詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ヤーノシュ・サース監督「悪童日記」(★★★★★)

2014-10-07 10:02:47 | 映画
監督ヤーノシュ・サース 出演 アンドラーシュ・ジェーマント、ラースロー・
ジェーマント、ピロシュカ・モルナール



 二つのシーンで肉体の奥がゆがむのを感じた。二つ目のシーンで、なぜゆがんだと感じたのかがわかった。
 主人公の二人が強くなるためと言って殴りあう。決して泣かない。痛いとは言わない。そして、二人は疲れと痛みのために倒れてしまう。これが最初のシーン。
 二つ目が、教会で働いている娘のストーブに手りゅう弾を仕掛け、爆発させ、拷問を受けるシーン。死んだ兵士から盗んだのではないか、と問い詰められる。一人が殴られる。答えない。代わりに殴られなかった方がことばを発する。実際に殴られることで問われている方は無言を貫く。言いたいことを兄(弟?)が代わりに言うからだ。
 ふたりは、一方がことばにできないことをことばにする。
 それは、何か不思議な感じだ。
 いいたいことがあって、それがなかなか言えない、ということは誰もが経験することだ。誰かがそれを言ってくれた時、それが自分の言いたかったことだと感じたりする。そして、それを「詩」だと思ったりするのだが、そういうこととは違う。
 あらゆるできごとは「感覚(感情)」と一緒にある。痛かったり、嬉しかったり、という感覚や感情のなかで、「できごと」が肉体の一部になる。それが普通だと思うが、この双子の場合、そこに違ったものが入り込む。
 ひとりが「痛み」を引き受ける。そうすると、もう一人が「痛み」がなかったものとして、つまり「痛み」を完全に克服した存在(肉体を超越した存在)として、感覚に汚染されない「認識」というものを語る。「理性」で「こと」を処理する。
 二人で同じ体験をすること(同じ場を共有すること)を通して、一方が他方を反芻する。ことばにする。そのとき、「できごと」は感覚と言うよりも認識(意識)になる。起きていることが、単なる事実ではなく、「認識された真実」になる。理性がとらえなおした世界になる。
 なぜこのことが、私の肉体に響いてきたのか。なぜ、私は肉体の奥がゆがむのを感じたのか。私は、双子のように瞬時に「認識」にたどりつかない(たどりつけない)からだ。理性的になれないからだ。何かを体験すると感覚、感性が反応する。体験したことをことばにしようとすると、感覚、感性が先に動いて、「他人に伝える認識」(意識)にまで、整理できない。他人に分かってもらえるように言えるのは、もっとあと。体験したことの生々しさが消えた後、「こういうことがあった」とかろうじて言える。
 ことばは遅れてやってくる。理性は遅れてやってくる。他人にわかってもらえそうなことばは、何度かそのことを反芻し、整理しなおしたあとでないと「認識(された事実)」にならない。
 ところが双子は、互いに「感覚」と「意識(理性)」を分担し合って、私が何時間も、何日もかかることを瞬間的にやってしまっている。
 私の肉体とは、まったく違った肉体がそこにある--そういうことに、私は、ちょっとおびえた。同時に、人間の不思議を感じた。
 また、この映画は異常なほど簡潔にできあがっているが、その簡潔さの秘密を双子の「認識システム(?)」に理由があると感じた。感覚(感性)と認識(理性)を相互に後退して分担し、整理するのだ。途中にまき割と水汲みの仕事を分担するシーンが出てくるが、何か、そういう一人では不可能なことを分担して処理する。それだけではなく、「認識」をかならず言語化する(日記をつける)。この不思議なシステムが、映画を簡潔にしている。
 映画は映像で見せるものだが、映像の情報量が制限され、その分、「言語」を誘うように仕組まれている。隣の娘が司祭に裸をみせ、金をもらっている。それを聞いて、双子が司祭を恐喝するシーンが象徴的だ。娘の裸を見る司祭の映像はなく、ことばだけで説明される。司祭と双子のやりとりも、ほとんど無表情に、ことばが「正確」に動いていく。司祭「これがどういうことかわかっているのか」双子「恐喝だ(ゆすりだ、だったかもしれない)」。
 どのことばにも、反芻して鍛え上げた簡潔さがあるのも、映像と響き合っている。ことばが、こんなに簡潔だと、映像を破壊してしまうものだが、その簡潔なことばが、双子のどちらが言っているのかわからない(私には区別ができなかった)ということが、簡潔でありながら、何かしら広がりを抱え込むことになっている。



 昨日の夜、ここまで書いて、目が痛くなって止めたのだが。
 影像の情報量については別な言い方もできる。「双子の効果」についても語らなければ、この映画を見たことにはならないだろうと思う。
 本来なら「一人の少年」が体験したことが、ここでは「二人」によって体験される。そのときの影像は、不思議な錯覚を引き起こす。
 「一人」ならば、その「肉体」に私はのめりこんでしまう。ある体験をとおして肉体(感情、意識)が動くとき、私は、その「肉体」と同化して何かを感じる。感覚、意識が動くとき肉体も動く。その動きをクローズアップや角度を変えた影像で反芻するとき、感覚、意識があおられる。痛い、哀しい、苦しい、切ない、とさまざまに反応する。「ひとつのこと」を同じ人物の「複数の影像」で表現する。複数の影像(影像の情報量)が感情の情報量にもなる。このときの「情報量」は「時間」の長さとも一致する。影像を反芻するとき、そこでは「時間」も反芻される。ほんとうは一瞬なのに、一瞬以上の時間がそこでは費やされている。これがふつうの映画の方法(文法)である。
 こところが、この映画は違う。「時間」をついやさずに、瞬時に複数の影像を並列にして見せてしまう。双子が一瞬のうちに全てを反芻するのだ。このために情報量がすくないと感じてしまう。もっとわかりやすくいうと、双子だから、そこには二人がいるのに、映画を見ているとき、私はそこに「二人」を感じない。「一人」として見てしまう。「二人」と識別しようにも、区別がつかない。「同じ」に、つまり「一人」としか思えない。影像はたしかに「二人」なのだが、実感は「一人」。
 この「一人」という実感が、私の「肉体」をゆがませる。目の認識と実感が一致しない。それなのに、そこで起きていることを感じ取ってしまう。わかってしまう。わかったと思い込んでしまう。
 「日記」というシステムもおもしろい。
 あることがあって、それを文字化する。その操作の方法が「双子」を感じさせる。おきた「こと」と「ことば」は「ふたつのもの」として識別できるはずなのに、意識の中では「一つ」になる。現象と認識というのは別個のものなのに、私たちは「一つ」のこととして諒解する。そういう人間のあり方と、何か、微妙に交差している。
 双子の登場する映画はいろいろあるが(「ツインズ」のように傑作コメディもあるが)、この映画は何か画期的なものを含んでいる。哲学へと思考を誘い込む装置になっている。(こういう表現は好きではないのだが、考えはじめると夢中にさせられる何かを含んでいる。)
 必見。
                       (2014年10月05日、天神東宝4)





 


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悪童日記
アゴタ クリストフ
早川書房
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雨が上がるのを見て

2014-10-07 00:38:44 | 
雨が上がるのを見て

雨が上がるのを見て出掛けていった男のことを思った。
きのう読んだ小説にでてきた。
昔の女からの手紙のあと、別れたばかりの女からの手紙が来た。
「見てしまった」と書いてあった。

雨が上がるのを見て、
雨が上がるのを見て出掛けていった男のように出掛けた。
そして見た。誰もいないのを。

店からこぼれてくる光が舗道の丸くなった石の角に集まっている。
見えたわけではないが、石のあいだを沈んで行く雨の残りを思った。
だれも何も起こらないことを気にしていなかった。


*



新詩集『雨の降る映画を』(10月10日発行、象形文字編集室、送料込1000円)の購読をご希望の方はメール(panchan@mars.dti.ne.jp)でお知らせください。
発売は限定20部。部数に達し次第締め切り。
なお「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)とセットの場合は2000円
「リッツッス詩選集」(作品社、4400円、中井久夫との共著)とセットの場合は4500円
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」「リッツッス詩選集」「雨の降る映画を」三冊セットの場合は6000円
です。


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