高谷和幸『シアンの沼地』(思潮社、2014年07月25日発行)
高谷和幸『シアンの沼地』はふたつの章(?)に分かれているような体裁になっているが、ほんとうはもっと幾つかのものの集まりなのだろう。「 ふりそそぐGの音を聞きながら」のなかに、次の部分がある。
とてもおもしろい。「蕪村俳句集」という具体的な「もの」が、そこに書かれた「名前」によって、それまでになかった「蕪村俳句集」に変わっていく、その予感(予兆?)のようなものが書かれている。
何かが引き継がれ、何かが切り離される。あるいは、何かが別なものによって引き継がれていく。そのときの、一種の「変形」の予感、そしてその「変形(変化)」の奥で新しく生まれる接続……。
毛筆から鉛筆書きへ。一年一組から二年C組へ。和子から美代子へ。その「接続」を思うとき、高谷は奇妙なものに目をとめている。「子」という文字の形。
このことばを読むとき「子」という「文字の形」だけではなく、その文字を書いた二人の肉体が見える感じがする。筆を、鉛筆をもって動く手。そのときの姿勢まで見える感じがする。それが
とつづくと、うーん、そこに高谷の肉体までが重なってくる。そうか、筆記具を置く場所というのは、決まっているのか。右手の方か、左手の近くか。人によって癖があるだろう。その癖というのは肉体の動きそのものなのだが、こういうことがことばになって動くのは、高谷が筆記具の位置を決めていたんだな、と思う。
この肉体の癖は肉体なんだけれど。その癖というのは、外形にあらわれる(右側に置く、左側に置く)けれど、そういう外形にあらわれる「知らず知らず(無意識)」こそが「内面」なんだろうなあ。
「自分の分身」は、まあ、比喩だ。そこに比喩が出てくるから「内面」や「意味」という抽象的なことばも動きやすくなっている。で、その「内面」が、なんと、
「場所(空間)」へと転換する。そしてそのあと直後に「時間」を持ち出し、それを「過ごす」という「動詞」で統一する。「動詞」を持ち出すと必然的に、そこに肉体があらわれてきて、そこに書かれているのが肉体の外の空間(二階の部屋)なのか、その部屋にいて時間を過ごしている肉体の内部(知らず知らず、の無意識)なのかそれをつなぐ「意味」なのか、、わからなくなる。
それは区別するようなものではなく、むしろ、融合させた形、統一させた形でつかみとるものなんだろうなあ。「意味」は論理的というよりも直感的な「もの」のような何かだ。あとから少しずつ修正してととのえるものなんだろうなあ。
「時間」「連想」ということばが、そのあとのことも自然に動かす。
この区別のない感じが、そのまま高谷と和子、美代子の区別をなくしていく。高谷は和子になり、美代子になり、自分自身になって、たぶん高谷の知っている二階の部屋にいる。そこには机の置きかたや何かも決まった形でととのえられている。
これは日射しがひさしにさえぎられて半分だけ入ってきているということかな? はっきりとはわからないけれど、そこに書かれている「身体」と「半分」が妙に肉感的である。和子と美代子の肉体も半分ずつそこに入ってきている。それは高谷の手元に触れる感じ。そこには和子と美代子のしかいなくて、それは二人で一人(一人ずつは「半身」)ということかもしれないけれど、そういう「半身の二人」という現実には存在しない「内面」の印象を統一しているのが高谷だから、二人しかいなくても、二人が存在するためには高谷が必要なのだ。高谷という「内面」が必要なのだ。「内面」を抱え込む高谷という「肉体」も必要になるのだ。
ここでは、「内面」が主役になっているが、そしてそれは「明確なことはわかりようもない」のだが、○印をつけて渡された(受け取った)という「動詞」が「伝えられる」という「動詞」にかわって動くので、何かがわかったような気がする。「意味」はこのあたりにあるんだろうなあ、と感じられる。「動詞」があるから、それが「わかる」。「動詞」は何かを理解するときの基本なのだ。
ここで、こんな例は適切とは言えないけれども、たとえば「水を飲む」の「飲む」という「動詞」。それはどんな外国語であり、それを肉体で実践して見せると、ひとに伝わる。コップに入れた水を飲んで見せる。飲みながら「飲む」というと、それがたとえば「drink 」ということばであることが伝わり、またその「水」が安全であるということも伝わる。「動詞」は肉体を「意識(意味)」にかえる装置のようなものである。
印をつける(動詞)、渡す(動詞)、受け取る(動詞)があって、それを目撃した(動詞/この目撃するは間接的にではあるけれど)高谷(わたし)に、そのときの何か(はっきりしない意味/言語化されない意味)が「与えられる」(動詞)という具合に、「内面」が「肉体」を動かすので、「知らず知らず」それが「わかった」ような気持ちになる。「意味(内面)」を伝えようとしている/「内面(感情の意味)」を伝えたという「現場(証拠)」を目撃したような気持ちになる。
その「動詞」はいっしょに起きたことではなく、時間をへて、起きている。そして、その「時間」というのは実は高谷のなかで生まれたものである。「意味」は時間を超えるのだ。
「時間」は、また、ほかのことばを呼びさます。
「忘れる」。何かが忘れられる。けれど、忘れることをとおして何かが伝えられる。
高谷は、和子と美代子の交流を「肉体」で追いながら、高谷自身の「内面」を耕している。そして、ことばにしている。
あ、これだけをていねいにていねいに追っていけば、とても美しい詩集になるのになあ、時間が肉体の奥を耕して、そこに和子、美代子、高谷の「地層(断層)」のようなものが見えてくるだろうになあ、と思う。
高谷が書いていることは、ちょっと欲張りすぎて、その「地層」が見えにくくなっているのが、私には残念に思える。高谷はもっと複雑なことを書きたかったのかもしれないけれど、単純なことの方が複雑よりも複雑ということもあると私は思う。
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高谷和幸『シアンの沼地』はふたつの章(?)に分かれているような体裁になっているが、ほんとうはもっと幾つかのものの集まりなのだろう。「 ふりそそぐGの音を聞きながら」のなかに、次の部分がある。
・帰る時になってYさんが本を呉れた。その一冊
は岩波文庫で、その本を所有した二人の名前が書
かれた「蕪村俳句集」(昭和三十二年第十七刷)だ
った。毛筆で書かれた、一年一組。和子。鉛筆書
きの二年C組。美代子。どちらから、どのように
この本は贈与されたのか? 「子」という横一文
字に移るまでの跳ね字が二人に共通した癖がある
ように思える。知らず知らずに机のきまった場所
に置く筆記具(自分の分身)が内面に意味を持ち
出すような字だった。それは、二階の薄暗い部屋
で過ごす一人の時間を連想させた。いつ始まって、
いつ終わるのかかいもく見当がつかないでいる空
間に、窓から漏れる弱い日射しが身体の半分を手
元に置いている。
とてもおもしろい。「蕪村俳句集」という具体的な「もの」が、そこに書かれた「名前」によって、それまでになかった「蕪村俳句集」に変わっていく、その予感(予兆?)のようなものが書かれている。
何かが引き継がれ、何かが切り離される。あるいは、何かが別なものによって引き継がれていく。そのときの、一種の「変形」の予感、そしてその「変形(変化)」の奥で新しく生まれる接続……。
毛筆から鉛筆書きへ。一年一組から二年C組へ。和子から美代子へ。その「接続」を思うとき、高谷は奇妙なものに目をとめている。「子」という文字の形。
「子」という横一文字
に移るまでの跳ね字が二人に共通した癖がある
このことばを読むとき「子」という「文字の形」だけではなく、その文字を書いた二人の肉体が見える感じがする。筆を、鉛筆をもって動く手。そのときの姿勢まで見える感じがする。それが
知らず知らずに机のきまった場所
に置く筆記具
とつづくと、うーん、そこに高谷の肉体までが重なってくる。そうか、筆記具を置く場所というのは、決まっているのか。右手の方か、左手の近くか。人によって癖があるだろう。その癖というのは肉体の動きそのものなのだが、こういうことがことばになって動くのは、高谷が筆記具の位置を決めていたんだな、と思う。
この肉体の癖は肉体なんだけれど。その癖というのは、外形にあらわれる(右側に置く、左側に置く)けれど、そういう外形にあらわれる「知らず知らず(無意識)」こそが「内面」なんだろうなあ。
知らず知らずに机のきまった場所
に置く筆記具(自分の分身)が内面に意味を持ち
出すような字だった。
「自分の分身」は、まあ、比喩だ。そこに比喩が出てくるから「内面」や「意味」という抽象的なことばも動きやすくなっている。で、その「内面」が、なんと、
二階の薄暗い部屋
で過ごす一人の時間を連想させた。
「場所(空間)」へと転換する。そしてそのあと直後に「時間」を持ち出し、それを「過ごす」という「動詞」で統一する。「動詞」を持ち出すと必然的に、そこに肉体があらわれてきて、そこに書かれているのが肉体の外の空間(二階の部屋)なのか、その部屋にいて時間を過ごしている肉体の内部(知らず知らず、の無意識)なのかそれをつなぐ「意味」なのか、、わからなくなる。
それは区別するようなものではなく、むしろ、融合させた形、統一させた形でつかみとるものなんだろうなあ。「意味」は論理的というよりも直感的な「もの」のような何かだ。あとから少しずつ修正してととのえるものなんだろうなあ。
「時間」「連想」ということばが、そのあとのことも自然に動かす。
いつ始まって、
いつ終わるのかかいもく見当がつかないでいる空
間に、
この区別のない感じが、そのまま高谷と和子、美代子の区別をなくしていく。高谷は和子になり、美代子になり、自分自身になって、たぶん高谷の知っている二階の部屋にいる。そこには机の置きかたや何かも決まった形でととのえられている。
窓から漏れる弱い日射しが身体の半分を手
元に置いている。
これは日射しがひさしにさえぎられて半分だけ入ってきているということかな? はっきりとはわからないけれど、そこに書かれている「身体」と「半分」が妙に肉感的である。和子と美代子の肉体も半分ずつそこに入ってきている。それは高谷の手元に触れる感じ。そこには和子と美代子のしかいなくて、それは二人で一人(一人ずつは「半身」)ということかもしれないけれど、そういう「半身の二人」という現実には存在しない「内面」の印象を統一しているのが高谷だから、二人しかいなくても、二人が存在するためには高谷が必要なのだ。高谷という「内面」が必要なのだ。「内面」を抱え込む高谷という「肉体」も必要になるのだ。
若草に根を忘れたる柳かな
・毛筆でこの句の頭に○印(一年一組の和子さん
の筆跡である)がついている。萌える若草と柳の
根を忘れてしまった「生命」の勢いの違いが意識
に上ってくる。彼女はなぜこの句を選んだのだろ
うか。明確なことはわかりようもないが、和子さ
んから二年C組の美代子さんに伝えられた何かが
ここにあり、それが時間を超えてわたしにも与え
られる。「忘れる」という土の層。
ここでは、「内面」が主役になっているが、そしてそれは「明確なことはわかりようもない」のだが、○印をつけて渡された(受け取った)という「動詞」が「伝えられる」という「動詞」にかわって動くので、何かがわかったような気がする。「意味」はこのあたりにあるんだろうなあ、と感じられる。「動詞」があるから、それが「わかる」。「動詞」は何かを理解するときの基本なのだ。
ここで、こんな例は適切とは言えないけれども、たとえば「水を飲む」の「飲む」という「動詞」。それはどんな外国語であり、それを肉体で実践して見せると、ひとに伝わる。コップに入れた水を飲んで見せる。飲みながら「飲む」というと、それがたとえば「drink 」ということばであることが伝わり、またその「水」が安全であるということも伝わる。「動詞」は肉体を「意識(意味)」にかえる装置のようなものである。
印をつける(動詞)、渡す(動詞)、受け取る(動詞)があって、それを目撃した(動詞/この目撃するは間接的にではあるけれど)高谷(わたし)に、そのときの何か(はっきりしない意味/言語化されない意味)が「与えられる」(動詞)という具合に、「内面」が「肉体」を動かすので、「知らず知らず」それが「わかった」ような気持ちになる。「意味(内面)」を伝えようとしている/「内面(感情の意味)」を伝えたという「現場(証拠)」を目撃したような気持ちになる。
その「動詞」はいっしょに起きたことではなく、時間をへて、起きている。そして、その「時間」というのは実は高谷のなかで生まれたものである。「意味」は時間を超えるのだ。
「時間」は、また、ほかのことばを呼びさます。
「忘れる」。何かが忘れられる。けれど、忘れることをとおして何かが伝えられる。
高谷は、和子と美代子の交流を「肉体」で追いながら、高谷自身の「内面」を耕している。そして、ことばにしている。
あ、これだけをていねいにていねいに追っていけば、とても美しい詩集になるのになあ、時間が肉体の奥を耕して、そこに和子、美代子、高谷の「地層(断層)」のようなものが見えてくるだろうになあ、と思う。
高谷が書いていることは、ちょっと欲張りすぎて、その「地層」が見えにくくなっているのが、私には残念に思える。高谷はもっと複雑なことを書きたかったのかもしれないけれど、単純なことの方が複雑よりも複雑ということもあると私は思う。
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。