが、それまでは「半分」。
佐々木がそんなふうに考えていることが、わかる。(私の「わかる」は「誤読する」という意味であるけれど。)
「内部」だけというのは、それがどんなに完成されていても「全体」ではない、という意識があって、佐々木は「内部世界のことば」を端正にととのえるのだろう。「外部」のことばと接続できる機会があればすぐにつなぐことができるように、自己をととのえているのだろう。そういう生き方(思想)も感じることができる。
私が存在するとき、私の「内部」とは別の世界がある。それと折り合いをつけなければ生きていることにはならない。そういう思いが強いのかもしれない。そうやって生きているのは私(佐々木)だけではない。「虎」もそうなのだ。この「虎」は何かの「比喩(象徴)」かもしれない。「半分」を意識できる生き物を代表しているのかもしれない。そういう「半分」に触れながら、「半分」を、「全体」をとらえるときのきっかけにしようとしていることがわかる。
「見返しの紙に」は、「半分」(不完全?)の存在の別の表現かもしれない。「半分」(不完全)であっても、それがないと「全体」がととのわない。「全体」の「美しさ」は無用に見える「半分」によって護られている。
「本を成しながら」の「成す」にこめられた自負のようなものが、この作品を強くしている。見返しの紙は本にとっては「半分」以下かもしれない。けれど、見返しの紙にとっては、どんなときでもそれとともにある存在の「半分」である。客観ではなく、主観が、そう主張する。この主観は、主観であるがゆえに絶対的に正しい。その「絶対」という美しさがここにはある。「私」がそんざいしなけれどは「世界」は「全体」を獲得できない。「全体」になれない。「半分」のままである、という主張は「主観」として、とても美しい。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
佐々木朝子(「朝」は正確には、つくりの「月」の上に「ノ」+「一」が組み合わさったものがついている)『地の記憶』は端正な文体である。「シマシマの虎」が少し変わっている。
ある日 その虎は現れた
虎といっても黄色い縞のところだけで
それがとても温かそうな色だったので
虎は優しいけものだと私は思った
そっと撫でると遠い国の匂いがした
「黄色い縞」だけの虎--から、どんな姿を思い浮かべるだろうか。私は黒い縞の部分が透明な虎を想像した。黄色が体全体をおおっているのではなく、黄色が縞のようになっていて、残りは透明。向こう側が透けて見える。輪切りにした虎の、途中途中が「空間」になっている虎。
そんな動物(生き物)の形はありえないかもしれないけれど、瞬間的に、その姿が思い浮かんだ。きっと、その透明なところから「遠い国」が見えるのかもしれない。「干渉」の作用だ。そして、その「遠い国」は佐々木にとってなつかしい国なのかもしれない。行ったことはないけれど、行ってみたいと思っている遠い国。思いつづけている、そこに「こころ」がある。だから「温かい」とも感じるのだろう。
あ、こんなことは、書いていない。書いていないけれど、私はかってに想像してしまう。
ちょっとその虎に触ってみたい--そういう欲望を誘われる虎である。
けれど 虎がお腹を空かせてくると
次第に黒い縞が現れる それは
獲物を飲み込んでゆく穴の色なので
その揺れる姿は恐ろしい
やっぱり「穴(空白)」だったのか。穴に獲物が飲み込まれ、飲み込んだ後、飲み込んだということを隠すために「黒い縞」で蓋をする。満腹すると、また「穴」は透明になり、遠い国を見せる。その遠い国に誘われる夢想者が「獲物」になるのかもしれない。
ということは、黄色い縞を温かいと感じている佐々木は、もう半分は「獲物」になって、誘い込まれているかもしれない。
時々 テレビで見かける野生のけものの狩られる姿--
抗っていた獲物がふっと抵抗を止め
空を仰いで静かに斃されてゆく--あの様子が不思議だったが
今 虎が がしっと脚を踏み出し口を開いたとき
私も もう食べられてもいい気がした
不思議な「一体感」がある。幸福感がある。「温かい」感じがする。
でも 黒いシマシマだけの虎は半分しか私を食べられなかった
半分だけ食べられるというのは 幸せなのか 不幸なのか
そんな形で空を見ると空も半分だけ見えるのだった
街も家も半分 人も半分だけ
そうした景色を眺めていると もともと人には
全体を見ることなど出来なかったことが分かってくる
あ、黄色い縞のあいだの空白を黒い縞が埋めて、ふつうの虎になるのではないのだね。黄色い縞が消えて、黒い縞だけの虎になる。虎はずっーと「半分」なのだ。虎が半分だから、食べられると、食べられた私も半分になってしまうのか。
不思議な「論理」が、不思議な「手触り」としてそこにある。「論理」が成立してしまう、不思議さがある。「論理」の不思議さ。--佐々木の文体は「端正」だが、その端正さは、この「論理」を守ることばの動きからうまれているのかもしれない。
黄色い縞だけの虎、黒い縞だけの虎は現実には存在しないかもしれない。けれど、ことばではそれを存在させることができる。そして、その「ことばとして存在している虎」を動かしていくと、その虎に食べられるのは「半分」の私にということになる。
半分残っているので、その半分に対応するように、街も家も空も半分になる。
うーん、「論理」的。
そういう「論理」のあと、そこからはみ出してくる「別の論理」がある。
もともと人には/全体を見ることなど出来なかったことが分かってくる
これが「真実」であるかどうかはわからないが、そうなのかもしれないと思う。瞬間的に納得する。(だまされる?)
そして、そのとき、ここに「全体」ということばが出てくることが、私にはとてもおもしろく感じられる。
そうか、佐々木はつねに「全体」を意識している詩人なのか、と気がつくのである。「全体」を把握しようとする「意思」のようなものがあって、それが強いので「全体」がわからないとき「半分」という意識がうまれるのだろう。
佐々木の把握できる世界は、世界の半分であり、残りの半分は佐々木にはわからない。佐々木の意思が及ばない世界。
佐々木はことばで佐々木の思考を語ることができる。それは佐々木の「内部」世界。一方に、その「佐々木の内部世界」があり、他方に佐々木のことばの及ばない「佐々木の外部世界」がある。「内部」と「外部」がうまく結びつけば、「世界」は「ひとつ(全体)」になるが、それまでは「半分」。
佐々木がそんなふうに考えていることが、わかる。(私の「わかる」は「誤読する」という意味であるけれど。)
「内部」だけというのは、それがどんなに完成されていても「全体」ではない、という意識があって、佐々木は「内部世界のことば」を端正にととのえるのだろう。「外部」のことばと接続できる機会があればすぐにつなぐことができるように、自己をととのえているのだろう。そういう生き方(思想)も感じることができる。
私が存在するとき、私の「内部」とは別の世界がある。それと折り合いをつけなければ生きていることにはならない。そういう思いが強いのかもしれない。そうやって生きているのは私(佐々木)だけではない。「虎」もそうなのだ。この「虎」は何かの「比喩(象徴)」かもしれない。「半分」を意識できる生き物を代表しているのかもしれない。そういう「半分」に触れながら、「半分」を、「全体」をとらえるときのきっかけにしようとしていることがわかる。
「見返しの紙に」は、「半分」(不完全?)の存在の別の表現かもしれない。「半分」(不完全)であっても、それがないと「全体」がととのわない。「全体」の「美しさ」は無用に見える「半分」によって護られている。
標題が掲げられ
名が記される
色が 材質が 選ばれた
書物の表紙
その裁ち落とされた切り口の
風の中へ垂れ下がり ほつれようとする端を
内側へ折って包み
自らをわずかに控えて裏打ちし
平らかな広がりを支える
一枚の薄い紙
本を成しながら一文字も持たず
中に重ねられたことばの重みの
受け渡されてゆくひそやかなよろこびの傍らにいて
自らを二つ折りした納戸色の奥に
陽に晒せば姿を消す
発せられなかった言葉の影を蔵っている
「本を成しながら」の「成す」にこめられた自負のようなものが、この作品を強くしている。見返しの紙は本にとっては「半分」以下かもしれない。けれど、見返しの紙にとっては、どんなときでもそれとともにある存在の「半分」である。客観ではなく、主観が、そう主張する。この主観は、主観であるがゆえに絶対的に正しい。その「絶対」という美しさがここにはある。「私」がそんざいしなけれどは「世界」は「全体」を獲得できない。「全体」になれない。「半分」のままである、という主張は「主観」として、とても美しい。
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。